そもそも「体験格差」ってどう捉えればいい?
小学校になって初めての夏休みを過ごしたばたこさんは、宿題の多さや学童のスケジュールなど、幼稚園までとの違いを感じつつ、土日やお盆をやりくりして子供にいろんな経験をしてほしいと動いたそうです。
話の入り口になったのが、最近よく見かける「体験格差」という言葉です。ばたこさんは、お金をかけた特別な体験があるかどうか、という話に見えてしまうことに引っかかっていました。
めちゃくちゃキャッチーな言葉やから、ついつい体験の豊かさと貧しさみたいなことを意識するっていう意味で、すごく見るなという印象です。
そこでばたこさんが紹介したのが、汐見稔幸さんの『子どもの生きる力をのばす5つの体験』という本です。子供の生きる力がどんな体験から育つのかを書いた1冊で、この回のベースになっています。
ばたこさんは、体験格差を単純な「量」の差だとは捉えていません。本では、生きる力を育む体験が5つに分けられていると紹介します。
ばたこさんは、子供が「やってみたい」と言えるのは体験の豊かさが土台にあるからだ、と本の内容を解釈します。
例えばピアノというものを知らなかったら、ピアノ習いたいなんて言わないじゃん。
つまり、まずはピアノを聴くシーンを用意する、といった入り口を親が提供する。そういう話なんじゃないか、とばたこさんはまとめています。
非日常より、日常にどうつなげるか
「体験」と聞くと、日常からかけ離れたことをどれだけできるか、という話に思えてしまいます。でもばたこさんの捉え方は少し違いました。
日常からかけ離れることがすごい重要なわけじゃなくて、日常にどう接続させるのかみたいなところが重要なんじゃないかな。
例に出したのが、亡くなったお父さんのお墓参りです。みんなでお墓を掃除して水を流す。特別な非日常ではないけれど、それも立派な体験だと言います。
大事なのは掃除そのものより、そのときに交わす会話でした。「これでじいじも嬉しいんじゃないかな」「じいじってどんな人だったの」「ここに骨が入っててね」と、実物に触れながら話を広げていく。そこに意味があると話します。
何でもかんでも体験させればいい、となると別の問題が出てきます。ばたこさんは、それは親の課金ゲーになってしまうと表現しました。
親から与えられる体験がメインになっていくと、どうしても課金ゲームっぽくなるし、子供からすると本当に体験かっていうところに疑問が出てしまう。
だからこそ、体験した後にどう日常へ紐づけるか、後日また話題にするか、のほうが大事なんじゃないか、というのがふたりの見方です。ヒヤマさんはこれを、番組でよく使う「咀嚼」という言葉と重ねていました。
我が家の夏休みで「体験」を深めた工夫
ここからは、ばたこさんが実際にこの夏やったことの話です。博物館、夏祭り、スイカを丸ごと切って食べる。小学校の宿題は絵日記ではなく、感じたことを3つ以上書く自由作文だったそうです。
遊園地、水族館、新幹線、墓参り、花火大会、プールと、まさに夏休みらしいキーワードが並びます。親も一緒に童心に帰れるのがありがたい、とばたこさんは話します。
ただ、これだけだと「量」の体験です。ばたこさんは、そこから何を吸収し、どうつなげるかを意識したと言います。
わかりやすい例が水族館のシャチのショーでした。すっかり気に入った姉妹は、ぬいぐるみを買ってもらい、帰宅後に図鑑を見ながら「この子オスかなメスかな」と調べ始めたそうです。
「水族館に行きました」で、「こんなのいたね」だけじゃなくて、その後の遊びとか会話に広げられるみたいなのがいいなと思った。
ばたこさんによると、姉妹はもともと生き物にそこまで興味がないタイプ。それでもちゃんと見て調べていたので、刺激はあったのかな、と受け止めています。
一方で、期待しすぎないことも意識していました。「これやってあげたのに」と思ってしまうのを避けるためです。
(生き物に)あんまり興味がないタイプなんですよ、うち二人とも。だけど、ちゃんと見て調べてたから、刺激はあったのかなと。
ヒヤマさんは、親ができるのは最初の一歩目を届けることで、そこからどう反応するかは子供次第だと整理します。ある種の実験のように、投げかけた刺激への反応を見てみる、という感覚です。
新幹線の移動も、親には「ただの移動」でも子供には体験になります。Googleマップで現在地を一緒に見て「今この辺にいるね」「何県通ったね」、静岡ではお茶畑を見て「あれ何だと思う?」と話したそうです。
ヒヤマさんは、同じ移動でもタブレットを眺め続けるのとは違う時間の使い方がある、と共感します。日常に転がる種にどう水をあげるか、が親のきっかけ作りになる、という言葉でまとまりました。
面白いのは、子供の心に残るものは親の思惑どおりにいかないところです。夜に「今日何が楽しかった?」と聞くと、意外な答えが返ってくると言います。
朝顔何個咲いて嬉しかった、みたいな。(いろいろ行ったけど)そこ?みたいな。
夏フェスで味わう「親が主役」の体験
ここで話題は、子供のためではない体験に移ります。独身時代から夏フェスが大好きだったばたこさんが、久しぶりにフェスへ行った話です。
きっかけは、ばたこさんが好きなアーティストが出ること。よく一緒に曲を聴いていた娘が「その子たちに会いたい」と言い、重い腰を上げて出かけたそうです。
家族で一緒に本物を見るみたいな。テレビとかだけのものじゃないっていう。
刺さったのは、行きたいと言った長女ではなく、3歳になったばかりの次女でした。「ハナちゃん」というアーティストにすっかり夢中になったそうです。
(ハナちゃんに)明日も会える?って。明日は大阪に行くらしいよって言ったら、じゃあ明日大阪に行くとか言って。
寝る前にも「ハナちゃん今何してるかな」と口にするほど残ったのだとか。ばたこさんは「布教活動に成功した」と笑います。
ヒヤマさんも、いつか親子でライブに行きたいと思っているそうです。ただ、一番好きなマキシマムザホルモンは5歳にはまだ早いと考え、遠いところから攻めて10歳ごろを目標にしていると話しました。
この体験は、これまでの水族館やお墓参りとは入り口が違います。ヒヤマさんは、子供が主役ではない体験の中で、子供が追従して副次的に刺激を受ける形だと整理しました。
親が楽しんでることを、子供がそれを見て親から学ぶというか、真似るというか。
体験を「知」に変える絵本と実践知
ばたこさんは、経験をそれで終わりにしないために、その日あったことを言葉にすることの意味に触れます。作文もその一つです。
本には「実践知」と「理論知」という話があるそうです。体験して身についたことと、自分で獲得した知識が、次に何かをやってみるときの支えになる、という内容です。
ばたこさんは、5つの体験の中に失敗体験があることに触れ、体験して失敗し、それが次につながる流れを、番組のテーマである「試行錯誤」そのものだと重ねました。
そして、もう一つ本で印象に残ったのが、体験の質と量をカバーしてくれるのは絵本だ、という話です。宇宙へ行きたいと言われても実際には難しい、そういう体験を絵本が補ってくれます。
その経験の質と量をカバーしてくれるのは絵本であるって書いてあったんですよ。
本物を体験できないこと自体が悪いわけではありません。それをどう疑似体験するかも含めて考えることが大事だ、というのがばたこさんの受け止めです。
ヒヤマさんは、体験できないことでも本なら広げられる点を評価し、想像力みたいなところで、すごい掛け算で効いてきそうだと話しました。
「名前のない遊び」が良質な体験かもしれない
話は、親が与える体験と、子供が自由に遊ぶことの違いへと進みます。ヒヤマさんは、自由に遊んでいいと言われても何をしたらいいかわからない人が増える、という記事を読んだと切り出しました。
ばたこさんは、親が全部スケジュールを決めて提供し、子供がそれに乗るだけだと、自分で遊びを作る経験が減ってしまうと危惧します。
(親が全部提供すると)何もできない大人に、受け身な受動的な大人になっても嫌だなと思うんですよね。
だからばたこさんは、予定が入っている日は「これやるよ」でいいけれど、何もない日は「何やろう」を全部子供に考えさせるようにしていると言います。
下の子が生まれてからは、年齢差もあって「公園行く?ねんどする?」と遊びを設定しがちでした。でも最近は姉妹で遊べるようになり、この日も名前のない「なんちゃらごっこ」をずっとやっていたそうです。
名前のない遊びっていいよね。それって多分、子供同士の中で創発的に生まれてくる遊びであることが多い気がする。
最後はお買い物ごっこになり、紙で売り物やお金を自分たちで作っていたとか。ばたこさんは、邪魔せずサポートに回るよう意識したと話します。
ここで、体験させることと自由に遊ばせることは別軸だ、という整理が出てきます。ふたりは、その反対語を考えながら関係を確かめていきました。
自由に遊ぶの反対は、親が決めたことをやる「不自由な遊び」
体験させることの反対は「何もしない」こと
自由に遊ばせてる方が、結果的により良い体験になるよねっていう話だよね、多分。
難しいのは、親が「意味を見出しがち」なところです。海に行っても砂山や貝殻探しに没頭する子供に「海入ろうよ」と言いたくなる。でも、その没頭を邪魔しないことこそ親にできることだ、とばたこさんは言います。
対象年齢と、体験に「複利」を効かせるという考え方
ヒヤマさんは、本に対象年齢の言及があるかを尋ねます。明言はないものの、ばたこさんは「2、3歳ではちょっと早いかも」と感じたそうです。
本には、習い事や塾で遊ぶ時間がないのは体験的な貧困だ、という話もあったとのこと。それは小学生あたりの話だろう、とふたりは推測します。
一方で、高学年になれば親がコントロールしてもしなくても勝手にやるようになります。むしろその年齢で親に依存しているのは親離れできていない、という見方も出ました。だからこそ、本人が決められる環境を提供することが大事だ、とまとまります。
だから、たくさん体験させればいいですみたいな話じゃないと思うんですよね。
終盤は「体験格差」という言葉そのものへの違和感に戻ります。ヒヤマさんは、格差という言葉はマイナス側に光を当てているけれど、体験はむしろ積み重ねや積み上げではないかと問い直します。
そこから出てきたのが「体験貯金」や「体験NISA」という言い換えです。積み立てたものからまた新しい価値が生まれる、という発想に、ばたこさんは完全に複利じゃんと反応しました。
結論として、お金をかけただけが全てではない、という話です。ヒヤマさんは公園と図書館のすごさを強調し、ばたこさんも砂だけで一生遊べる子供に驚いたと語りました。
地面にそんな価値あるんやって、大人になって気づかんよね。しゃがむと見える世界があるんやなって。
まとめ
今回は、夏休みの過ごし方を通して「体験格差」を捉え直す回でした。体験はたださせるものではなく、非日常を日常につなげ、親自身が楽しむことから広がり、そして自由に遊ぶ余白の中で育っていく。そんな試行錯誤が語られました。
- 体験格差は量や課金の差ではなく、体験を日常にどうつなげ、咀嚼するかが大事
- 水族館や新幹線のように、体験の後の会話や遊びに広げる工夫が効いてくる
- 夏フェスのように、親が主役の体験に子供が加わる入り口もある
- 親が全部コントロールせず、名前のない遊びを邪魔しないことも良質な体験になる
- 体験は積み重なると複利のように新しい価値を生む。お金をかけただけが全てではない




