約90年ぶりの公開処刑になるかもしれない
先週、アメリカのヘグセス国防長官が、ある死刑囚の銃殺刑をライブ配信すると発表しました。
この死刑囚は、2009年にテキサス州の『フォートフード陸軍基地』で銃を乱射し、13人を殺害、32人を負傷させた元陸軍の軍医です。
刑の執行は12月3日、事件のあったその基地で予定されているそうです。もし実際に配信されれば、アメリカでは約90年ぶりの公開処刑になるといいます。
当然、この計画には各所から批判が出ています。死刑判決そのものは支持している共和党の議員の中にも、ライブ配信には否定的なコメントを出している方がいるようです。
ここで死刑制度の是非そのものを論じるつもりはありません。僕が考えたいのは、人の死を見せ物にするということについてなんです。
処刑がお祭りになっていた時代
僕は毎日、アメリカの宗教ニュースのサイトから記事を集めてもらっているのですが、その中に、このニュースを受けてキリスト教の立場から書かれた論考が載っていました。
その論考によると、記録に残るアメリカ最後の公開処刑は、1937年のミズーリ州での絞首刑だそうです。
その前の年にケンタッキー州で行われた公開の絞首刑には、なんと2万人もの人が集まったという記録もあるそうです。
では、なぜ公開処刑はなくなったのか。死刑を研究している専門家によると、理由は2つあるそうです。
1つは、処刑が失敗する場面を目撃する人が増えたこと。もう1つは、処刑がお祭りのようになってしまったことです。
人の死を前にして厳粛になるどころか、拍手が起きたり、家族でピクニックに出かけるような雰囲気になっていた。それに多くの人が嫌気が差すようになった、と書かれていました。
イギリスの例も紹介されていました。ロンドンの博物館の展示によれば、注目を集める公開処刑には数万人もの群衆が集まり、ロンドンの経済に大きな影響を与えたそうです。
絞首台での長い待ち時間は、事件を扱った読み物や軽食を売る露天商にとって、非常にもうかる商売になった。犯罪や処刑の記録は安価なパンフレットやビラに印刷され、ある殺人事件を扱ったものは25万部も売れたといいます。
イギリスでは17世紀の終わりから19世紀の初めにかけて、死刑の対象になる罪が50から200以上、4倍ぐらいに増え、当時の刑法は「血の法典」と呼ばれるほどだったそうです。
なんというか、異様ですよね。
公開処刑は見せしめ、つまり犯罪を防ぐためとも言われていました。でも、何度も処刑が行われていたこと自体が、抑止力にならなかったことを示している。記事はそう指摘しています。
18世紀には、奴隷貿易の廃止に尽くしたことで知られるイギリスの政治家ウィルバーフォースをはじめとするキリスト教徒たちが、この状況を変えようとしました。
彼らが考えたのは、暴力を娯楽にすると社会全体が荒んでいく、ということでした。だから死刑の対象になる罪を減らそうとし、動物を戦わせて楽しむ見世物にも反対したそうです。
目を閉じていようと決めた若者の話
記事には、アウグスティヌスが書いた『告白』に出てくる古い話も載っていました。
アウグスティヌスは、ローマ帝国時代のカトリック教会の司教で、神学者、哲学者、説教者とも言われる人です。350年から430年ごろに生きた方です。
その本に、ある若者が出てきます。彼は人と人とが殺し合う剣闘士の試合に反対していました。
ところが友人たちに、半ば無理やり闘技場へ連れて行かれてしまいます。それでも彼は、ずっと目を閉じていよう、何も見ないでいようと心に決めていたんです。
しかし会場に大きな歓声が上がった瞬間、気になって思わず目を開けてしまう。そして流れる血を見た途端、その残忍さに心ごと飲み込まれてしまったそうです。
目をそらすどころか夢中になって見入り、それをきっかけに自分から闘技場へ通うようになって、さらには他の人まで誘うようになったといいます。
反対していた人でさえ、熱狂に触れると全く逆の立場になってしまう。人の心は、刺激の強いものに染まりやすいんだと思います。
身近にある「暴力を見せ物にする」構図
日本には死刑制度はありますが、公開処刑は行われていません。アメリカでも本当に行われるかは、まだわかりません。
だから遠い国の話だと思うかもしれません。でも、暴力を見せ物にするという構図は、僕たちの身近にもあると思うんです。
近頃、喧嘩のような雰囲気で人を集めて、視聴者を増やしている動画が話題になったりしていますよね。怒鳴り合ったり、挑発し合ったり、掴みかかってみたり。
僕も、話題になり始めた頃に多少見たことがあります。正直に言うと、本当に気分が悪くて、嫌な気持ちになりました。
ああいう刺激的なものが好まれるのはわかるんです。ただ僕は、ヤンキーの世界というか、オラオラした世界がものすごく苦手なので。
ひとつ断っておくと、純粋な格闘技も殴り合い蹴り合うのだから同じじゃないか、と思われるかもしれません。でも僕は、スポーツとして成り立っているものはいいんじゃないかなと思っています。
理由は3つあります。
- お互いの合意があること
- ルールと安全管理が適切で、審判が危険なときに止めること
- 相手への敬意があること
武道では礼に始まり礼に終わると言いますし、試合が終わればノーサイドで、お互いの健闘を称え合う。挑発のあるプロレスのようなものも、ある程度の合意があればいいのかなと思っています。
喧嘩のような動画にも、合意はあるのかもしれません。でも技術や鍛錬より、アテンションを集める怒りや挑発そのものに主眼が置かれ、どんどん過剰になっていくことが売り物になっているんじゃないか。そこが良くないと思うんです。
どこで線を引くかは難しいかもしれません。それでも、合意とルールと安全、そして敬意。この3つがどれだけ保たれているかを物差しにしたらいいんじゃないかと思います。
怒りの炎に薪をくべないために
仏教には三毒、心の中の3つの毒という教えがあり、その1つが瞋恚 ── しんに。仏教でいう怒りの心。貪(むさぼり)・痴(おろかさ)と並ぶ三毒の1つ、怒りの心です。
「瞋恚の炎」と言われるように、怒りは火のように燃え盛るものに例えられてきました。僕たちの欲や怒りといった煩悩は、燃え上がってしまうものなんですよね。
人が怒鳴り合い、痛めつけ合う姿を見ていると、それが僕たちの怒りの炎に薪をくべることになってしまいます。
人間には本能があります。でも本能は、今の時代、必ずしも正しいものではありません。相手を傷つけることにつながってしまうこともあります。
そうした刺激を受けるうちに、暴力をかっこいい、強い、ああなりたいと思ってしまうのは恐ろしいことです。暴力性や挑発、煽りがエンターテインメントとして過剰に消費されることを、僕はすごく危惧しています。
アウグスティヌスの若者だって大人です。大人でも染まるし、子どもでも誰でも染まってしまうんじゃないかと思います。
子どもたちはまだ、何を見るかを自分で選ぶ力が育ちきっていません。目の前に流れてきたものを、そのまま受け取ってしまうこともあります。
アメリカのような国で公開処刑が出てきそうだという雰囲気は、ここのところずっとありました。なかなかまずい時代だなと感じています。
僕たちは動物として、暴力的な本能や、刺激の強いものを好む特性を持っています。それは否定できないと思っていますし、前提として受け入れたうえで、理性をもってどう生きていくかが問われているんだと思います。
今回の記事はキリスト教の立場のものでしたし、バチカンも危惧するコメントを確か出していたと思います。こういう時代に正気でいるために、宗教や宗教者の役割をもう一度考えたいんです。
大きなニュースは、見た人や市民に浸透して、いつか自分たちの身の回りの出来事につながっていきます。
だからこそ、僕のような市井のお寺の一住職も含めて、自分の縁の範囲で発信していくことが大事だと思っています。宗教的な立場から、これは良くないと伝えることです。
ネットに載せることだけが発信ではありません。リアルのやりとりの中で、身近な人に危惧を伝えていく。ネットやAIでいろんな情報が広がる今だからこそ、もっともっとやっていかなきゃいけないなと、改めて思いました。
皆さん、今日も良い一日をお過ごしください。ではまた明日。
まとめ
アメリカの公開処刑ライブ配信計画をきっかけに、人の死や暴力を見せ物にすることの怖さを考えました。人の心は刺激の強いものに染まりやすいからこそ、僕は宗教者として身近な縁の中で声を上げていきたいと思っています。
- かつての公開処刑はお祭りのような娯楽になり、抑止力にもならなかった
- 『告白』の若者のように、反対していた人でも熱狂に触れると染まってしまう
- 格闘技と喧嘩動画を分ける物差しは、合意・ルールと安全・敬意の3つ
- 暴力の消費は怒りの炎に薪をくべる。だからこそ身近な縁での発信が大事




