鵜飼の旅で出会った、運送会社を営む校閲者
番組の冒頭、荒木さんはシルバーウィークに合わせて体調を崩していたことを明かします。そのため、発酵デザイナーの小倉ヒラクさん小倉ヒラクと巡る岐阜・長良川の鵜飼の旅には参加できませんでした。
鵜飼の旅に参加した渡邉さんは、漁という誰かの仕事を見ることが、なぜ接待やエンターテインメントになるのかがよくわからない点が面白かったと振り返ります。
鵜も可愛いし、健気だし、鵜匠の人の仙人感もすごいし、かがり火の幻想的な美しさとかっていうのも(楽しい)。
渡邉さんによれば、信長や家康の時代に大事な接待の手段として使われてきた鵜飼は、楽しさの要素が多い一方で、なぜ昔から文化なのかというわからなさも魅力の一部になっているそうです。今回のゲストの渋谷遼典さんは、その鵜飼の場で出会った人物です。
渋谷さんは東京の新潮社 ── 東京に本社を置く大手出版社。文芸誌や文芸書の刊行で知られ、校閲部の厳しさでも有名ですで8年間校閲を担当したあと、生まれ故郷の岐阜県養老に戻りました。現在は家業の運送会社を経営しながら、フリーで校閲を続けています。
運送と校閲の2本の軸でやってるという人間でございます。
校閲は何をする仕事なのか?
渡邉さんが「12個くらい質問が思い浮かぶ」と言いながらまず尋ねたのは、校閲とはそもそもどんな仕事なのかという点でした。
渋谷さんが手がけてきたのは文芸校閲と呼ばれる領域です。文芸誌や単行本、文庫のテキストについて、誤字脱字や事実関係を確かめ、本を商品として世に出す前に品質をチェックする役割だと説明します。
渋谷さんはこの文芸校閲の仕事を、メーカーにおける品質管理セクションにたとえています。テキストの中身だけでなく、本の記号的な部分のチェックも含まれるそうです。
校正・校閲の対象は本だけに限りません。チラシや企業の冊子、レシピ本など、世に出るあらゆるものが対象になり得ます。法律や科学のように専門用語が多い分野では、ロースクールに通う人など、その分野に特化した校閲者もいるといいます。
本を何冊も出している荒木さんにとっても、校閲者の仕事は見えにくいものでした。著者と校閲者の間には編集者が入るため、直接の接点はほとんどないからです。
裏側の人が何をどうケアしながらやってるのかというのはブラックボックスですね。
渋谷さんによると、校閲者と著者のやりとりは、基本的にゲラの上で行われます。よく「赤入れ」と言われますが、赤字は印刷所への修正指示なので、校閲者が赤を入れることはめったにないそうです。
原稿
著者が書いた原稿を、編集者が媒体のフォーマットに組んでゲラにする
疑問出し
校閲者が鉛筆で「これでよろしいですか」と疑問を書き込む
判断
編集者を介して著者が疑問を受け止め、直すかどうかを決める
このゲラ上の鉛筆での疑問出しが、文芸校閲の仕事の大半を占めます。書き言葉でのコミュニケーションなので、どうすれば著者に意図が伝わるか、どうすれば怒られないかに気を使いながら書き込むのだと渋谷さんは話します。
炎上したゲラのやりとりと、泣いてしまった校閲者
ゲラの上のやりとりについて、荒木さんはXで最近炎上した件を思い出します。三宅香帆 ── 文芸評論家。読書や本に関する著作が多く、ベストセラーとなった新書でも知られますさんが公開した、編集者とのゲラ上のやりとりです。
三宅さんのゲラのやりとりでは、「ねるねるねるね」が一般に知られていないのではという指摘が入っていました。渡邉さんは、CMなどで誰もが知っているはずのことが炎上につながったことに驚いたといいます。
渋谷さんによれば、この指摘は後から編集者が入れたものだとわかったそうです。そのうえで、こうした疑問を入れること自体がまさに校閲者の仕事だと話します。
製品、商品として世の中に出るものの背後で仕事をするっていう意識がやっぱり強い方も多い(んです)。
渋谷さんは、黒子として働く意識が強いため、ゲラに書いた文字が承諾なく世に出ることを警戒する校閲者が多いのかもしれないと見ています。
荒木さんは「万回くらい聞かれている質問」と前置きしつつ、原稿が面白すぎて仕事を忘れて読みふけることはあるのかと尋ねます。
渋谷さんの答えは、戒められていることではあるものの、正直あるというものでした。校閲は、距離を持ってテキストを一字一字触るように読み、著者と編集者が見落とした誤りを疑いながら探すのが原則の仕事です。
ところが、渋谷さんが最初に配属された文芸誌で何十年もチーフを務めた先輩が、ある作品を読んで泣いてしまったことがあったそうです。それを伝えられた編集者は大喜びし、「校閲者が泣いた」を宣伝文句に使いました。先輩本人はとても嫌がっていたといいます。
「正書法がない」とはどういうことか?
ここから渋谷さんが持ってきた問い「日本語はなぜややこしいのか」に入ります。きっかけは、ニューヨーカー ── アメリカの週刊誌。厳密な校閲・ファクトチェックで知られ、文芸や評論の掲載誌としても有名ですで校正係を務めたメアリ・ノリスさんのエッセイ『カンマの女王』(訳者: 有吉京美)を読んだことでした。
渋谷さんは『カンマの女王』に描かれた英語の校正に強く共感する一方で、日本語で校閲をすることは結構特殊なことなのかもしれないと感じたそうです。
メアリ・ノリスさんが問題にするのは、スペリングや関係詞のthatとwhichの使い分けなど、基本的には文法の話です。一方の日本語は、語順が自由なうえ、文字の数がやたらに多いと渋谷さんは指摘します。
渋谷さんが挙げた数字では、康熙字典の時点で漢字は4万7035字あり、アルファベットの26文字とは比べものになりません。さらに漢字仮名交じり文という性質から、書き方の選択肢が多すぎるといいます。
例えば「おもう」を「思う」と「想う」のどちらで書くか、「きく」を「聞く」と「聴く」のどちらにするか、「意思」と「意志」をどう使い分けるか。「鶏が卵を4つ産む」という文ひとつでも、「鶏」や「卵」をひらがな・カタカナ・漢字のどれで書いてもかまいません。
正書法があり、問題になるのは主にスペリングやthat・whichの使い分けといった文法の話
正書法がなく、送り仮名や漢字の読み、ルビ、ひらがな・カタカナ・漢字の書き分けまで判断が必要
他の言語には、ある語をどう書くかの原則である正書法があるはずです。ところが日本語は、岩波書店から『正書法のない日本語』という本が出ているように、ある語をどう書くかの正解がない言葉だと渋谷さんは話します。
極東のこの校閲者だけが悩んでる問題って実はたくさんあるんじゃないかと思っていて。
発音は本当に「やさしい」のか、ひらがなに開くのは正解か
渡邉さんは、日本語のややこしさにも種類があると整理します。文字はひらがな、カタカナ、常用漢字だけでも2000ちょっとあり、1字ごとに複数の読みがあるため確かに最難関です。
一方で、母音が5つしかない日本語の発音はやさしいと言われがちです。渋谷さんは、そのせいで同音異義語がやたら多いと補足します。渡邉さんも、イントネーションで意味を使い分ける点を考えると、発音もやさしいとは言い切れないと話します。
渋谷さんは、関西弁の人とは「箸」と「橋」がどちらの発音なのかという問題だけでしばらく話せると笑います。渡邉さんは、尾張出身の人が「いる」を独特のイントネーションで発音することに気づき、出身地が推測できるという例も挙げました。
荒木さんは、書き手としての実感を語ります。「事」を漢字にするかひらがなにするか、「ください」を「下さい」にするかひらがなにするかなど、ビジネス一般の感覚と本の世界でも微妙に違うといいます。
開いた方がより優しく伝わりやすくなりますよみたいな。えー、そうなの?みたいな。
荒木さんにとって、漢字をひらがなに「開く」かどうかは、間違いかどうかではなく、慣習やニュアンスで決まる極めて感覚的な問題で、今でも悩むそうです。渡邉さんは、ある漢字を開くと決めると、他の似た漢字もそろえて開くのが一般的な統一の仕方だという難しさも加えます。
文字が言葉をつくる?ソシュールと二葉亭四迷から見る日本語
荒木さんの「他の言語にここまでのバラエティはないのか」という問いに対して、渋谷さんは言語学の議論を補助線として引きます。
ソシュール ── スイスの言語学者で、近代言語学の祖とされます。死後に講義録が『一般言語学講義』としてまとめられましたは『一般言語学講義』の中で、文字は話し言葉を写すだけのものだという立場をとりました。いわゆる音声中心主義です。
これに対し、書家の石川九楊 ── 書家・書道史家。書の観点から日本語や日本文化を論じる著作を多く発表していますさんは『二重言語国家・日本』で、表記こそが言葉を整理し、文法をつくり、音声にも影響を与えると論じたそうです。
渋谷さんは、中国から漢字を輸入するところから日本語の文字の歴史が始まった経緯を考えると、日本語では特に表記の重要性が高いと言えるのではないかと話します。
渡邉さんが挙げたのは二葉亭四迷 ── 明治の小説家・翻訳家。東京外国語学校でロシア語を学び、『浮雲』で言文一致体の先駆けとなりましたです。ツルゲーネフなどを訳す際に「た」や「ている」といった表現を取り入れ、自然な口語文体を生み出したといいます。
渡邉さんは、二葉亭四迷の試みは話し言葉を文字化する方向で、石川さんの議論とはベクトルが逆かもしれないとしつつ、文字と音声が相互に刺激し合うことは確かにあるはずだと話します。
渋谷さんは、二葉亭四迷が「余が言文一致の由来」という文章で、山田美妙が「です・ます調」で訳したのに対し自分は「だ・である調」を選んだと書いていることに触れます。そのうえで、翻訳の問題は明治に始まったものではないと続けます。
ずっと実は日本の言葉って翻訳文化だったっていう話は言えるはずで。
渋谷さんによれば、明治に西洋の概念を漢語へ翻訳しておいたおかげで、それを使って文明を取り入れることができたという見方もできるそうです。
漢字を「編集」したハイブリッドな言語
渡邉さんは、この話題に関連して松岡正剛 ── 編集工学を提唱した著述家。日本文化を「編集」の観点から読み解く著作を多く残しましたの『日本という方法』や新書『日本文化の核心』を紹介します。どちらも、日本は漢字をただ輸入したのではなく、劇的に編集して使う方法を編み出したと論じているといいます。
渡邉さんが挙げた例は「生」という漢字です。「一生」「生活」「生きる」「生まれる」など、1つの漢字に多くの読みを当てています。これはもともと大和言葉があり、漢字を日本語に合わせて使ったからだと渡邉さんは話します。
荒木さんが面白いと感じるのは、その漢字のハイブリッドな使い方が今も根付き、生き残っている点です。言語を借りること自体は多くの国で起きていても、定着しない例が多いと荒木さんは見ています。
渡邉さんも、ハングルへの置き換えや、ベトナム語のラテン文字への切り替えのように、単純化の道をたどる言語が多いと話します。そのなかで日本語はややこしさを守っており、変体仮名がなくなった分だけ簡単になったとも言えるそうです。
ベトナムの青年の抗議と、灰色の海を泳ぐ校閲
渋谷さんは東京時代、新宿ゴールデン街で飲んでいたとき、日本語を勉強しているベトナムの青年と隣り合わせになったことがあるそうです。仕事を聞かれて「プルーフリーダー(校正者)だ」と答えると、すごい勢いで文句を言われました。
ベトナムの青年の言い分は、韓国が自分たちの文字で統一できたのだから、ひらがなやカタカナがある日本も漢字をやめられるはずだというものでした。文字が入り組んでどう読めばいいかわからないことが、日本語学習者にとってどれだけ大変かをわかっていない、と力説されたといいます。
僕も校閲やってるから(ベトナムの青年の)気持ちはよくわかるんだけどねとか言いながら話をしたんです。
渡邉さんは、こうした割り切れなさを残してしまうこと自体が日本文化の象徴だと話します。ドナルド・キーン ── アメリカ出身の日本文学研究者で、のちに日本国籍を取得しました。日本文学の海外への紹介に大きく貢献しましたが、仮名の出現を日本文化の確立を促した最大の事件と書いたことにも触れています。
渋谷さんによると、漢字、ひらがな、カタカナという地層が現在の表記にそのまま露出しているのが日本語です。他の言語では歴史性が抑圧されているからこそ整理されてもいるわけで、日本語はかなり特殊な事態だと考えられます。
渡邉さんは、誤字脱字という正誤の層をクリアした後も、漢字を開くか閉じるか、送り仮名や表記揺れをどうするか、どのハンドブックを正とするかで作家のこだわりとぶつかる可能性があると整理します。
渋谷さんは、統一のない日本語に統一を与えようと、新聞社や出版社がそれぞれ表記ルールを作っていること自体、世界的に見ればありえないと話します。しかも媒体ごとにもルールが違うといいます。
校閲者は間違い探しが好きな嫌な人たち、という世間のイメージは『カンマの女王』にも出てきます。しかし渋谷さんの実感はまったく違うものでした。
前編の最後に渡邉さんは、正しさが一つに定まらない話の続きとして、次回は日本語独特とも言えるルビの問題を入り口に話したいと予告しました。
まとめ
今回のエピソードでは、校閲という裏方の仕事を入り口に、正解が一つに決まらない日本語表記のややこしさが、漢字の輸入から明治の翻訳まで続く翻訳と編集の歴史と深く結びついていることが語られました。
- 文芸校閲の中心は、赤入れではなく、ゲラに鉛筆で書き込む「疑問出し」による著者とのコミュニケーションです
- 日本語には正書法がなく、書き分けや送り仮名、ルビなど、他の言語の校閲者があまり悩まない問題が多くあります
- 漢字を編集して取り込み、翻訳を重ねてきた歴史が、漢字・ひらがな・カタカナの地層として今の表記に露出しています
- 校閲の仕事は間違い探しではなく、灰色の海の中で少しでも白い方へ進むような判断の積み重ねだと渋谷さんは話します




