独学のリンカン、25歳で議員・27歳で弁護士のダブルワークへ
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リンカンは独学で法律を学び、政治家と弁護士を目指す野心を秘めていました。24歳のときに一度出馬して落選したものの、25歳でイリノイ州議会議員に当選します。
当選した時点ではまだ弁護士資格を持っていませんでした。しかし27歳の1836年にイリノイ州の弁護士資格を取得し、翌年には法廷に立てる公認弁護士の資格も獲得します。
こうしてリンカンは、20代の中盤以降に弁護士と政治家という2つのキャリアを同時に積み始めます。学校にまともに通っていない生い立ちからすると、異例のスタートでした。
すげえな、弁護士と政治家のダブルワーク。
ただし深井さんは、当時の西部の議員や弁護士は、日本人が想像する地位よりも低かったと補足します。弁護士資格も今の司法試験ほど難しくなく、西部は荒くれ者ばかりの世界だったからです。
そんな中で、リンカンは叩き上げでありながら知的に光る存在でした。深井さんは、彼はインテリだが権力側ではないと整理します。
インテリ嫌いなんじゃなくて、権力が嫌いなだけだからね、何度も言うけど。
リンカンは州議会議員の任期が2年ごとに区切られる中、当選後も再選を重ね、4期連続で議員を務めました。2期目ごろからは弁護士資格も持った状態でした。
ホイッグ党で開発を推進、その根っこにあった信条
リンカンが所属したのはホイッグ党です。当時はホイッグ党と民主党が二大政党的な立場にありましたが、今の共和党・民主党とは立場が異なります。深井さんは、当時はホイッグ党が連邦派、民主党が反連邦派だったと説明します。
リンカンは、西部は開拓のあとに商業を興すべきだと考えていました。そのために、州が交通やインフラに積極的に介入して開発を進めるべきだという立場を取ります。
楊さんは、ホイッグ党のスタンスは、勤勉な個人が市場経済への接続や近代化を通じて社会的地位を上げていくことを可能にする点にあったと整理します。
これにリンカンは魅力を感じていたと同時に、自分がこのような社会的地位の上昇を可能にしたのが、やっぱりホイッグ党の政策が良かったんだっていうふうな認知が彼にはあるんですよね。
つまりリンカンにとってのホイッグ党支持は、自分の来歴とも重なっていました。深井さんは、彼には自分のように成功していく人間を増やしたいという純粋な気持ちもあったのだろうと話します。
州都スプリングフィールドと、はじけた開発バブル
リンカンは当選後、イリノイ州都のスプリングフィールドに移り、弁護士事務所のパートナーに迎えられて事務所を開きます。より都会へ出たという動きでした。
もっとも、この州都の人口は2579人でした。西部がいかに人の少ない土地だったかがわかる数字です。深井さんは、それでも大きな都市だと言われるほどだったと語ります。
少ない。少ないね。
リンカンは、経済基盤の脆弱なイリノイ州を開発しようと、州立銀行に多額の融資をさせて開発を進めます。開発事業計画はどんどん膨れ上がり、州議会も州債を発行して、民主党もホイッグ党もこれに賛同しました。
しかし、経済基盤が弱い中での大開発は資金面で無理があり、開発熱バブルがはじけます。土地価格は暴落し、手形は焦げ付き、州立銀行が破綻してしまいました。
ね、分不相応な規模の開発に金を溶かしてさ、回収できないで破綻するみたいな。
楊さんは、これは日本の地方創生の失敗事例にも通じる話だと指摘します。産業が育っていない土地で開発しても、回収に数十年かかるため、貸しすぎた銀行が倒れてしまったという構図です。
開発失敗を重く受け止め、政治から一度身を引く
リンカンは、多額の負債を生んだ州の総合開発計画の破綻を、かなり重く受け止めたと言います。責任逃れをするのではなく、「やってしまった」と感じていたようです。
リンカンは開発が途中で終わらないよう努めましたが、建設費のうち回収できたのはわずか2.5パーセントで、ほとんどが貸し倒れでした。
2.5パー。
この失敗の後、リンカンは次の選挙に出馬せず、政治の場から身を引きます。失敗のせいという説もあれば、より大きな政治的野心のための準備期間だったという説もあり、深井さんはどちらとも言えないとしつつ、落ち込んでいたのは間違いなさそうだと話します。
リンカンは約4年間、出馬しませんでした。そして4年後に再び政治の世界へ戻るとき、彼が出たのは州議会ではなく連邦議会下院選挙でした。日本でいえば県議会から国会への進出にあたります。
この転換の背景には、イリノイ州だけで開発してもうまくいかないという実感がありました。失敗の原因はやり方であって、開発自体は必要だという反省の仕方をしたのです。
点じゃなくて面的に政策をやらないと産業が発展しない。
深井さんは、イリノイだけ開発が進んでも周囲の西部が進まなければ経済ネットワークが成り立たないと補足します。だからこそリンカンは、連邦全体で開発を進めるべきだという連邦派の考えに至りました。
繊細な内面と「家庭が地獄だった」という逸話
一方で、深井さんはリンカンが非常に繊細なタイプだったと語ります。最もストレスのかかる大統領という地位に立った人物でありながら、この州開発計画の破綻の際には精神的に不安定になっていたようです。
この時期、リンカンはメアリー・トッドという女性と結婚します。ところが結婚の際、自分は結婚に向いていないかもしれないと不安になり、家から出てこなくなったという逸話が残っています。
(メアリーとの結婚前に)ベッドから出てこんみたいな。数週間。婚約破棄するみたいな。
友人が自殺を心配するほど落ち込んでいたのは、33歳ごろのことでした。1年ほど経って、友人の仲介で結婚自体はできたものの、その後も不安定な状態は続いたと言います。
リンカンは弁護士として熱心に地方を回っていましたが、その理由について本人は、家が地獄で、家から離れるだけで天国だったと書き残していたそうです。
ただし深井さんは、妻メアリー・トッドについて本に「ヒステリックだった」と書かれている点は、ジェンダーギャップ的な書き方であり、そのまま受け取ってよいか怪しいと注意を促します。子どもが石灰を飲み込んで泣き叫んだという記述も、母親として当たり前ではないかと語ります。
(メアリーの描かれ方は)当時の、まあ今もあるんでしょうけど、女性に対するステレオタイプも含めての言い方であるっていう風に皆さん聞いていただければと。
リンカンと共に旅をした友人ヘンリー・ホイットニーは、家庭内試練がなければリンカンは優れた大統領になれなかっただろうと語ったと言います。周囲から見てもリンカンの家庭は大変だと分かっていたということでした。
生活が軌道に乗り、35歳で自立・37歳で連邦議員へ
リンカンは35歳のとき、長男ロバートが生まれます。この頃には法律事務所を兼ねた自宅を建て、パートナーから独立して、妻と家族で住み始めました。深井さんはこれを「ザ・自立」と表現します。
さらに2年後、37歳の夏に連邦議会にも当選し、議員として首都ワシントンへ向かいます。これで国政進出が叶いました。弁護士としての評判、州議会議員としての実績があってのことでした。
一度ふさぎ込んでいたリンカンでしたが、弁護士も議員もうまくいき、妻との生活にも慣れて、生活が軌道に乗ってきます。そして、もっと上に行きたいという野心が出てきました。
深井さんは、この「上に行きたい」という感覚は、私たちが想像する下世話な上昇志向とは違うと説明します。アメリカ人にとってのそれは、宗教観に支えられた道徳的で神聖な感覚だというのです。
だから彼らにとってのキャリア形成って一種神性を帯びてるんだよ。
リンカンの行動原理「自由労働イデオロギー」とは何か
リンカンの野心を支えていたのが、自由労働イデオロギーです。深井さんは、彼らが読んだ本の中で最もわかりやすかった説明を紹介します。
深井さんは、恒久的な賃金奴隷になってしまったのがリンカンの父親であり、そこから逃れることこそが美徳なのだと語ります。単にお金持ちになって楽になるという以上の、道徳的な意味が込められているという点が重要です。
だから自己顕示欲とか自分の利益とかではない。
この理想に反しているのが奴隷制です。奴隷は働いても自由になれず市民にもなれないため、その労働には尊厳がないとされます。深井さんは、これは神聖を帯びた尊厳であり、奴隷は神に祝福されていないと見なされたと説明します。
さらに19世紀の西部開拓では、自由な労働と自由な土地が必然的に結びつきました。自由に労働することが、自由な土地を求めて開拓していくことと重なっていったのです。
この土地を自分のものとし、そこから暮らし向きを良くしていって、コミュニティについて考えていくみたいなのが信仰にかなってるってことですね。
深井さんは、西部開拓があれほど進んだのは、この自由労働イデオロギーに後押しされていたからだと整理します。開拓には神聖な感覚が伴っていたのです。
奴隷制への反対は「人権」ではなく「労働の倫理」だった
後にホイッグ党は共和党へ合流していきます。深井さんは、共和党が奴隷の不自由な労働を、自由労働を脅かすものと見なした点を強調します。
ここで深井さんが繰り返し強調するのは、当時の奴隷制反対は、現代で語られるような黒人の人権を出発点にしたものではなかったという点です。
人権ではない倫理っていうのが先にあんのよ、この時。それは労働なのよ。
深井さんは、労働と倫理が一体だったと説明します。汗水垂らして働き、それに見合う何かが返ってくること自体が倫理的なのだと。父親のように何も返ってこない状態は良くないとされました。
楊さんは、その対極にあるのが奴隷だと補足します。賃金ゼロで働く奴隷の存在は、自由労働をしたい人々にとって働き先を奪う邪魔なものであり、それも奴隷制反対のスタンスにつながっていました。
働き先がなくなるじゃん。それもその奴隷制に対して反対をするっていうスタンスにつながってるんですよね。
ホイッグ党は、産業の発展で増えていた北部の工場労働者もターゲットにしました。頑張って働けば未来が開けると訴え、それを政治として保証すると主張することで支持を広げていったのです。
資本主義もキリスト教の信仰、という視点
深井さんは、個人が自らの意思で職業を選び、労働の成果で自立し、社会的上昇を目指すという感覚は、きわめてアメリカ的だと語ります。日本はこれを信仰のレベルでは持っていないと言います。
深井さんは、本人たちは信仰だと思っていなくても、その感覚は外から見れば信仰と呼べるほどの強迫観念として今もアメリカ人の中にあると考えています。
楊さんは、この価値観からすると株式会社コテンは社会的地位上昇のために働いている感覚が薄いと自嘲気味に語り、深井さんも対価が必ず自分にお金で返ってくるべきだとは思っていないと応じます。
そのうえで深井さんは、社会的地位上昇のために働くことや、対価がお金で返ってくるべきだという発想そのものが、実は信念であり信仰なのだと指摘します。
資本主義だと思ってるけど、それそのものがキリスト教の信仰だったわけ、もともと。
深井さんは、これは正義でも真理でもなく、何を信仰するかの問題だと整理します。資本主義だと思っているものが、もともとはキリスト教の信仰だったという視点が、この回の核になっています。
樋口さんは、株式会社が成り立ちから必ず利益を目指さねばならないことも信仰だと応じます。深井さんは、日本人はこれを一部信じてみたものの、全面的には賭けられずに個人の迷いになるのは自然だと語ります。
宗教とはやや距離のある「理神論」的なリンカン
リンカンは連邦下院議員を1期しか務めていません。深井さんによれば、当時の連邦下院議員は党の推薦枠が限られ、ローテーションで席を回していたため、1期で終わるのはよくあることだったようです。
その後リンカンは再び弁護士に専念します。深井さんは、ここでリンカンと宗教の関わりについても触れ、彼の信仰はかなり希薄だと言われていると紹介します。
リンカンは選挙の対抗馬から無神論者だとなじられたことがありました。当時の社会で無神論者と見なされることは、深井さんいわく相当に危ういことでした。
(無神論者と言われるのは)野蛮人ですってなじられてるようなもんだから。
楊さんは、別の本ではリンカンの宗教観が理神論に立っていたと言われていると紹介します。
深井さんは、リンカンは科学信頼の側にいたため、元々のプロテスタントの考え方とは違い、こちらの理神論寄りに進んだのだろうと話します。
ただし深井さんは、リンカンが倫理へのこだわりは非常に強かった点を強調します。酒もほとんど飲まず、後の奴隷解放へ向かう心理プロセスもかなり倫理的で、無神論者で無茶苦茶な人物というわけではありませんでした。
なんで労働イデオロギーは信じてるから。そういう意味で、本当になんか神からめちゃ遠いかって言ったら、なんかそういうわけでもないのかなっていう、絶妙なとこにいます。
楊さんは、リンカンが信仰復興主義のような感情に訴えるパフォーマンスをあまり好まなかったことも紹介します。政治家として演説する中でも、聴衆に感情ではなく理性が大事だと説いていたそうです。
めっちゃ近代人って感じですね。だから近代的。すごく。現代的ではないよ。
高給弁護士としての栄達と、奴隷制への曖昧なスタンス
下院議員を辞めたリンカンは弁護士に戻り、栄達していきます。州内でも非常に高いランクの弁護士に数えられ、有力企業や有力者を顧客に持ちました。この時期の年収は中産階級の上位である4000ドルを超えたと言います。
一方で、ごく安い報酬で農民の債務関係の争いや土地の調停も引き受けていました。深井さんはこれも倫理的な行動だろうと話し、楊さんはイリノイ州の民衆から支持を得る目的もあったかもしれないと補足します。
最後に楊さんは、政治家リンカンの奴隷制へのスタンスを整理します。彼は奴隷制廃止に全振りしていた政治家ではありませんでした。全振りしたのは南北戦争の最中です。
それまでのリンカンは、奴隷制に反対ではあるものの、即時廃止すべきという考えではありませんでした。奴隷制を擁護する立場と廃止する立場の中間で、ポジションを取り続けた人物です。
(リンカンは)奴隷制を擁護するのと奴隷制を廃止するっていう考え方の中間でポジションを取り続けたというふうな人ですね。
楊さんによれば、リンカン自身は奴隷制の廃止を見届けたいと言ってはいたものの、どうやってアメリカで奴隷制を廃止するのか、その方法論は明確に打ち出せていなかったようです。
最終的に、南北戦争中の極限状態で奴隷解放宣言が出されるという流れになります。楊さんは、奴隷制を解放した超偉人という一般的なイメージからは、実際のリンカンは少し違うと指摘します。
自由労働イデオロギーと奴隷制がクロスする次回へ
深井さんは、ここまでリンカン個人の話を続けてきたと振り返ります。これまで語ってきた社会情勢と、リンカンが取り組んできた自由労働イデオロギーや開発の話が、この先クロスしていくと予告します。
リンカンはまだ政治家として奴隷制の話をしていません。やってきたのは自由労働イデオロギーの主張と開発の推進です。それが社会の分断と交わり、彼は表舞台に立っていくことになります。
次回は、いったん社会の側に目を移し、南北の社会が分断してのっぴきならなくなっていくプロセスを詳しく追う予定です。
だから前言ってた時限爆弾を抱えてる状態で。
深井さんは、南北はこの問題をずっと先延ばしにしてきたのに、なぜこのタイミングで先延ばしにできなくなるのかが焦点だと語ります。そしてそれは、リンカンのキャリアの最高点と同じ時期に訪れます。
なるほどね。そうだよね。かわいそうなやつや。大変なやつや。
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まとめ
駆け出し政治家リンカンは、弁護士と州議会議員のダブルワークで頭角を現し、開発の失敗や繊細な内面と向き合いながら連邦議員へと進みました。その行動を支えていたのは、汗して働くことに神聖な意味を見出す「自由労働イデオロギー」でした。
- リンカンは独学で法律を学び、25歳で州議会議員、27歳で弁護士資格を得てダブルワークを始めた
- 連邦派のホイッグ党で開発を推進したが、州の大開発計画はバブル崩壊で破綻し、彼はこれを重く受け止めた
- 行動原理は自由労働イデオロギーで、汗して働き成果を自分のものにすることが道徳的な美徳とされた
- 当時の奴隷制反対は黒人の人権ではなく「労働の倫理」を出発点にしており、資本主義的な上昇志向も一種の信仰だと整理された
- この段階のリンカンは奴隷制の即時廃止を掲げておらず、擁護と廃止の中間でポジションを取り続けていた





