いま起きている「AI画像はアリかナシか」論争
この回のテーマは、ボードゲームのパッケージやアートワークにAI生成画像を使うのはアリかナシか、という問題です。
Manaさんは、最近のXでこの話題が盛り上がっていると切り出します。AIっぽい画像には独特の「AI臭さ」があり、それを嫌う声があると指摘します。
一方で、イラストレーターに発注する費用が大変で、なんとか自分で作っているという事情もあると話します。この2つのせめぎ合いになっているのではないか、という見立てです。
議論の焦点は「AIを使うな」「AIを使った商品なら買わない」「AIっぽい画像は嫌い」といった声に当たっている、とManaさんは整理します。
ただですね、この議論ってちょっと違和感がありまして。
AIは「手法」でしかない、という視点
Manaさんが感じている違和感は、議論が「何で作ったか」という手法に向いている点です。
本来、ボードゲームのパッケージやアートワークは、買う人・見た人がどう感じるかが重要だと話します。AIっぽくて嫌だというのも、あくまで感じ方の一つだという立場です。
そのうえで、AIを使うかどうかはアートワークを完成させるためのただの手法でしかないと述べます。
この手法の変化は、今に始まったことではないとManaさんは言います。かつて漫画やイラストは手描きが当たり前で、絵画の時代がスタートでした。
そこからIllustratorやPhotoshopといったデジタルアートが登場します。当時も「手描きの方が味がある」「これはイラレで描いたなと分かる」といった、いわゆる「デジタルな匂い」への意見があったと振り返ります。
そして今は、その違和感の対象が一昔前のデジタルっぽさから、AIっぽさに移ってきているのではないか、というのがManaさんの見方です。
好きか嫌いかだけなのに、何で作ったのかっていう手法に対して議論が出ているのが、ちょっと違和感があるなとは思いますね。
「手を抜いている」批判とオリジナリティ
ボードゲームがアナログゲーム、非電源のゲームであることも、この議論に関係しているとManaさんは指摘します。
できる限りデジタルを排除したゲームであるからこそ、手描き風のイラストを求める人が多いのではないか、という分析です。
さらにボードゲームには、ルールや遊びだけでなく、一人ひとりが描いた作品としてのアート・コレクション要素もあると話します。だからこそ、AIを使うと「手を抜いているのでは」という声が出てくるのだといいます。
自分から生み出したものをベースにしてないと、そもそも買う価値ないよね、作品としての価値ってないよねって思うんだと思います。
これに対してManaさんは、自身もAI画像を作った経験から反論します。AIで狙った画像を出すのは想像以上に難しいと語ります。
トークンの費用がかかり、無料枠では微妙で、お金をかけても思い通りの画像を作るのは難しいと実感を述べます。
単にAIに「これ作ってね」と出すだけならAIっぽい画像になる、とManaさんは認めます。しかしそこから自分のこだわりや色を乗せる調整は非常に大変だといいます。
そのうえで、手を入れてオリジナリティあふれるものに仕上げているなら、AI生成画像を使ってもいいのではないかと考えを示します。ペンで描けない分、デジタルで作るのに近いという捉え方です。
「学習」への嫌悪感と、真似から始まる創作
AI画像が嫌われるもう一つの理由として、Manaさんは「学習」の問題を挙げます。
誰かの作品や作風を元に、コピーのように量産されてしまう。特にジブリ風の画像が出回っている例に触れ、画風を簡単に真似され、どれも似た出来になってしまうことへの嫌悪感を説明します。
ただし、これも手描きの時代から同じことがあったのではないか、とManaさんは問いかけます。
イラストを学ぶときは、いろいろな絵を真似して描くところから始めます。鳥山明風の絵を描いてみるように、何々風で練習し、そこから自分の味や工夫を加えて画風が生まれていくといいます。
その「真似っこの段階」で見れば、手描きだろうがイラレだろうがAIだろうがあまり変わらない、というのがManaさんの主張です。
音楽もカメラも通ってきた「過渡期の議論」
この議論はボードゲームや生成画像に限らない、とManaさんは視野を広げます。
音楽もコピーバンドや人の曲の演奏から始まり、生演奏、デジタル、そしてAIやボカロへと進化してきたといいます。打ち込めば音楽が流れるようになった一方で、自分の音楽性を乗せて初めてオリジナリティが出るという構造は同じだと話します。
どの界隈も「それはAIで作っただろう」という手法の話ばかりで賛否が起きている、というのがManaさんの見立てです。
逆に、これはAIで作ったんだけどすごくいいんだよみたいなもの。そういう情報があったら、とても興味あるなと思いますね。
プロンプトという指示の言葉だけを真似してもうまくいかない、ともManaさんは言います。微調整を繰り返すことが、消しゴムで消して描き直したり、絵の具を何度も調合し直すことに近いという例えです。
こうした議論は技術の過渡期に毎回起こるもので、どれだけ市民権を得るかで一変していくと述べます。今やデジタルで絵を描く漫画家がほとんどであることを例に挙げます。
さらに、3DのCGをベースにした漫画の描き方をする作家もいると触れ、そうした手法はAIとの親和性が高く、カラー化や別カットへの応用を作者自身が自由に扱っている例を紹介します。
使う人が当たり前に増えていけば、「それはAIだろ」と言われても、使うのが当たり前の状態になっていくのではないか、とManaさんは見ています。
カメラも、かつてはフィルムの露出やピント、暗室での現像の色合いがテクニックでした。そこにデジカメやPhotoshopが登場するたびに「それはどうなのか」という声があったといいます。しかし今では、スマホでの加工も当たり前になっています。
「妥協」ではなく「自信を持てるアート」を
Manaさんの結論は、何を使ってもいいが、最終的に出来上がったものが自分のオリジナリティであり、誰が見ても素晴らしいと思えることが重要だ、というものです。
ただし、素晴らしいかどうかは好き嫌いの世界なので、そこは気にせず、自分がいいと思えるものを大事にすべきだと話します。
「お金がないからAI使ってみた」みたいな妥協じゃなくてですね。「自分がこのアートならいい」っていう風に思えるもの、ちゃんと自信を持ったものさえアウトプットできればいい。
これは画像に限らない、とManaさんは付け加えます。ボードゲームのルール作りをAIでやり、「AIが作ったボードゲームです」とゲームマーケットで見かけたこともあると紹介します。
最後にManaさんは、学習されること自体への嫌悪感にも触れます。丹精込めて描いたものをAImが持っていくことへの気持ちはよく分かる、と共感を示します。
一方で、YouTubeやブログの進化と同じように、生み出したものが世の中に浸透し、真似されたりシェアされていくことは止められないとも話します。
だからこそ、使われたということは評価された、と割り切る気持ちも必要なのではないか、とManaさんは締めくくります。今の自分の考えとして、この先も議論が続くテーマだと位置づけています。
まとめ
ManaさんはボドゲのAI生成画像論を「アリかナシか」ではなく、「手法」ではなく「最終的なアウトプット」で評価すべきという視点から整理しました。過渡期特有の議論として、絵・写真・音楽が通ってきた道と重ねて捉えているのが特徴です。
- AI画像への賛否は、作品の好き嫌いを「何で作ったか」という手法の議論にすり替えている面がある
- 手描き・デジタル・AIはいずれも手法であり、真似から始まる点や過渡期に賛否が起きる点は共通している
- AIで狙った画像を出すのは難しく、こだわりを乗せる調整には手間もコストもかかる
- 重要なのはオリジナリティのある最終アウトプットで、「妥協」ではなく「自信を持てるアート」かどうか
- 学習・シェアの流れは止められないため、使われたことを評価と割り切る気持ちも必要だとManaさんは語る





