アートは「言ったもん勝ち」なのか?デザイナー出身者の疑問
今回のテーマはアートとブランディングです。MCの中島静香さんが「アートはそんなに詳しくない」と切り出すと、保呂田直行さんも「僕もアートすごい苦手でした」と応じました。
保呂田さんがまず投げかけたのは、アートには「誰がいいと言ったのかわからないけれど認められている」感覚があるのではないか、という疑問です。ピカソやモナリザのように、みんながいいと言っているものをみんながいいと言っている状態を例に挙げました。
でもよくよく見たことあります?モナリザの顔って。美人ですか?
保呂田さんは、モナリザの構図になぜした のかまだ納得できていないと語り、そうした疑問を人はあまり口にしないと指摘しました。そこから「アートはこれがいいと強く言われれば良くなってしまうものなのか」という問いへ進みます。
保呂田さんは、美術館に自分の描いた絵を勝手に飾っていた人がいて、その絵の前で誰も「これ誰が置いたの」と言わなかったという有名な逸話を紹介しました。保呂田さんは「一休さんみたいな話だな」と受け、中島さんは「風刺的ですよね」と反応しました。
じゃあアートは単なる自己満なんじゃないの?って。昔デザイナーをやっていた僕は思いました。
デザイナー出身の保呂田さんは、いいと言ったもん勝ちのアートよりも、自分たちで考えてデザインするコマーシャルアートのほうが優れているのではないか、と当時は思っていたと振り返りました。
デザインは「解決」、アートは「問いの提示」
保呂田直行さんは、デザインとアートの違いを整理しました。デザインは問いへの解決(ソリューション)になっているが、アートはどちらかというと問いの提示、クエスチョンの投げかけだ、という見立てです。
保呂田さんは、デザインという言葉が元々「サインをやり直す」という意味を持つと補足しました。道路標識を人々に分かりやすく整えることがデザインの基本で、そこには問題解決があると説明します。
(アートは)問いを提示してるだけみたいな。
中島さんは「作品によっては問いが何かすらわからない作品すらある。でも価値がある」と受けました。ここから話は、前回のファッション回で保留になっていたバレンシアガへとつながっていきます。
目的があり、問題を分かりやすく解決する。道路標識を整えるように、答えを提示する
必ずしも解決を目的とせず、問いを提示する。問いが何か分からない作品にも価値がある
バレンシアガはなぜ「現代アート」なのか
保呂田さんは、前回うまく説明できなかったバレンシアガについて、「現代アートを見なければバレンシアガは解けない」と考えたと語りました。
現代アートって大喜利なんですよ。
保呂田さんの言う大喜利とは、アートヒストリーの流れの中で生まれた問いに、アーティストが工夫で応えてきた連鎖のことです。写真機が写実を全て映し出せるようになったとき、写実的に描く絵画は価値がないのではという問いが生まれ、様々なアーティストが取り組んだと説明します。
保呂田さんは、抽象的に描くことにも明確な論理があると述べました。人間が2つの目で見た両方の像を1枚の絵に入れてみる、といった理屈があって絵画は作られている、という例を挙げます。
現代アートはさらに進み、便器そのものはアートになるのか、キャンベルスープの缶自体はアートなのか、といった問いへ向かったと保呂田さんは整理しました。中島さんが挙げたキャンベルスープの缶の作者は、アンディ・ウォーホルです。
保呂田さんは、こうしたアートの変遷の延長線上にバレンシアガの文脈があり、「一本取られた」と感じたと語りました。「これわかるかい」という問いを作り手が消費者に投げかけていたとしたら、すごいことだと考え、バレンシアガを好きになったといいます。
もう社会起業家だと思いました。
「グッジョブは最低の言葉」アメリカのアート教育で出会った先生
保呂田さんは、苦手だったアートを好きになったきっかけとして、アメリカでアートのクラスに入っていた頃の先生の話を紹介しました。ニューヨークから帰ってきたばかりの先生だったといいます。
アメリカには2つの最低な単語を発明したやつがいると。それはGOODとJOBを合わせてGoodJobって言ったことだと。
その先生は、物事の本質もアートの歴史も知らないのに、美術館で「これがいい」「誰がいい」と気軽に言うことに強く反発していたと保呂田さんは振り返ります。褒める文化のアメリカにあって、その先生は例外的に厳しかったといいます。
物事の本質もわからないくせに、アートの歴史も知らねえくせに、美術館に行って何がいいとか、誰とかがいいとは言ってんじゃねえよってクラスでめっちゃキレてたんですよ。
20歳そこそこの大学生に対しても「ダメだ、初めからやり直せ」と迫る様子に、学生はビクビクしていたと保呂田さんは語りました。片山さんは、その方が実は分かりやすく愛がある、と受けました。
保呂田さんは、アートには「クリティーク」という、互いの作品を徹底的に批評し合う時間があると説明しました。理由を伴って主張をぶつけ合う場です。
俺の作品の方が優れてる。なぜなら。ってラップバトルぐらい壮絶なバトルを繰り広げるんですよ、アーティストは。
保呂田さんは、このクリティークを経験してアートを好きになったと語りました。自由に主張するのではなく、理由があって主張してもいいという点が刺さったといいます。
「嫌い」から「好き」へ。好き嫌いを分けるのはコンテキスト
保呂田さんは、みんながいい絵だと言ったからといって自分もそう言う必要はなく、理由があれば違う意見を持ってよい、という気づきを語りました。同調圧力ではなく、いいものをいいと言っていい感覚が心地よかったといいます。
この話は、バレンシアガを一度ディスってからまた好きになる態度にもつながります。保呂田さんは「好きと嫌いはほぼ同義語」で、無関心が一番よくないと述べました。
認知してもらえてない、嫌いの方が無認知よりもいいじゃないっていう。
片山さんは、保呂田さんが先生の話をきっかけにアート嫌いから好きへ変わった経緯を、コンテキストによって好き嫌いが変わる例として整理しました。文脈や背景が、対象への好悪を左右するという見立てです。
至極の一杯800円。ラーメンで考えるコンテキストの力
片山さんは、人間はコンテキストの生き物だと述べ、ラーメンを例に挙げました。普通の醤油ラーメン800円と、創業者が5年かけてたどり着いた至極の一杯800円、どちらを食べたいかという問いです。中島さんは即座に後者と答えました。
だから同じ苦労してたとしても、これ言ってるか言ってへんかで全然伝わり方が違うじゃないかなと思ってて。
同じ苦労が背景にあっても、それを言葉にして見せるかどうかで伝わり方はまるで違う、という指摘です。片山さんは、アートの世界ではこのコンテキストの力が極端な形で起きているのではないかと述べました。
一方で中島さんは「アートはそこまで説明しないような気もする」と補足します。保呂田さんも「洋服だって説明しない」と応じ、見て伝わるものとしての側面にも触れました。
中島さんは、情報を取りに行った上で楽しむ面白さを、自身の美術館体験から語りました。戦後何年かの女性画家の作品を集めた企画展で、当時の世相を思い浮かべると、自由に描く女性画家の姿が浮かび、作品がパワフルに感じられたといいます。
保呂田さんは、そうした文脈をまとめて見せるキュレーターの力の大きさにも言及しました。思いを言葉にし、文脈として整理する人がいるからこそ、鑑賞者の受け取り方が変わるという流れです。
モナリザの価値は「500年のコンテキスト」が作った
話はモナリザに戻ります。中島さんは、有名だから見に行ったものの、実際に見たときはピンとこなかったかもしれないと振り返りました。常に人だかりで、みんなが見に来ているが意外と分かっていないかもしれない、という指摘です。
片山さんは、モナリザがすごいとされているのは、絵の技術そのものよりも500年以上かけて積み重なったコンテキストがあるからだと述べました。
片山さんは、1900年代初頭の盗難事件が世界中で報道され、「世界一有名な絵」というラベルが貼られた歴史を例に挙げました。その歴史ごと見ているから感動が起きる、という説明です。
片山さんは、みんながすごいと思い続けてきたことがミルフィーユのように重なり、ブランド化・醸成されていったと表現しました。専門家、批評家、美術館教育が500年言い続けたことが積み重なってブランドになっている、という整理です。
いいねもミシュランの星も。数字がブランドを動かす
保呂田さんは、いいねや権威ある人の評価が積み重なることでブランドが積み上がっていくと述べました。評価を見た人は自分で良し悪しを判断しなくてよく、それ自体が安心感になる、という点を本質として挙げます。
(評価を見た人は)自分で判断しなくていいんですよね。だからそれ自体がもう安心感を持てる。
中島さんは、インフルエンサーを内覧会に呼んで意見を広めてもらう例を挙げました。100人のインフルエンサーが「素敵だった」と言えば、人気はさらに上がるという構図です。
保呂田さんは、今は「すごい」と言わなくても、いいねの数だけで十分だと指摘しました。かつては会って言葉で褒める必要があったものが、タップひとつで評価を伝えられるようになり、その力を持ったのがインフルエンサーだと語ります。
食の世界にも同じ構造があります。保呂田さんはミシュランの星を例に挙げました。星1つ・2つ・3つに基準があり、「このために旅行していいのか」という行動の指標になる、という説明です。
保呂田さんは、フランス料理の世界大会で世界一になったシェフと親交があり、そのレストランで食に没頭させられた衝撃を語りました。城のような場所で自然や土地の匂いまで含めたおもてなしが何時間も続き、「これが本物だ」と感じたといいます。
全然知らなくてすいませんでしたっていう気持ちになりました。
コンテキストを大事にしつつ、数字に踊らされる人間
中島さんは「中島のノート」として、この回を振り返りました。過去の配信でも何度も出てきたコンテキスト(文脈・背景)が、ブランディングに密接につながっていること、そして人はそれを大事にして生きていることを改めて整理します。
一方で、いいねの数やミシュランの星の数で行動を起こしてしまう面もある、と中島さんは指摘しました。数字に踊らされる感もあるが、本当に大事にしたいのはコンテキストやものづくりの背景だ、という着地です。
数字にちょっと踊らされてる感もありますけど。でも本当は大事にしたいのはコンテキストだったり、ものづくりの背景にあるものだったり。
保呂田さんは、バレンシアガのような「とんちの利いたこと」をやりたかったという悔しさを繰り返しました。中島さんに「今からやったらいい」と促されると、和牛の世界ですでにやっていると応じ、掛け合いは笑いに包まれます。
まとめ
この回は、アート・ファッション・食を横断しながら、ブランドの価値がコンテキストの積み重ねで作られることを解きほぐす回でした。モナリザもバレンシアガも、技術そのもの以上に、積み重なった文脈が価値を生んでいるという視点が通底しています。
- デザインは問いの「解決」、アートは問いの「提示」として対比され、バレンシアガは現代アートの文脈で読み解かれた
- 理由を伴って批評し合うクリティークの経験が、片山さんをアート嫌いから好きへと変えた
- 好きと嫌いはほぼ同義語で、無関心が最もよくない。好悪を分けるのはコンテキスト
- モナリザの価値は、盗難事件の報道や500年の評価の積み重ねというコンテキストが作った
- いいね・インフルエンサー・ミシュランの星など、外部の評価は判断を代行し安心感を生むが、本当に大事にしたいのはものづくりの背景である






