反対していた若者は、なぜ剣闘に夢中になったのか
横山瑞法さんは前日の配信で、アメリカで公開処刑を行うというニュースをきっかけに、見たものや体験したものといった「縁」によって人の行動や考え方が変わってしまうという話をしました。
前日の配信で紹介されたのは、アウグスティヌス ── 4〜5世紀に活躍したキリスト教の神学者。自伝『告白』で、若き日の迷いや友人の体験を率直に書き残していますが伝える若者の話です。人と人とが殺し合う剣闘の見せ物に反対していた若者が、友人に半ば強制的に会場へ連れて行かれます。
若者は剣闘の最中は目を閉じていようと決めていました。ところが観衆の歓声につられて目を開けてしまい、そのまま殺し合いに夢中になってしまったといいます。
それ(剣闘)を自分の目で見て、もうあれでしょうね、アドレナリンが出てしまうんでしょうね。
横山さんは、大人でも子供でも、人は本能的に反応して染まってしまうものだと振り返ります。理性もおそらくその程度のものだという話のあと、思い出した言葉があるとして、この日の本題に入ります。
人間っていうのはまあそんなもんなんですよね。あの理性っていうのも、おそらくそんなもんなんですよね。
「千人殺してきなさい」――歎異抄の問答が示すもの
横山さんが思い出したのは、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の言葉です。横山さん自身は日蓮宗の僧侶ですが、親鸞聖人の言葉にはいくつも心に響くものがあり、覚えているといいます。
その言葉は、弟子の唯円が親鸞聖人の言葉を書き留めたとされる歎異抄 ── 親鸞の没後、弟子の唯円が師の言葉を記し、教えの誤解を嘆いてまとめたとされる書物。鎌倉時代後期に成立しましたに出てくる問答です。
歎異抄の問答では、親鸞聖人が唯円に「私の言うことを信じるか」「私の言うことに背かないか」と尋ね、唯円はどちらにも「はい」と答えます。すると親鸞聖人は「それなら人を千人殺してきなさい。そうすれば往生は間違いない」と言いました。
驚いた唯円は「千人どころか一人も殺せそうにありません」と答えます。そこで親鸞聖人は、唯円が人を殺せないのは心が良いからではなく、殺すべき縁がたまたまないだけだと諭したといいます。
問い
親鸞聖人が「信じるか」「背かないか」と尋ね、唯円は「はい」と答える
命令
「人を千人殺してきなさい。そうすれば往生は間違いない」
返答
唯円は「一人も殺せそうにありません」と答える
諭し
殺せないのは心が良いからではなく、殺すべき縁がたまたまないだけ
親鸞聖人はさらに、どれだけ人を傷つけまいと思っていても、そうなるべき縁があれば百人、千人を殺してしまうこともあると続けました。原文には「さるべき業縁の催さば、いかなる振る舞いもすべし」という一節があります。
横山さんによれば、この一節は「周りにそうなるべき縁が整えば、人間はどんな振る舞いでもしてしまうものだ」という意味です。
この問答は、阿弥陀様に救われるのだから悪いことをしても構わないという考えをめぐる話の中に出てきます。ただし横山さんは、親鸞聖人が伝えたかったのは悪いことの言い訳ではなく、人間という存在への深い眼差しだと考えています。
「自分だけは大丈夫」と言い切れるか
横山さんは、歎異抄のこの言葉を思い出すたびに、自分自身もドキッとするといいます。人を傷つけたくない、人殺しなど絶対にしたくないと思っていても、それが理性や心の良さだけで保たれているのかには自信がないからです。
それっていうのは本当に自分の理性だけでできるのか、自分の心が良いからできるのかというと、まあ自信がないですよね。
今それ(人を傷つけること)をしていないのは、たまたまそういう縁に出会っていないだけなのかもしれない。
横山さんは、アウグスティヌスが伝える若者も同じだったと重ねます。剣闘に反対していたのに、断り切れずに会場へ行き、歓声という縁に触れて夢中になってしまいました。
縁という見方に立つと、悪い人への見方も少し変わると横山さんは話します。ニュースでひどい事件を見て「なんてひどい奴なんだ」と思っても、自分がその人と同じ立場にいたら本当にそうならなかったかは、言い切れない部分があるといいます。
横山さんは、これまでで一番怖かった夢の話もしています。5、6年前に、自分が人を殺してしまう夢を見て、お化けなどとは比べ物にならない恐怖を感じたそうです。その頃に親鸞聖人の言葉を聞いていたため、それが頭にこびりついていたのかもしれないと振り返ります。
ものすごい恐怖でしたね。自分もそんなことをしてしまうことがあるのかというね。
地獄も仏も同じ心に宿る、十界互具という教え
親鸞聖人の言葉と共鳴するものが、横山さんの宗派である日蓮宗の教えにもあります。それが、天台に由来し、日蓮聖人が深めた十界互具 ── 十の世界のそれぞれが、他の九つの世界をも備えているという教え。中国の天台大師智顗が説き、日蓮が重視しましたという教えです。
十界とは、苦しみの極致である地獄から悟りの仏の世界までを10に分けたものです。横山さんは下から順に挙げています。
十界互具の考え方では、10の世界の一つ一つの中に、十界がすべて備わっています。つまり人として生きる私たちの心の中にも、地獄や餓鬼、修羅の世界があるということです。
横山さんは、心の中の地獄や修羅は、親鸞聖人風に言えば「縁が催せば現れてくる」ものだと説明します。親鸞聖人の「さるべき業縁の催さば」を日蓮の教えで言い直すと、十界互具につながるのではないかと考えています。
縁は選べない、それでも良い縁を手繰り寄せる
十界互具では、心の中にあるのは地獄や修羅だけではなく、菩薩や仏の世界もあると考えます。地獄の世界にさえ仏の世界があり、どんなに辛い縁の中にいても、良い縁に触れれば仏の心が立ち現れてくるといいます。横山さんはこれを大きな希望だと語ります。
一方で難しいのは、縁が思い通りにならないことです。横山さんは、縁は自分で選べるようで実は選べておらず、どれだけ気をつけていても思いがけない縁や避けられない縁に出会ってしまうと話します。
だからこそ横山さんは、自分は大丈夫だと過信しないことを挙げます。そのうえで良い行いを心がけ、良い縁をできる範囲で手繰り寄せる努力をすることは、縁をすべて選びきれなくてもできると考えています。
思いがけない縁、避けられない縁には出会ってしまう。だから自分を過信しない
良い行いを心がけ、自分のできる範囲で良い縁を手繰り寄せる
横山さんは前日、こんな時代に正気でいるためにという話をしていました。この回の話を通して改めて考えた正気とは、自分の心に地獄や修羅のような心も、正反対の仏の心もあると知っていることだといいます。
両極端を知っている上で、自分自身は弱い愚かな者であるということを知りながら、流されないようにいること。
横山さんは、それが正気でいることにつながる唯一の道かどうかはわからないとしつつ、一つの道ではないかと話して、この回を締めくくっています。
まとめ
親鸞聖人の「殺すべき縁がたまたまないだけ」という言葉と、日蓮宗の十界互具は、どちらも人の心が縁次第で地獄にも仏にもなることを示しています。横山さんは、自分の弱さを知り、選べる範囲で良い縁を手繰り寄せることに、正気でいる道を見ています。
- 歎異抄の問答で、親鸞聖人は人を殺せないのは心が良いからではなく縁がないだけだと唯円に諭した
- アウグスティヌスが伝える若者のように、反対していた人でも縁に触れれば染まってしまう
- 十界互具では、人の心に地獄から仏までの10の世界がすべて備わっていると考える
- 縁はすべて選べないからこそ、自分を過信せず、できる範囲で良い縁を手繰り寄せることが大切だと語られた



