雑誌が好きだった青年は、なぜメディアを作ったのか
メチクロさんは、宇野常寛さんを最初は「書き手でありメディアで思想を語る人」として認識していましたが、PLANETSで本を出している編集者でもあると後から気づいたといいます。そこで、宇野さんが編集を始めたきっかけを尋ねます。
宇野さんは、高校生や浪人中、大学生の頃から雑誌が好きだったと答えます。雑誌の季節が終わろうとしていた頃で、雑誌カルチャーのいい時期を知る最後の世代ぐらいだと振り返ります。
まあ僕ね、好きだったんですよね。特に雑誌が。やっぱ高校生の頃とか、浪人中とか大学生の頃から好きで。
学生時代も同人サークルのような活動はしていましたが、本格的に動いたのは社会人になってからです。会社員だけでは物足りず、物を書くことに加えて「メディアをやりたい」と思ったといいます。
宇野さんがメディアづくりを選んだ理由の1つは、当時の文化系ブログの中心だったはてなダイアリー ── 株式会社はてなが2003年から提供していたブログサービス。2000年代には批評やサブカルチャー系の書き手が多く集まりましたの空気でした。宇野さんの見立てでは、そこはソーシャルブックマークによるいじめで村社会が維持されている空間でした。
(はてなダイアリーは)村の空気をうまくコントロールして、今こいつだったら叩いていいということを指揮できる人間がたくさんブックマークを集めるみたいな、そういったエコシステムになっていてね。
宇野さんは「ここには何もない」と感じ、その外側で活動しようと決めます。紙の雑誌への憧れもあり、今でいうZINE ── 個人や少人数が自主制作する小冊子・雑誌。商業出版の流通に乗らず、イベントや独立系書店などで売られることが多い媒体ですを作って東京の出版社に売り込むことを、戦略的に考えたといいます。
本づくりの知識については、学生時代に編集プロダクションでアルバイトをしていたことと、会社員としてウェブメディアの編集をしていたことが下地になりました。紙の本を1冊校了した経験はなかったため、コミケの同人カルチャーの人たちに人づてに聞いて学んだそうです。
「我の強い人間」が他人の才能に惹かれる理由
初期のPLANETSは、宇野さんが面白いと思う人に声をかけ、元からの友達と新しく誘った人を合わせて10人から15人ほどで作っていました。宇野さんは自分を我の強い人間だと認めつつ、人の話を聞くことも同じくらい好きだと話します。
僕ね、すごい我の強い人間で、自分の考えをワーって喋ることにすごいナルシスティックな快楽ってすごい感じる人間なんだけど、実は人の話聞くの結構好きなんですよ。
人の才能に触れるとか、人の話を聞くっていうことがそれなりに好きな人間なので、その快楽をやっぱりこう追求したかったんですよね。
宇野さんが憧れていたのは、いろいろな人間がごちゃっと集まる「雑誌的なカオス」でした。宇野さんはそれを、自身の著書のテーマに引きつけて「まさに庭ですよね」と表現します。
なんかいろんなものがごちゃっとあって、うごめいてるみたいなことに、すごく憧れが本当に少年時代からあって、その理想を実現したくてメディアやってるって感じですね。
事務処理から編集長業務へ。初期PLANETSの役割分担
メチクロさんは、最近マジックワードのように使われる「編集」という言葉について、宇野さんが実際にしている編集とは何かを尋ねます。宇野さんの答えは、時期によってまったく違うというものでした。
初期のPLANETSには、今も副編集長で会社の副代表でもある中川大地さんら数人の中心人物がいました。そのなかで宇野さんは、出版業界には事務能力の低い人が多い一方、自分は事務能力が高いと話します。
出版業界って事務能力の低い人多いんですよ。で、僕ははっきり言って事務能力すごい高いんですよ。
膨大な事務処理を引き受け、言い出しっぺでもあったことから、宇野さんは自然と編集長のような立場になりました。目次を決める権利や企画を握り、インタビューの再校正まで自分でこなしていたといいます。
やがて規模が大きくなり、仲間が増えて小さいながらも組織化されると、宇野さんの役割は変わっていきます。
1人で編集事務、現場担当、編集長、予算管理まで担う
仲間が増えて組織化し、編集長として企画とクオリティ管理に集中する
350部から1万2000部へ。部数はどう伸びたのか
メチクロさんは、30代のリスナーが多いことに触れ、当時の宇野さんがどう活動を始め、どう売っていたのかを尋ねます。宇野さんによれば、最初はウェブメディアとZINEを並行して作っていました。
最初のZINEはコミケで150部か200部ほど刷り、すぐに売り切れたといいます。少し売れ残った分もタコシェ ── 東京・中野ブロードウェイにある書店。自主制作の本や同人誌、サブカルチャー系の出版物を多く扱うことで知られていますかどこかに流したところ、すぐになくなったそうです。
宇野さんは20年ほど前の話で記憶があいまいだと断ったうえで、部数の変遷を振り返ります。連載「ゼロ年代の想像力」が話題になったことが、大きな転機でした。
途中からはISBN ── 書籍を識別するための国際標準図書番号。取得すると書店などの一般流通に乗せやすくなりますを付け、一般流通もするようになりました。こうした事務も最初は宇野さん自身がしていましたが、法人化前の時期でも仲間に任せていたかもしれない、と宇野さんは話します。
会社員を辞めなかったから、界隈に媚びずに済んだ
メチクロさんは、宇野さんがかなり早くからインディペンデントな活動をしていた点に注目します。宇野さんは理由を2つ挙げます。1つは自分で作ってみたかったこと、もう1つは東京の界隈に所属していなかったことです。
最初にPLANETSを作ったとき、宇野さんは京都に住んでいて、その後すぐ東京に移りました。会社員生活は2008年の末か2009年の頭ぐらいまで続けていたといいます。
会社員を続けた理由は、お金で苦労したくなかったからでした。周囲のライター専業の人たちは、業界の空気を読んで受けるものを書き、人間関係に配慮して褒める作品を選ぶ必要があり、宇野さんはそれでは書きたいものが書けないと考えていました。
僕は自分が仕事を速いのわかってたから、お金で時間買おうと思って、さすがにここで辞めないとお前バカだろっていうレベルになるまで(会社を)辞めなかったんですよ。
東京に出てきた当初、宇野さんは夜8時か10時まで会社で働き、その後に夜3時ごろまでPLANETSと個人の執筆をしていました。さすがに体調を崩し、副業を認めてくれる会社を探して転職したといいます。
その転職のしかたは、一般的な独立とは逆でした。物を書き、メディアを運営してきた知見と人脈を武器に、「御社の事業に役立つから副業を認めて雇ってくれ」と売り込んだのです。
会社員として得た人脈や経験を持って独立する
本当にやりたい仕事で培った技術や人脈を持って、条件の合う本業を探す
「春日を絶賛しろ」という助言を無視した理由
メチクロさんは、宇野さんのインディペンデントさは内発的動機から始まっていることが強みなのではないかと問いかけます。宇野さんは、当時の友人から「はてなダイアリーでウケるようなことを書け」と言われた経験を明かします。
「みんなが好きなものをもっと褒めて好かれなさい」みたいなこと言われたけど、そういうゲームをやるんだったらね、別に普通の会社員と変わんないわけですよ。飲み会で上司に媚びるみたいな話じゃないですか。
宇野さんにとって、業界の空気を読んで褒めるべき作家や作品を褒め、ポイントを稼ぐゲームは、やりたくてやっているという動機とぶつかるものでした。加えて、会社の給料で生活していたので、経済的にもそのゲームに乗る必要がなかったといいます。
5つか6つの収入源が、自由を支えている
メチクロさんは、ちいかわのような題材を今語るときでさえ宇野さんが自由に見えるのは、初期に築いた信頼があるからではないかと尋ねます。宇野さんはそれも認めつつ、もう1つの理由として仕事が分散していることを挙げます。
同じぐらいの収入源が5つか6つぐらいあったんですよ、うちの会社の事業みたいな感じで。狙ったわけじゃないけど、すごいバラけてるんですね。そのことによってすごい助けられてると思いますよ。
受け仕事については、若い頃は顔を売るため、そして仕事が来なくなるのが怖くて、来たものを全部受けていたといいます。しかし不愉快な思いや、義理でやりたくないことをやらされる場面が増え、ある時期から選ぶようになりました。
基準になったのは、先輩格の人から言われた「自分にとって勉強になるものは受けたほうがいい」という助言です。宇野さんは今もこれを守っているといいます。
その助言が実を結んだ例が、建築との縁でした。PLANETSでアルバイトしていた男性のお母さんが建築士で、その縁から建築士協会や建築系のイベントに、メディア論の人として呼ばれたのです。
あの時に建築士協会のシンポジウムにゲストとして出なかったら、僕『庭の話』書いてないんですよ。
社会の情報化に建築や街づくりがどう応えるかというテーマは、もともと宇野さんの関心とも重なっていました。そこから街づくりや地方創生の仕事にもつながっていったといいます。
猪子寿之さんとは、堀江さんのパーティーで出会った
メチクロさんは、猪子寿之さんや落合陽一さんのような才能との出会いも、編集者的なフットワークから生まれたのかと尋ねます。宇野さんによれば、建築士協会の件は批評家としてのオファーで、猪子さんとはホリエモンこと堀江貴文さんのパーティーで出会ったといいます。
堀江さんの誕生パーティーに呼ばれたものの、会場に友達がおらず壁の花になっていたところ、チームラボ ── 猪子寿之さんが代表を務めるアート集団。デジタル技術を使った没入型のアート作品やミュージアムで国内外に知られていますの猪子さんが話しかけてきたそうです。面識はありませんでしたが、猪子さんは宇野さんを知っていました。
(会話の内容は)覚えてないけど、「プラネッツが面白い」って感想を言ってくれたのを覚えてるんですよ。それがすごい嬉しかったですね。
その後、猪子さんから「もっとじっくりやらないか」と誘われたとき、宇野さんは一度尻込みしたといいます。アートの知見がなく、メディアアートやインスタレーションにも詳しくないため、自分には無理だと思ったからです。
ちょっと分野が自分の手持ちカードで対応できないなと思って、最初はね、尻込みしたんだけど。
それでも猪子さんに誘われてチームラボの作品をいくつか見るうちに、宇野さんは知的刺激を受け、「これを語ってみたい」と思うようになったといいます。
宇野さんは、戦略的に人脈を開拓するタイプではないと強調します。猪子さんから誘われたのも、週刊プレイボーイのひろゆきさんと堀江さんの対談連載で、猪子さんが代打を務めた回にゲストで呼ばれたときでした。
メルマガ連載が積み上がって単行本になった時代
猪子さんとの対話が本になった経緯について、宇野さんは「大した話じゃない」と前置きします。関わるなら何か形にしたほうがいいと考え、2010年代後半にPLANETSが力を入れていたメールマガジンの連載にしたのです。
宇野さんにとって最も大切な作家は猪子さんで、毎月1回チームラボを訪ね、猪子さんが今考えていることや作りかけの作品について話しました。その連載がまとまり、対談集になったといいます。
誘い
猪子さんから一緒にやろうと声をかけられる
連載
毎月チームラボを訪ね、メルマガで対談を連載する
単行本
溜まった連載を対談集にまとめる
当時のPLANETSは、ウェブの記事をたくさん作る会社で、そのためにスタッフを何人も雇っていました。今ほど動画が主流ではなく、テキストがまだ読まれていた時代だったことも背景にあります。
ウェブ記事が読まれなくなり、編集者から書き手へ
メチクロさんが今の本づくりのやり方を尋ねると、宇野さんは、今はウェブ記事にあまり力を入れていないと答えます。理由は、圧倒的に動画の時代になり、記事が読まれなくなったからです。
そのため現在は、連載にこだわらず、書き下ろしで採算が合うようにプロジェクトを組むことが多いといいます。そして宇野さんは「結構大事な話」として、昔ほど編集者ではなくなってきていると明かします。
一言で言うと、書き手としての自分の方が大事になってきた。これでもはっきり言うと年齢的なものだと思います。
取材もプロデュースも今も好きですが、自分のものを書くことに最大限のエネルギーを割くため、編集の仕事をセーブしているといいます。何年も前に、編集の現場はやらないと決めたそうです。
最後に担当した現場は、福嶋亮大さんのメルマガ連載でした。内容的に自分以外は対応できないと考えたためで、単行本化からは若いスタッフに任せたといいます。
自分の代表作になる本が、この先あと何冊出せるだろうみたいなことを考え始めて、で、本に注力するようになったんですよね。
宇野さんによれば、『庭の話』は30代後半から40代前半ごろまでの取材の成果を書いた本であると同時に、自分が編集者でなくなることの「踏ん切りの本」でもありました。50歳近い今は、メディアの編集長としてではなく、個人として取材に行くことになるだろうと話します。
軍艦島ツアーの待ち時間にかかってきた1本の電話
書き手としての自分を大事にしようと思ったきっかけとして、宇野さんはある電話を挙げます。コロナ禍の頃に出したものの売れなかった『砂漠と異人たち』を読んだ、元中央公論の若い編集者からの電話でした。
その時に「やっぱり書き手としての宇野さんが俺は一番読みたいんだ」って言われて、それが僕はすごく嬉しくて。
その編集者は、宇野さんの歴代担当のなかでも最も優秀だった一人で、宇野さんが喋ったことをまとめるときに一番直さなかった人だといいます。宇野さんは、その言葉で薄々感じていたことを確信したと振り返ります。
電話を受けた場面も鮮明に覚えているそうです。長崎に行きたいという母親と軍艦島ツアーを待つ間、ファミレスのドリンクバーで端島のパンフレットを見ていたときでした。
宇野さんは、70代の母親を連れて端島に行くのはドラマ「海に眠るダイヤモンド」とほぼ同じシチュエーションだったと笑います。そしてコロナ禍の終わりごろから、書き手としての自分を年の取り方として大事にしようと考えるようになったといいます。
細部の編集を手放し、プロデュースへ向かう
宇野さんは、かつてはメルマガの挿絵の画像まで「AじゃなくてBにしろ」と指示するほどの凝り性でした。今もそうした仕事は好きですが、選択と集中のためにやらなくなったといいます。
その代わりに増えたのがプロデュースの仕事です。例に挙げたのが楽天大学ラボで、チャンネル登録者は6万人、どの回も2〜3万回再生されるような教養系の大手チャンネルになっています。
肩書は「アドバイザー」ですが、宇野さんは企画をほぼすべて担い、司会もしています。ブッキングと台本はPLANETSのスタッフが担当しており、宇野さんは実質プロデューサーだと話します。
「大きい力を使ってダイナミックなことをやる」みたいなことっていうのも一回経験してみたくてって感じなんですよ。
宇野さんは自分を、ガンダムやパトレイバー、仮面ライダー、ウルトラマンに今も感動する「ザ・ノスタルジーおじさん」だと言います。それでも悪い意味で老けないために、動画などの新しいことに挑戦したいと考えています。
喫煙所はなくなっても、雑誌の遺伝子は残せるか
宇野さんがやりたいのは動画だけではありません。研究会やシンクタンクのようなものも作ってみたいといい、その考えを喫煙所のたとえで説明します。
喫煙所はなくなるんだけど、喫煙所コミュニケーションって結構いいもんだよなってみんな体験的にしてるじゃないですか。
どれが正解かは手探りだとしつつ、1つだけ最初から決めていることがあると宇野さんは話します。煽るようなことを言い、コンプレックスを抱えた人を気持ちよくしてPVを稼ぐやり方はしない、というものです。
楽天大学ラボも、楽天の専務である松村さんとイベントで仲良くなったことがきっかけでした。コンプレックスの強い読者を集めて養分にするやり方とは違うメディアができるのではないか、と2人で話して始まったといいます。
『マタギドライヴ』は社運をかけた1冊
メチクロさんは、落合陽一さんの『マタギドライヴ』を世に届けるうえで、宇野さんはプロモーションをあまりしない印象があると尋ねます。宇野さんはこれを否定し、やりたくてもスキルや資金がないだけだと答えます。
『マタギドライヴ』とかも8年やってるから、めちゃめちゃ制作費重ねて。結構リクープライン高いんですよ。
失敗すればPLANETSが経済的なダメージを負うため、宇野さんは「必死ですよ」と話します。派手な宣伝をしたくても、零細企業なのでお金もノウハウも人員もないといいます。
宇野さんは、この本を落合陽一さんの集大成であり、インタビューをまとめたライトな本とはまったく違う、落合さん自身が書いた残る本だと評します。伝える力に限界があることは落合さんに申し訳ないとも話します。
一方で、儲からなくてもリクープラインに届けばいいとも語ります。宇野さんにとってこの本は、去年の宇野書店のプロデュースと同じく、今の日本社会に対する起業家としての態度表明だといいます。
全然儲からなくていいから、なんかこう、でも赤字はやだなって。
協力したい書店員やリスナーへの窓口を尋ねられると、宇野さんは、この番組のメールフォームから連絡してくれればいいと答えました。そして何より、落合陽一さんが8年かけて書いた本なので、まず読んでほしいと語ります。
次作は小説。宇野さんの隣にいる編集者とは
書き手としての次の本について、宇野さんは、直近では書き下ろしの小説が出る見込みだと明かします。息抜き的に書いていたものが先に仕上がり、来年の1〜3月ごろに出る予定だといいます。
小説について宇野さんは、『すばる』で発表したものはかなり自己完結していて、編集長直属で進めたため、編集者と二人三脚という感じではなかったと話します。
最も二人三脚に近いのは、『ラーメンと瞑想』の続編にあたる『水曜会』です。毎週水曜日に宇野さんと朝活し、ラーメンを食べて瞑想している、少し年上の男性編集者のTさんが、編集者として最も存在感が大きいといいます。
(Tさんとは)週末一緒に高野山行ってきましたからね。
編集者が「こじらせやすい」構造とは
宇野さんは、編集者と揉めたことも当然たくさんあると話します。編集者はカルチャーが好きでも裏方であり、こじらせやすい人が多いというのが宇野さんの見立てです。
宇野さんが挙げる理由は、技術的に高いものを求められる、就職も継続も大変なのにお金が良くない、ずっと裏方で名誉もあまりない、といった点です。著者を支配しようとする人や、陰口を言いやすい人もいるといいます。
条件
高い技術が求められるのに、収入や名誉が得にくい裏方の仕事
業界
出版業界自体が右肩下がりで、機能不全を起こしやすい
結果
闇落ちする人が出やすく、書き手から見て「それないんじゃないの」と思うことが起きやすい
もちろんそうではない人も多いとしつつ、宇野さんは編集者っぽいこじらせ方をした人が苦手で、なるべくそうでない人と仕事をしているといいます。自分も編集者なので、その精神構造がよくわかるのだそうです。
そんなのメール返せばいいだけじゃんみたいな。「なんで返さないんだよ」みたいな感じの。
事務処理が得意な宇野さんは、そこでトラブルが起きると怒ってしまうといいます。それでも、編集者が今割に合わない仕事になっていることを理解しているため、多くは求めないと話します。
ライターや編集者がこれからどうなるかという話題について、宇野さんは、多くの部分はAIが補うようになるだろうと見ています。そのうえで、編集という仕事の何が残り何が残らないのかをきちんと考える必要があると話し、その問題は『マタギドライヴ』にもかなり書かれていると触れて回を終えます。
まとめ
宇野常寛さんの編集者としての歩みは、雑誌への憧れと、他人の才能に触れる快楽から始まりました。会社員を続けて界隈に媚びない独立性を保ち、メルマガ連載から本を生む時代を経て、今は書き手としての自分を中心に置きながら、プロデュースで雑誌の遺伝子を新しい形で残そうとしています。
- PLANETSは、はてなダイアリーの村社会の外で、雑誌的なカオスを作りたいという動機から始まった
- 会社員の給料で生活し、収入源も分散していたことが、業界の空気に媚びない自由を支えてきた
- ウェブ記事が読まれなくなり、宇野さんは編集の現場を離れて書き手としての仕事に注力している
- 『マタギドライヴ』は8年の投資をかけた本で、宇野さんは赤字でなければいいと語る
- 編集者がこじらせやすい構造を理解したうえで、宇野さんは中身の責任を自分で持つと決めている






