同い年3人はどう出会ったのか
ローカル企業経営ラジオの第24回は、株式会社ナカムラ取締役専務でプロデューサーの中村慎吾さんを迎えたゲスト回です。パーソナリティは、創業134年の株式会社アナテック・ヤナコ7代目予定の桺本頌大さんと、創業114年の小平株式会社の小平勘太さんです。
3人は同い年で、普段から交流があります。まずは、小平さんと中村さんの出会いから話が始まりました。
きっかけは、名古屋で開かれた朝日新聞社系のアトツギイベントの前日の飲み会でした。共通の知人に声をかけられ、そこで初めて顔を合わせたと言います。
戸谷さんと木村さんからは「武闘派の経営者が来るから、お前来い」という風に言われて。
鹿児島出身の小平さんが「強い人が来る」と紹介されていたようです。その場で中村さんは、小平さんからエネルギーの話や事業のアドバイスを受けたと振り返ります。
小平さんすごい幅広いじゃないですか、業種自体も。だから、いろいろとそこの部分で「うわぁ、為になるわ」と思いながら聞いてました。
その縁は今も続いており、アナテック・ヤナコが中村さんの飴事業の海外進出を手伝う関係にもなっています。
遊び呆けた学生が家業に戻るまで
続いて、中村さんの自己紹介と会社の説明に入ります。株式会社ナカムラは、名古屋市西区で創業60年を超える駄菓子の卸問屋です。この地域は駄菓子のメーカーや卸問屋が集まる場所だと言います。
学生時代の中村さんは、ファッションと音楽とスポーツが好きな、自由な人だったと語ります。
もう本当に、友達と音楽をディグったりだとか、ファッションでどうこうとかっていう風にやってるような人でした。
大学卒業後はジーンズメーカーに就職し、その後エンタメ系のマネジメントを行う会社に転職します。そこで仕事観を考えさせられ、家業に戻ることになりました。家業に戻ったのは7年ほど前、2017年から2018年ごろのことです。
注目したいのは、中村さんが甘いものを得意としていない点です。お菓子屋の家に育ちながら、家業を継ぐ予定も特になかったと言います。
そんな状態なのになんでそもそも実家に帰ろうと思ったんですか?
僕サラリーマンに精神的に向いてないなっていうのがあって。人に指図されるとか、抑制されるってことにすごい向いてないというか。
ゼロから起業するより、親のベースがある家業で自分の可能性を高めるほうが向いていると考え、復帰を決めたと語ります。中村さんはこれを「ネガロック」「反骨心」という言葉で表現しました。
親から継げと言われたことは一切なく、「自由に」というスタンスだったそうです。この点は3人に共通していて、言われていたら帰ってこなかったかもしれない、という話で盛り上がりました。
帰ってこい帰ってこいと言われてたら、多分今も帰ってきてないかもしれないですよ、僕も。
まさしく同じです。本当に。
前職の経験が、今の企画発想につながる
中村さんは、家業に戻る前の6年ほどの社会人経験で、主にマーケティングを学んだと言います。エンタメ系の会社では、その業界の裏表も見てきたと振り返ります。
桺本さんが「マーケティングと社会の歪みを覚えて帰った」と表現すると、中村さんも「いろんな裏表を見て」と応じました。当時のメディアの経験や、遊んでいたカルチャーの背景が、今の事業につながっているようです。
結構自分の好きなことを仕事にしてるのが近いかなっていうのと、混ぜることを得意としてるので、企画発想法もそれが生きてるなっていう。
家業ではファブレスメーカーとして飴作り自体は行っていません。戻った当初は、いろいろなメーカーを回り、お菓子作りや飴作りの基本を学んだと言います。
父が15年前に始めた「まいあめ」の原型
中村さんが手がける「まいあめ」は、飴の中に絵柄やメッセージを入れる組み飴のオーダーメイドサービスです。企業の広告やノベルティに使われています。
このサービスは中村さんが立ち上げたものではなく、父親が15年ほど前にウェブ上で始めたものです。当時としてはかなり早い取り組みでした。
うちの親父、営業スキルがゼロって言い方の方がいいと思うんですけど。業界でもなんか一匹狼みたいな人だったんで。
対人コミュニケーションが得意でない父親が、ウェブで将来仕事ができたらいいという思いから、地道に続けてきたサービスでした。中村さんが戻ってきたときには、すでに売上3000万ほどがあったと言います。
一方で、当時のサイトは「絶妙にダサかった」と中村さんは振り返ります。名前は「まいあめ工房」で、和柄や桜を散りばめた、いかにも伝統を前面に出したビジュアルだったそうです。
飴を「メディア」として売る、という再定義
後継ぎ甲子園の発表でも「アメ屋じゃないアメ屋」がキーワードになったと言います。事業の価値の再定義は、中村さんが戻ってから、特にまいあめで進んだテーマでした。
父親はもともと10年ほど前から、飴はコミュニケーションツールだと話していたと言います。中村さんが戻る直前ごろには、グリコが「シェアハッピー」などを掲げ、お菓子を幸せやコミュニケーションとして定義する流れもありました。
そこで中村さんは、飴を「アメちゃん」と擬人化する文化に着目し、飴が会話を生み出すきっかけになると考えます。
食品としてではなく、メディアを扱うような感覚に社内が変わっていったと言います。この再定義によって、顧客層も大きく変わりました。
父親の代の顧客はほとんどが入れ替わり、今は広告代理店やデザイン会社、企画会社が中心になっています。2年以内のリピート率は60%を超えるといいます。
当初は10万円以下で決裁が下りることを踏まえ、若い企画・PR・広報・総務の担当者にターゲットを絞っていました。その層が年齢を重ねてもリピートし、結果としてターゲットが自然に広がっていったと語ります。
問屋業とまいあめ、利益で見た主力事業
桺本さんが、今はまいあめが主力事業なのかと尋ねると、中村さんは売上と利益で見え方が違うと答えます。
売上の比率では、今でも問屋業のほうが多いと言います。ただし利益で見ると事情が変わります。
問屋業は利益の部分でいうとだいぶ低いので、まいあめの事業の方が利益ベースでいうとかなり主力になってますね。
中村さんが後継ぎとして戻ってから、まいあめ事業の数字は大きく伸びました。
新規事業だけを派手に打ち出すのではなく、本業も伸ばしている点を小平さんは面白いと評価します。一方で、手作業で作っているため、売上のパイに限界があることが今の課題だと中村さんは話します。
職人と組む、飴づくりの担い手問題
飴は地元の職人と組んで作ることが多いと言います。ファブレスでも、供給量を自在に増やせるわけではありません。
職人ごとに得意分野があり、文字が得意な人やキャラクターが得意な人がいるため、そこを棲み分けているそうです。今は40代の若手職人が育ってきて脂が乗ってきた時期でもあります。
ただし、その次の世代の育成が課題です。育成にはお互いの投資が必要で、さらに食品ゆえの衛生管理の対応も欠かせません。
規制や認証が年々厳しくなる中、勉強会を開くなどして対応していると言います。職人との関係は、運命共同体のようなものになりつつあると中村さんは語ります。
この地域は駄菓子が盛んなエリアですが、担い手の減少は深刻です。メーカー数はそれほど減っていない一方で、卸問屋は全盛期の4分の1ほどまで減っているといいます。
光るキャンディーとIPコラボの現在地
新しいプロダクトの話題では、中村さんが「光るキャンディー」を紹介します。
LEDのスティックの先端に飴をくっつけ、金型で押してキャラクターや星形にする商品です。子どもが夢中になって舐めるといいます。「ちいかわパーク」など、さまざまな場所で取り扱われています。
すごいなんかアメリカのお菓子みたい。キラキラみたいな。
集客の多くはウェブ経由です。IPを持つ会社やアニメイトなどの取引先から「こういうキャンディーを作りたい」と問い合わせを受け、どうすれば売れるかを一緒に作り上げていくと言います。
飴専門のデザイナーは社内にいて、飴やデザインへの理解が深いことが強みだと言います。他のお菓子屋やメーカーとやり取りするより話が早いと言われることが多いそうです。
そこら辺のリテラシーが高いのが多分強みでもありますね。
反発はどこで起きたか、社内浸透の実際
小平さんは、事業のあり方や顧客を変える「リフレーミング」は、跡継ぎにとって難しいことだと指摘します。始めた当初、社内の反発はなかったのかと尋ねました。
意外にも、飴がメディアになるという方向性自体は、社内でも共有されていた考えだったと言います。企画性が高い商品だったこともあり、そこへの反発はなかったそうです。
むしろ反発が出たのは職人からで、なぜこんな難しいものを作らなければいけないのか、という声があったと言います。
そこで中村さんは、職人が好きなアーティストのライブグッズを作る機会をつくるなど、モチベーションを上げる工夫をしました。実績と数字が増えるにつれ、面白いと認めてもらえるようになったと語ります。
親が突然いなくなった初年度の苦労
一見すると順調な成功譚に、小平さんは「大変だったことはないのか」と踏み込みます。中村さんは、これまであまり話していないという苦労を明かしました。
中村さんが戻ってきた瞬間、父親は別の会社の役員になり、家業の仕事を一切見なくなったと言います。代表取締役ではあるものの、口出しをしませんでした。
うちの親父が僕が戻ってきた瞬間に、別の会社の役員になったんですよね。絶対喧嘩するからっていうので、わざと出てったって今言ってるんですけど。
いきなり経営を見なければならなくなった初年度、中村さんは数字を大きく落としました。母親からも小言を言われ続けたと振り返ります。
今となっては、その経験は良かったと中村さんは語ります。ファイナンスを勉強し、会社の棚卸しをして、何が足りないかが明確になったからです。
桺本さんは、承継の場面で親がいて何もできず鬱屈するより、いっそいなくなるほうがいいのかもしれない、と自身の経験を踏まえて応じました。
中村さんは、この距離の取り方のおかげで父親と喧嘩せずに済み、仲が悪くならなかったと語ります。事業を伸ばしたことで、父も何も言わなくなったと言います。
もう親父も本当に何も言わなくなりました。
次回への引き、SNSと採用の裏側
1回目のエピソードはここで区切られます。桺本さんは、次回で話したい内容を予告しました。
次回は、PRやSNSの活用、そして採用の話が中心です。中村さんは以前、外部のサービスを使わず、社内のホームページだけで採用を行っていたといいます。
SNS関連では、Instagramの創業者や、ベッカムの息子から注文が来たというエピソードにも触れる予定です。売上を3倍、利益を5倍にした裏側も掘り下げるとのことでした。
まとめ
甘いものが得意でない跡継ぎが、飴を「メディア」と再定義し、家業のまいあめ事業を利益ベースで主力に育てた回でした。親が距離を取ったことで生まれた苦労と成長も、率直に語られました。
- 中村さんはサラリーマンより家業が向いていると考え、親のベースを活かす道を選んで復帰した
- 飴を「食品」ではなく「メディア」と再定義したことで、顧客が広告・デザイン・企画会社へと入れ替わった
- 売上は問屋業が多いが、利益ではまいあめ事業が主力になり、復帰後に売上3〜4倍・利益5倍に伸びた
- 職人との関係や担い手の育成、衛生管理への対応が今後の課題として残っている
- 復帰と同時に父が経営から離れ、数字を落とした初年度が、経営を学ぶ「かがむ時期」になった





