ハウスキーピングではなく「コンシェルジュ」を名乗る理由
大谷紗耶さんは2021年、夫の駐在に伴い、当時1歳の子どもを連れて渡米しました。専業主婦の状態から起業し、日本人女性による家事サービス「Japan Home Concierge」を設立しています。
収録当日の大谷さんは、ホテルのフロントスタッフを思わせる黒いシックな制服姿で、顧客の家での仕事を終えて掃除道具を持ったまま駆けつけたといいます。
大谷さんによると、会社名には2つの思いが込められています。1つは日本人女性が活躍する場であってほしいという思い、もう1つは単なるハウスキーピングではないという思いです。
一般的な、そのお掃除だけして帰るようなハウスキーピングではなくて、お家のことをいろいろ、ホテルからコンシェルジュが来てやってくれるようなイメージで。
実際の依頼は掃除にとどまらず、洗濯物を畳む、ペットの世話をするといった内容もあり、大谷さん自身は棚のペンキを塗ったこともあるそうです。できることなら何でも引き受けるという姿勢を、ホテルのコンシェルジュに重ねて社名にしました。
社名には一流のサービスを提供するという意味も込めています。大谷さんは、日本人のきめ細やかさや丁寧さは、現地のハウスキーピング業者には負けない品質とポテンシャルだと考えています。
なぜなら、私たちはもう小学校にいる頃から、自分たちの教室を自分たちで掃除する文化がある。
大谷さんの見立てでは、日米の違いは子どもの頃の習慣から生まれています。
小学校の頃から、自分たちの教室を自分たちで掃除する
清掃員を雇って掃除する文化で、学校でも生徒が教室を掃除しない。家にハウスキーピングが入っていれば自分の部屋も掃除しない
Mikaさんも、シリコンバレーでは富裕層でなくても、一生掃除や片付けをしないで暮らしている人が普通にいて驚いたと話しています。
地方の高校で「サイン待ちの列」ができた日本語教師時代
大谷さんは大学で英米語を学びました。聞き手のMikaさんも同じ大学の出身です。卒業後は日本語教師養成講座に通い、その後1年間インドネシアで日本語教師を務めました。
大谷さんがインドネシアへ渡ったのは、当時の安倍首相が掲げた、ASEAN諸国へ日本人を派遣して文化的なつながりを強めるという取り組みの一環でした。大谷さんの記憶では、2020年までに2000人を派遣する計画だったといいます。
派遣先はジャカルタではなく、ジャワ島の真ん中にあるアンバラワという街です。インドネシアへの派遣は3期までジャカルタ周辺が中心で、大谷さんの4期から地方派遣が始まりました。
外国人がその街にいないみたいな街で、その街にもうスーパーもなくて、食料品は市場で買うみたいな。
アンバラワでは、朝早くに魚や肉、野菜をバイクで売りに来る行商のおばちゃんから食材を買うこともありました。大谷さんは、子どもたちと同じ相乗りバスで学校へ通い、授業をして帰るのどかな生活だったと振り返ります。
インドネシアの生徒は言語の授業がとても多く、インドネシア語、ジャワ語(バリの子はバリの言葉)、英語に加えて、日本語・中国語・ドイツ語などから選んで学びます。
ただ、こうした地方の生徒は、日本語を勉強しても将来の年収が低く、日本へ行くのは難しいのが現実です。大谷さんは、勉強する意味を見失いがちな生徒の気持ちを盛り上げることが、派遣教師の役割だったと考えています。
本当にインドネシアの高校生って、こっちのなんか小学3年生くらいのキャピキャピ感をまだ持ってる。
地方の高校生にとって日本人は珍しく、大谷さんの前には「先生ここにサインしてください」という生徒の列ができたそうです。大谷さんは「ちょっとした有名人、アイドル気分でした」と笑います。
就活に乗り遅れた留学帰りが、日本語教師を選んだわけ
大谷さんが新卒で日本語教師を選んだ背景には、大学3年生での留学があります。留学先はアメリカ東部のコネチカット州でした。
3年生で留学すると、帰国は4年生の6月ごろになり、就職活動の波に乗り遅れてしまいます。大谷さんが帰国したとき、周りの多くはすでに就活を進めているか、終えていました。
会社説明を見ても、大谷さんは自分がその会社で働く姿をイメージできなかったといいます。一方で、留学中に英語や日本語といった言語そのものに興味を持ち、アメリカの手話の授業も取ったことで、人に何かを伝えるツールに強く惹かれていきました。
新卒カード切れなくなっちゃうけど、まあどうせここの会社に入ったって私のやりたいことじゃないから、すぐ辞めるかもしれないなと思って。
大谷さんは大学卒業後に1年間の養成コースに通い、日本語教師としてのキャリアを始めました。大学にも日本語教師養成コースはありましたが、入学時はまったく興味がなく、取らなかったそうです。
二人の母校である関西外国語大学は、日本語教師やキャビンアテンダントになる人、いきなり海外で働く人も多い環境でした。Mikaさんは、日本語教師は身近な進路だったと話しています。
パソコンを持っていなかった元教師が、IT営業になるまで
大谷さんは熊本の出身です。インドネシアから戻って2週間後に熊本地震が起き、被災しました。身を寄せていた祖母の家は大規模半壊となり、住めなくなりました。
その後は避難所や、母親の友人の空き家で暮らしていました。そんなとき、熊本地震の被災者向けに東京の都営住宅を無料で開放するというニュースをテレビで知り、大谷さんは上京を決めます。
上京後に大手のキャリアエージェントへ相談すると、新しいプログラムを紹介されました。第二新卒から30歳以下の人を集めて1週間ビジネスマナーや名刺の渡し方を研修し、その後20〜30社と面接できるという内容で、大谷さんはその第1期に参加しました。
Mikaさんは、日本語教師の地方派遣も第4期からだったと指摘し、新しく始まる仕組みに飛び込むタイミングの良さに触れています。
大谷さんが就職したのは、面接を受けたIT系の会社です。本人はパソコンを持っていないほど疎かったものの、営業職であり、パソコンが使えれば将来役に立つだろうと考えて挑戦しました。
その社長のパッションがすごくある方で、その情熱をすごく会社に対して、仕事に対して注いでる方だったので、私、この人の下で仕事したいなと思った。
決め手は、社員20人ほどの小さな会社の社長と直接話し、その情熱に惹かれたことでした。
この会社は、FileMaker ── 自分たちの業務に合わせて、データベースや業務アプリを独自に作れるソフトウェア。プログラミングの専門知識が少なくても、画面や機能を組み立てやすいのが特徴ですを使い、顧客管理や売上管理などのシステムを顧客ごとに一から作っていました。
既存のパッケージでは「顧客のふりがなを管理したいのに入力欄がない」といった細かな不満が出ることがあります。紙とExcelで管理していて担当者が辞めるとお手上げになる会社に、使いやすい仕組みを作るのがこの会社の仕事でした。
大谷さんの職種はITコーディネーターという営業職です。顧客とやり取りして仕様を決め、仕様書や設計書を書いていました。プログラミングは専門の部署が担当していたため、コンサルティングに近い仕事だったといいます。
営業職と聞くと飛び込み営業を想像しがちですが、大谷さんの仕事は問い合わせを受けて訪問する形が中心でした。ただし、毎月のノルマはあったそうです。
100ページの仕様書づくりで見つけた「好き」
IT営業の仕事を通じて、大谷さんは仕様書や要件定義書 ── システムを作る前に、どんな機能や画面が必要かを顧客と合意してまとめる文書。開発の出発点になり、後のトラブルを防ぐ役割がありますを作るのが好きだと気づきました。
「誰が読んでもわかるものにしたい」っていうのは思っていて。
大谷さんが手本にしたのは、子どもの頃に読んだ、誰でもわかるように書かれた説明書です。システムの資料は難しい言葉や前提知識に頼りがちで、システムをまったく知らない社長が読んでもわからないことがあります。
そこで大谷さんは、ホーム画面のデザインやボタンの配置、押したらどの画面に移るかまでを1枚ずつ書き込みました。大規模なシステムでは、仕様書が100ページを超えることもありました。
Mikaさんは、こうした大谷さんの仕事を、概念的なものをかみくだいて伝える通訳のような役割だと表現しています。
大谷さんによると、仕様書を作り込むことで次のような効果が生まれました。
作り込む
画面や機能を1枚ずつ、誰が読んでもわかるように書く
期待どおりに完成
想像していたものができ、書いた機能が全部入る
不満が減る
使ってみて「あれがない、これがない」という声が少なくなる
説明書にもなる
仕様書がそのまま設計書と使い方の説明書を兼ねる
プログラミングの部隊からは「さやさんの資料は間違いないし、作りやすいし、早いし、お客さんとのトラブルも起きない」と評価されていました。
一方で、大谷さんに求められていた本来の役割は数字を上げることでした。小さな会社だったこともあり、仕様書づくりに専念するより、営業との両立を求めるのが会社の意向だったといいます。
Mikaさんは、自分の得意なことは実際にやってみないと気づけないし、そういう仕事が世の中にあることもわからないと話し、大谷さんも深くうなずいています。
「お客さんにいいものを」が招いた休職と、その後の答え合わせ
IT企業に入って3年ほど経ったころ、少数精鋭の会社で負担が大きくなり、大谷さんは精神的にも追い込まれていきました。オーバーワークで体調を崩し、適応障害 ── 環境の変化やストレスが原因で、気分の落ち込みや不安、体調不良などが現れ、日常生活に支障が出る状態と診断されて休職します。
お客さんにもいい顔したいし、でも数字がみたいなところで、ちょっとこうせめぎ合いがあって。
大谷さんは会社に、設計書づくりを専門にする部署へ移りたいと相談しました。しかし小さな会社では難しく、折り合いがつかないまま心身のバランスを崩したといいます。その後、妊娠がわかり、そのまま退職しました。
Mikaさんは、お客さんにいいものを出したいという手を抜かないこだわりに、大谷さんらしさが表れていると受け止めています。
当時はまだ、仕様書や要件定義書の重要性はあまり注目されていなかったそうです。ところが大谷さんが辞めて1〜2年後には、その大切さが見直され、年1回のカンファレンスでもセッションのテーマとして取り上げられるようになりました。
そういう意味ではやっぱり私がやってたことは間違ってなかったんだ。でもちょっと会社のその体制的にできなかっただけでっていうのは思いました。
マッチングアプリの出会いと、出産翌日に届いたアメリカ赴任の知らせ
大谷さんと夫は、マッチングアプリで出会いました。2017〜2018年ごろ、マッチングアプリが出始めたばかりの時期だったといいます。アプリを開くと新規登録した男性が5人ほど自動で表示され、夫はその中の1人として出てきました。
Mikaさんは、出始めのマッチングアプリ、第1期の転職プログラム、ニュースで知った都営住宅の開放と、正体のわからない新しいものに飛びつき、自分事にしてしまうところが大谷さんらしいと話しています。
夫のアメリカ赴任が正式に決まった知らせは、思いがけないタイミングで届きました。
私昨日娘を産んだばっかりなのに。
コロナ禍で病院に家族が入れなかったため、大谷さんは赴任の知らせをLINEで受け取りました。それでも、前々から赴任はありそうだと思っていたうえ、留学経験もあってアメリカへ行くことに抵抗はなかったといいます。
熊本、大阪、コネチカット、インドネシアと住む場所を転々としてきた大谷さんにとって、また別の場所に住めるのはきっと楽しいだろうと思え、知らせを聞いて「やったー」と感じたそうです。
児童館がない国で、日本人の友達ができるまで
渡米後の大谷さんが最初に直面したのは、アメリカには児童館がないという現実でした。日本では毎日、近所の児童館に娘を連れて遊びに行っていましたが、アメリカではその居場所がなく、日本人の友達も作れません。
家、公園、ホールフーズ、家、公園、ホールフーズ。
住んでいたアパートには公園があり、ホールフーズ ── アメリカの高級志向のスーパーマーケットチェーン。オーガニック食品や質の高い商品を多くそろえ、価格は比較的高めですも徒歩圏内にありました。しかし価格が高めなこともあり、やがて行き先は家と公園だけになっていったといいます。
Mikaさんは、図書館のストーリータイム ── アメリカの図書館などで開かれる、子ども向けの読み聞かせの集まり。親子が地域の人と知り合うきっかけにもなりますか公園くらいしか行き場がなく、行ってもシッターばかりで友達を見つけにくいと共感します。大谷さんは当初、ストーリータイムの存在すら知りませんでした。
渡米から3か月ほどは大谷さんの母親も同行していましたが、その間、日本人には誰にも会わなかったといいます。転機は、母親が娘を連れて公園に行ったときに訪れました。
(母が)「ちょっと日本人の人がいる!」とかって言ってて、「子供もいるから早く来て!」みたいな。
公園で出会ったのは、同じアパートに住む日本人の親子2組でした。ママ同士も子ども同士も年齢が近く、友達になったそうです。
Mikaさんは、海外で生活を軌道に乗せるまでは情報戦だと振り返ります。おいしいヨーグルトや野菜を買う店、車や移動手段、幼稚園、歯医者、かかりつけの病院まで、頼りになるのはネットより信頼できる人の口コミだといいます。
子供を連れてきて、何のコミュニティにも属してないこの状態だよね。ほんと。このね、アウェイ感、アローン感。
出産から渡米までずっと専業主婦だった大谷さんは、ここから多くの人と出会っていきます。その出会いが現在の起業につながる話は、次回に続きます。
まとめ
大谷紗耶さんの歩みは、日本語教師、被災をきっかけにした上京とIT営業への転職、休職と出産、そして渡米と、思いがけない転機の連続でした。新しい仕組みに飛び込む行動力と、相手にいいものを届けたいというこだわりは、現在の家事サービスにもつながっているように見えます。
- Japan Home Conciergeは、掃除だけでなく家のことを幅広く引き受ける「コンシェルジュ」型の家事サービスとして設立された
- 大谷さんは、日本人が子どもの頃から教室を掃除してきた文化に、家事サービスの品質とポテンシャルを見いだしている
- インドネシア・アンバラワでの日本語教師時代には、生徒からサインを求められるほど歓迎された
- IT営業時代に、誰が読んでもわかる仕様書を作るのが好きで得意だと気づいたが、会社の体制と折り合わず休職した
- 渡米直後は児童館がなく孤立しかけたが、母親が公園で日本人の親子と出会ったことで友人ができた





