「牛はうつ病になる?」という予想外の質問
今回のお便りは、TikTokのリスナー「猫と暮らすINFJのうし」さんから届いた、とてもシンプルな一言でした。
牛さんはうつ病になりますか?
川上さんいわく、酪農家としてはこれまで考えたことのない質問だったそうです。以前の配信で牛の職業病や病気の話はしたものの、精神疾患やうつ病という角度はまったくのノーマークでした。
ただ、毎日牛を見ていると「元気ないな」「いつもより反応が薄いな」「新しい餌をあげても食いつかないな」と感じる場面はあるといいます。それを人間のうつ病と同じように捉えていいのか、そこが今回の出発点です。
酪農家では考えたことがない、めちゃめちゃ面白い質問かなと思いまして。
結論から言うと「うつ病と断定するのは慎重に」
川上さんが調べてきた結論はこうです。牛にもストレスや恐怖、ネガティブな情動状態はあります。でも、それを人間と同じ「うつ病」と断定するのは、今の科学では慎重になったほうがいいというのが答えでした。
そもそも牛に「最近何をしても楽しくない?」「気分が落ち込んでる?」と聞いても答えてはくれません。そこで研究では、行動や生理反応、認知バイアス認知バイアス ── ものごとの受け取り方や判断のかたよりのこと。動物研究では、いまの気分が判断に影響するかを調べて情動状態を推定する手がかりに使われます。などを組み合わせて、牛がどんな情動状態にあるのかを推定しようとしています。
一方で川上さんは、牛にも「心」のようなものはあると話します。ここでいう心は人間とまったく同じという意味ではありません。それでも牛は恐怖を感じたり、仲間との関係を作ったり、慣れた相手を区別したり、環境の変化にストレスを受けたりしているそうです。
子牛もかなり早い段階から社会的な行動を示し、成長すると「この仲間が好き」といった馴染みのある相手への選好が形成されることが研究されています。だからこそ「牛の気持ちが全部わかる」と考えるより、行動には理由があるかもしれないと考えるほうが大切だと川上さんは話します。
酪農家はどうやって牛の気分を見ているのか
牛は喋れないので、牧場では代わりに行動をよく見ています。餌をちゃんと食べているか、反芻しているか、横になって休めているか、仲間との関係はどうか、人が近づいたときにどう反応するか。そんな小さな変化を毎日チェックしているそうです。
ただし大事なのは、「元気がない=精神的に落ち込んでいる」と決めつけないこと。元気がない理由は、心の問題とは限らないからです。
- 乳房炎などの病気かもしれない
- 足が痛いのかもしれない
- 暑さによる暑熱ストレスかもしれない
- 分娩前後の急激な変化かもしれない
- 餌の問題かもしれない
だから酪農家は、行動の変化を入り口にしつつ、体と環境の両方を見ます。ここが観察でいちばん見ているところなんだそうです。
乳搾りで出る「オキシトシン」の正体
ここで登場するのが、人間向けの記事だと「幸福ホルモン」としてよく紹介されるオキシトシンです。牛の場合は、乳搾りのときにこのオキシトシンが出ています。
搾乳されると、乳頭への刺激が神経を通って脳へ伝わります。すると脳の視床下部で作られたオキシトシンが下垂体後葉から血液中へ放出され、乳腺に届くと筋上皮細胞を収縮させて牛乳を押し出すそうです。
つまりオキシトシンは、牛乳を搾るうえでとても重要なホルモンだということですね。
オキシトシンが出れば「牛は幸せ」と言えるのか
ここは誤解しやすいポイントです。オキシトシンは人間向けの記事だと「愛情ホルモン」「幸福ホルモン」と呼ばれ、確かに母子関係や社会的な行動、ストレス調整にも関係しています。
でも川上さんは、「オキシトシンが出た=牛が幸せ」とまでは言えないと話します。
研究でも、オキシトシンは必ずしもポジティブな状況だけで増えるわけではなく、社会的・環境的な文脈によって働き方が変わるとされています。そのため、単独で「幸福度計」のように幸福度を測る指数としては使えないと指摘されているそうです。
むしろ酪農家にとって実感しやすいのは、ストレスでお乳が出にくくなることのほう。慣れない環境での搾乳などではオキシトシンの放出が抑えられ、乳汁射出がうまくいかなくなる場合があるといいます。
だから牛を怒鳴ったり、急に追い立てたり、いつもと違う環境にしたり、怖がっているのに無理に動かしたり。こうしたことは「牛が可哀想」という話だけでなく、牛の生理そのものと搾乳作業がつながっている、というわけです。
牛は機械じゃないんですよね。同じ搾乳機をつけても、同じ餌を食べても、同じ牛舎にいても、一頭一頭反応が違います。
「病気じゃないからOK」ではない、これからのウェルフェア
最近のアニマルウェルフェアアニマルウェルフェア ── 家畜が心身ともに健康で、その動物らしい行動ができるように、飼い方や環境に配慮する考え方のこと。「動物福祉」と訳されます。研究で面白いのは、苦痛を減らすだけでなく、ポジティブな経験をどう増やすかという方向に広がっていることだと川上さんは話します。
たとえば、快適に休めること、仲間と社会的な行動ができること、適切に餌を食べられること、探索したり自分で行動を選べること。牛のウェルフェアを考えるとき、病気じゃないからOK、というわけではないということですね。
そう考えると、スーパーの牛乳の見え方も変わってきます。パックの中は白い液体に見えますが、そこに至るまでには、牛が餌を食べ、反芻して休み、人や仲間や環境から刺激を受け、搾乳時には神経とホルモンが連携してオキシトシンによる乳汁射出が起きています。
つまり牛乳は、牛の体の生理活動の結果そのもの。そう知ると、いつもの牛乳がちょっと違って見えるかもしれませんね。
だから酪農家が牛を見るときは、乳量が何キロ出たかだけでなく、どう食べて、どう休んで、どう動いて、どう人に反応しているのか。そこまで観察することが、結果的に牛乳を作ることにもつながっていくといいます。
この牛は今何を選んでどんな行動をしているんだろう、そんな目線で観察してみてください。
まとめ
「牛はうつ病になる?」という素朴な質問から、牛の情動やストレス、そして搾乳に欠かせないオキシトシンまで話が広がった回でした。答えははっきり白黒つくものではありませんが、牛を見る目線がぐっと具体的になるお話でしたね。
- 人間と同じ意味の「うつ病」と断定するのは難しいが、牛にもストレスや恐怖、ネガティブな情動状態はある
- 牛の「元気がない」を精神的な落ち込みと決めつけず、病気・痛み・暑さ・餌など体と環境の両方を見るのが酪農家の観察
- オキシトシンは乳汁射出に欠かせないホルモンだが、「出た=幸せ」とは言えず、幸福度の指数としては使えない
- ストレスが強いとオキシトシンの放出が抑えられ、お乳が出にくくなるため、牛を怖がらせないことが搾乳にも直結する
- これからのアニマルウェルフェアは、苦痛を減らすだけでなくポジティブな経験を増やす方向へ広がっている

