言語化に価値を感じている、その気持ちはよくわかる
言語化には確かに大きな価値があると、私も思っています。
なんとなく理解しているようなこと、雲をつかむような感覚を、ビシッと言葉にする。
そうすると「あ、これが目指すべき方向だったんだ」とか、「これが自分たちのあり方の本質だったんだ」とか、気づけるんですよね。
目標に向かうスピードが増したり、視界が明らかになって、目指す場所がはっきりしたりする。
自分たちの足元がどういうものなのかを確認できると、そこからさらに前へ進んでいけるようになります。
だから私も、自分がやっていることを、なぜ何のためにやっているのか、どこに向かっているのか、社会の中でどんな意味があるのか、言葉ではっきり説明できるようになりたいと、常々思っているんです。
世俗の世界をうまく生き抜いていくために、言語化はとても大事な力だと、私自身も感じています。
言語化はラベルを貼ること。でも、そこからはみ出すものがある
私たちは生きている世界を見て、これはこういう名前でこういう使い道だとか、この人はこういう性格だからとか、いろんなものに言葉のラベルを貼っています。
これも言語化ですよね。
いちいち深く考えていたら、一日があっという間に終わってしまいます。
だからラベルを貼って判断を省くことで、負担を軽くしている面もあるんです。
ただ、そのラベルの中に、ありのままのそのものが全て込められているかというと、そうではないんですね。
ラベルの外側に漏れているものが、必ずあるんです。
わかることは、分けること
何かを理解してわかるというのは、”分ける”ことなんです。
これとこれは違う、これはこれと似ている、と言葉で区切っていく。
それによって私たちは物事がわかるようになります。
でも本来は、簡単には区切れないものを、仮に区切って理解しているだけなんですね。
これを仏教では「分別」と言います。
俗世では分別があるというと、物分かりがよくていい人だと受け取られます。
しかし、仏教の世界では、分別があることはあまり良くないこととされていて、むしろ「無分別」の方がいいと言われるんです。
言葉の使い方自体が、まるで逆なんです。
仏さんの目線としての「無分別」
無分別というのは、そもそも簡単には分けられない、境目のない、縁や因果でつながり合っているこの世界を、そのままに見る見方のことです。
分別して分けてしまうと、その言葉のラベルの中に全部押し込めて、わかったような気になってしまう。
そうすると、本来分けられないものを分けたことによって、そこからはみ出しているものが見えなくなるんです。
さらに分別は、物事と物事の対立を生み出すこともあります。
そういう中で、私たちは自分で自分を苦しめる仕組みを作ってしまっている、というのが分別の世界なんです。
無分別は、そういうバイアスや色眼鏡を超えて、すべてをすべてとしてありのままに見ていく見方です。
仏さんの目線というのは、そういう目線なんだと思います。
だから私は、分別していると自覚していたい
とはいえ、その無分別の見方をいつもの生活の中でずっとしていたら、生きていくのに大変支障があります。
だから私たちが心がけるべきは、自分は分別して世の中を見ているんだと自覚することかなと思うんです。
分別して理解したと思っていることの、その外側に、まだまだそのもの自体のありのままの全様があるんだよ、と。
そう思いながら、物事を見て、理解して、話していく。
そういうことが大切なんじゃないかと思います。
まとめ
言語化は世俗を生きるうえで確かに大事な力です。私もその力が欲しい一人です。ただ、言葉で分けたその外側に漏れている本当の姿があるということに、時折立ち止まって思いを致せたらいいなと、いまはそう考えています。
- 言語化には、目指す方向を明確にして前へ進む力を与えてくれる価値がある
- ラベルを貼って理解することは負担を軽くするが、その外側には必ずはみ出すものがある
- わかることは分けること。仏教ではこの「分別」より「無分別」がよいとされる
- 大切なのは、自分は分別して世界を見ていると自覚し続けること




