「ひげもと」と「セッター」、2つの名前の由来
まず、ひげもともセッターも本名ではなくハンドルネームです。本名にもとがつく名前で、しかも僕はひげが生えているので、単純にひげにもとをつけただけなんですね。
フリーランスでデザイナーやディレクターをやっていた頃に、育毛剤の「かみのもと」みたいなノリで名乗っていた時期があって、それを略して「ひげもと」になりました。
一方の「セッター」は、バレーボールから来ています。中学高校とバレーボール部だったんですが、セッターをやっていた訳ではなくて、むしろ憧れていた側なんです。
弱小チームでレフトやセンターを守っていた僕からすると、バレーボールの司令塔で戦略家のセッターは花形で、頭脳派プレイがかっこよく見えていました。
もともと情報を集めたり調べたりするのが好きで、そこから何かをピックアップして皆さんにトスしていく。そういう意味で「セッタートス」というアカウントを作ったのが、セッターの由来です。
神戸で育った僕を作ったテクノと漫画
育ちは兵庫県神戸市東灘区、生まれは母の故郷の島根県は隠岐の島です。姉と弟は帝王切開だったんですが、僕はするりと滑り台から出てくるように生まれたそうで。
東灘区といえば阪神淡路大震災で、僕は中学1年生の冬に体験しています。すごい揺れで目を覚まして、弟に「おい、大丈夫か」と声をかけたら、弟はグーグー寝ていたなんてこともありました。
中学の時に電撃が走ったのが、テクノミュージックとの出会いです。それまではB'zや槇原敬之みたいなJ-POPを聴いていたんですが、電気グルーヴやコーネリアスにビリビリと稲妻が走りました。
高校の頃には、地元の服屋の店主にフライヤーをもらって、初めてクラブに行きました。それがサイケデリックトランスのイベントで、友達を巻き込んで朝まで踊り明かしたんです。
もう1つ衝撃を受けたのが漫画で、大友克洋の『AKIRA』を買い漁ったり、古谷実先生や望月峰太郎先生の作品にどっぷりでした。この年代のサブカル好きは、みんな似たところを通ってるんじゃないかと思います。
絵は描けない。でもデザインなら向いていた
初めは漫画家になりたかったんです。でも読むのは好きでも、絵を描くのはそこまで好きじゃない。頑張れば描けるけど、というくらいでした。
音楽も聴く専門かなと思っていて、大学以降にテクノのDJやサンプラーでの制作もやったんですが、才能はないなと感じて趣味程度に抑えていました。
芸大に進んで気づいたのは、絵の世界には人から止められても描き続けるような人がうようよいるということです。そういう人たちにはやっぱり勝てないなと。
そんな中で出会ったのがグラフィックデザインでした。絵を描くより、情報を整理して分析し、抽象から具体へ落とし込む方が自分に向いていると思えたんです。
ちなみに大学は単位を落としまくって、家庭の理由もあって中退しています。ただ、その後についた仕事で、その同じ大学から卒業生代表としてオファーが来て、受験に来る高校生に堂々と話したなんて余談もありました。
体を壊しながら渡り歩いたデザインの現場
大学でソフトの使い方は覚えていたので、中退後わりとすぐにポスティング冊子をデザインする会社に入れました。でも僕は体が弱くて、アトピーがひどくなって辞めてしまうんですね。
そこからはフリーターの時期もありました。ブックオフの店員、ライトオンやGLOBALWORKでのアパレル販売、新幹線のケーブルを側溝に収める深夜の電気工事。ターンテーブルが欲しくて割のいい夜勤もやっていました。
その後、大学の同級生でポッドキャスト番組『ゲームすっきゃねん』の相方でもあるokunと一緒に働いた時期もあります。チラシやロゴを作っていました。
ただ、この頃はブラックな体制で、徹夜が2日続くこともザラでした。名古屋のマンションの一室で新聞折り込みチラシを作っていた時は、生活なのか仕事なのかわからないような日々でしたね。
ジャンクフードばかりで運動もしない 生活で、アトピーが悪化し、その影響で網膜剥離になってしまいます。手術で1カ月ほど入院して、今でも左目は真ん中あたりの字が少し潰れて見えるんです。
それでも治療のあと、心斎橋のデザイン事務所に入り直しました。硬い床の段ボールで何度寝たことか。社長がカプセルホテル代を出してくれた時は「当たり」と言っていたくらいです。今ご時世なら家に帰るのが普通なんですけどね。
靴のブランド「ブルーオーバー」という転機
デザイン事務所も辞めてフラフラしていた頃、これが大きな転機になります。知り合いのプロダクトデザイナーが「靴のブランドをやる」と言い出したんです。
国産のレザースニーカーのブランドを立ち上げたいと、いろんな人に声をかけていて、僕にも声をかけてくれました。当時付き合っていた彼女に「未来が見えない」と振られたばかりで、その通りだなと思っていた頃でもあります。
最終的にキーパーソンが集まって、文化祭の準備みたいなノリで試作を作りました。そして2011年4月17日に、『ブルーオーバー』という国産レザースニーカーのブランドとお店を立ち上げたんです。
僕は接客販売ができるので、ストアマネージャーとして、かつ広報として動きました。ブログを書き、SNSを運用し、プレスリリースも出す。アパレル畑の人間が1人もいない中でのスタートでした。
この靴は、ロゴマークも繋ぎ目もない、漫画に描くようなスニーカーそのものの見た目で、いわゆるアノニマスなんですね。だからセレクトする服も、そういう匿名性のあるものを選んでいました。
怪談会やミニ四駆大会、アナログゲームのイベント、シャツやメガネの受注会と、お店では本当にいろんなことをやりました。テレビや、関西のファッション誌『カジカジ』にも載せてもらいましたね。ここは在籍していた2016年まで、僕にとって向いている仕事だったなと思います。
セッターの誕生と、ポッドキャストにたどり着くまで
ブルーオーバーを離れることになった後、フリーランスで雑貨を扱う会社さんのオンラインストア立ち上げやSNS運用を手伝っていました。その頃に生まれたのが、セッターのアカウントです。
辞めると決めた時、それまでお店の店長として使っていた今のひげもとのXアカウントは、残されたメンバーのためにあまり目立たない方がいいだろうと判断して、名前を変えたりしました。
一方で、それとは別のことがしたくて、ゲーム実況やおすすめ紹介のブログをやりたいと思ったんです。当時『スプラトゥーン』にめちゃめちゃハマっていて、自分でも実況したかった。それで生まれたのが「セッタートス」でした。
明確に分けて運用していたんですが、やっている人間が同じなので、今はもう全部が1人の人間のところに集まっている感じです。実はセッターはひげもとで、ひげもとはセッターだ、なんて言ったりもしていました。
その後は雇われのウェブディレクターになったりフリーランスに戻ったりを繰り返しました。離婚も経験して、今の奥さんとはティンダーで出会って再婚し、子どもが2人います。あの時再婚していなかったら、たぶん野垂れ死んでいたんじゃないかなと思うくらい、妻のおかげで生きています。
ポッドキャストに出会ったのは、ブルーオーバー時代から仲のいいハラダ店長に『コテンラジオ』を教えてもらったのがきっかけです。ハマれば自分でやりたくなるタチなので、『耳そばラジオ』やマツシタさんとの『レッツゴー映画話』、ネルヤさんとの『くちとはらじお』、okunやみけんさんとの『ゲームすっきゃねん』、そしてこの『ひびもと』を始めました。
そして2025年の夏ぐらいに体調が限界を迎えて、今は療養中というわけです。妻が2026年3月1日からフルタイムで働いてくれていて、僕は療養と育児、家事に専念しながら、その合間にポッドキャストを更新しています。
今後どうなっていくんでしょうね。社会復帰はしたいなと思っていますし、できる範囲から何か1つでもコツコツと、誰かのお役に立つこと、面白いことをやっていけたらなと思っています。
最後までお読みくださりありがとうございました!
まとめ
ひげもともセッターも、1人の僕から生まれた名前です。神戸で育ち、テクノと漫画に影響を受け、絵からデザインへ、そして靴屋の店長を経て、今は療養と育児をしながらポッドキャストを続けています。
- 「ひげもと」はひげ+もと、「セッター」はバレーの司令塔への憧れと情報をトスする意味から名付けた
- 絵を描く才能の壁からグラフィックデザインへ進み、体を壊しながらデザインの現場を渡り歩いた
- 2011年に国産レザースニーカー『ブルーオーバー』を立ち上げ、ストアマネージャー兼広報を務めた
- 離婚と再婚、体調の限界を経て、今は療養と育児の合間にポッドキャストで何か続けようとしている




