HIKKYはいま何をしている会社か
舟越靖さんは、VRやメタバースの領域で事業をしている株式会社HIKKYの代表です。ヘッドセットを被ってゲームのような世界に入り、その中でさまざまな体験ができる環境を、プラットフォームやイベントなど複数の形で手がけているといいます。
HIKKYを創業してから、すでに8年ほどが経っています。聞き手の坂本さんとは10年来の付き合いで、創業時には舟越さんが坂本さんに資金調達の相談をしていました。
(資金調達は)お金は出す方だけど、自分でもらう方やったことがなくて。
舟越さんはそれまで、他人の事業に出資する側として「いけるだろう」「こいつはちゃんとやりそうだ」という感覚で資金を出してきました。そのため、VCから「有名人に出資してもらわないと値がつかない」といった事業と関係のない話を聞いて戸惑ったそうです。
いや、何言ってんのかな、この人事業経験あるのかなみたいな感じで。
そこで、信用できる相手として、当時エンジェル投資を始めて2年ほどだった坂本さんに最初に相談に行ったと振り返っています。
15年前に始めた「クリエイターの価値を上げる」仕事とは
坂本さんと舟越さんが出会ったのは、坂本さんがGoogleにいたころのAndroid関連の集まりでした。舟越さんは当時、クリエイターを連れて参加していたといいます。
舟越さんが約15年前に始めたのは、今でいうインフルエンサーのような存在を育てる仕事です。ニコ生 ── 動画サービス「ニコニコ動画」のライブ配信機能「ニコニコ生放送」の略称。2000年代後半から2010年代前半にかけて、配信文化の中心の一つでしたが全盛期を迎えていたころで、クリエイターは大きなポテンシャルを持ちながら、市場ではほぼゼロ円の価値しかつかない存在だったと話します。
たった一人でペンを振るって、億人を感動させる能力者が、実はそんなにいい待遇で働いてないわけじゃないですか。
舟越さんによれば、当時は広告代理店やテレビに認められない限り、どれほど優れた作品も世に出ない状態でした。本来つけるべき価値と現状の差が大きいからこそ、その差を埋めれば自分も報われ、クリエイターも喜ぶと考えたといいます。
具体的には、クリエイターにスポンサーをつけ、チームにしてニコ生に出すという、インフルエンサー会社の走りのような事業でした。周りに同じことをする人はおらず孤軍奮闘でしたが、大きな市場を狙わなければ、やればやるほど成果が出たそうです。
舟越さんが一番手堅かったと語るのが、秋葉原でのPCパーツメーカーの宣伝です。IntelやAMDのような企業が、CM以外に秋葉原で使う広告費は年間5000万円ほどで、店頭のポップや配布スタッフに使われていました。
そいつらにニコ生配信でPCの自作とかさせてて、そこにスポンサードしない?みたいな交渉をして。
この配信は実際に人気になりました。舟越さんの事業はその後、次のように広がっていきます。
スポンサー獲得
クリエイターのニコ生でのPC自作配信に、秋葉原の広告費を呼び込む
女性eスポーツチーム
eスポーツ出始めの時期に、当時なかった女性チームを作り協賛を得る
制作の請負
スマートフォンゲームの登場に合わせ、イラスト制作やCMの手伝いを受ける
ゲーム制作
請負からゲーム制作そのものへ移行する
クリエイターになりたかった少年は、なぜビジネス側に回ったのか
坂本さんは、舟越さんの仕事はクリエイティブそのものではなく、形にして稼ぐビジネスサイドではないかと尋ねます。舟越さんの答えは、もともとはクリエイターになりたかったが、才能がないと思ってあきらめた、というものでした。
舟越さんは自分で漫画も描いていましたが、当時はベタ塗りやトーンがすべて手作業でした。その作業が面倒すぎて無理だったと笑いつつ、漫画は好きすぎて大人になってからも描いていたそうです。脚本やアートの見方もしっかり学んでいたといいます。
50歳になった舟越さんは、企画や脚本でヒットを出してきたことで、クリエイターになる夢も一部は叶ったと振り返ります。そのうえで、自分に向いているのは育てる側だと結論づけています。
幼少期から絵を描くのが大好きで、一日中描いていたという舟越さん。生まれは渋谷区、子ども時代を一番長く過ごしたのは世田谷でした。夏休みにみんなが田舎へ帰る中、一人残って漫画を描いていたといいます。
舟越さんの母親は事業家でした。その姿を小さいころから見ていたため、就職という概念を持たないまま、中学生のころには当たり前のようにビジネスの真似事を始めていたそうです。
小学生が母親に出したファミコンの「企画書」
舟越さんが最初に手がけたビジネスらしいものは、小学校低学年のころでした。ファミコンが流行り始め、隠しコマンドで無敵になるなどの「裏技」を見つけると、学校でヒーローになれた時代です。
ただ、一人で裏技を探すには限界があります。そこで舟越さんは、ファミコンを何台も買って友達を集め、一斉に遊ばせ、見つかった裏技はすべて自分のものにするという仕組みを考えました。
小学校のノートに企画書を書いて、こういうことをやると、いい情報が手に入って、俺はすごい学校でドヤれるから、たくさんファミコンを買ってくれっていう。
母親から「1台でなぜダメなのか」「買った意味をもっと出せるのか」と問われ、「勉強になる」と答えたところ、購入を許されたそうです。この経験から、手段を工夫すれば情報を得られるという感覚を、幼いうちに身につけたといいます。
このファミコンの話には後日談があります。舟越さんが仕事で知り合った元フリークアウトのホンダさんホンダさんの表記と飲みに行ったところ、ホンダさんの妻がXで舟越さんを見かけ、「小学校の同級生かもしれない」と言っていたそうです。
ファミコンをいっぱい買ってみんなを呼んでって話が出て、そんな俺しか知らなくて、それ本物すわって、もう大盛り上がり。
坂本さんは、資金調達のやり方がわからないと相談してきた舟越さんが、小学1年生の時点ですでに事業計画を出して母親からお金を引き出していたと指摘しました。
中学生のレンタルビデオと、札束に触れて育った金銭感覚
中学生になった舟越さんは、兄が見飽きていた成人向けビデオを友達に貸し出す「レンタルビデオ屋」を始めます。兄のビデオを持ち出すリスクがあるため、1泊数千円という高い料金をつけたところ、予約が殺到したといいます。
味を占めた舟越さんは、ビンゴのような賭けのゲームも始め、筒状の入れ物がお金でいっぱいになるほど盛り上がりました。高校ではアルバイトの斡旋もしていたそうです。
一方で、舟越さんは集まったお金そのものにはあまり興味がなかったと話します。母親が高級車を買いまくるなど、稼いだお金を全部使うタイプで、舟越さんはその姿に少し引いていたといいます。
稼ぐという楽しさを味わいたいだけで、ゲームのスコア上げるような感じ、感覚なんですよ。
母親の教育方針について尋ねられると、舟越さんは「自分でやれ」と教えられたことはないと答えます。ただ、食品の仕入れと卸しの現金商売だった家では、札束や硬貨の棒をとにかく触らされ、お金を数えさせられ、札束を積み木にして遊んでいたそうです。
幼いころには大金を持たされ、商店街の先にある銀行へ預けに行かされたこともありました。坂本さんは「聞いたことない初めてのお使い」と驚いています。
舟越さんはこの経験で、現金への抵抗感がなくなったと考えています。多くの起業家や出資先が、大した額ではないお金で素晴らしい人格を失う姿を見てきて、その原因はお金への不慣れではないかと感じたといいます。
母親結構早めに死んじゃったんで、一体なんでああいうことしたかよくよくわかんないんですけど。
坂本さんも、AppLovinの上場でお金が入ったとき、エンジェル投資の1回あたりの金額がつい上がってしまった経験を明かし、舟越さんの話に共感しました。
漫画と商売で磨かれた「どうすれば人が喜ぶか」
坂本さんは、ビジネス面だけでなく、クリエイティブな力はどこで育ったのかを尋ねます。舟越さんによれば、それは漫画とゲームに集約されていました。ネットで描き方を学べない時代だったため、人がどう喜び、どう驚くかを考えながら描くしかなかったといいます。
舟越さんは、授業を中断させるほどクラスを笑わせるにはどうするか、といったことも考え続けていました。技術も情報もないので、描いて見せてダメ出しされる試行を繰り返したそうです。
中学生の商売でも、舟越さんの関心は儲けそのものより、相手をどれだけ喜ばせるかにありました。兄のビデオの中でどれが一番いいのか、カジノのようなゲームをどうすればわかりやすく、エキサイティングにできるのかを考えていたといいます。
とにかく人を喜ばしたり、心が上下することに、なんかすごい興味があったんで、そのことばっかりを追求した繰り返しが。
舟越さんは、この繰り返しがクリエイティブを意識し、地力として身についた部分だと考えています。
お手本がない
ネットもなく、描き方や商売のやり方を学ぶ環境がない
試すしかない
人が喜ぶ形を考え、描いて見せる・売ってみる
結果を見る
ダメなら直し、うまくいけば続ける
企画力の地力
異常な回数のトライアルが、現在の企画力の原点になる
坂本さんは、普通なら社会人になって25〜26歳ごろから始める企画の試行を、舟越さんは10年前倒しで実地でやっていたとまとめます。舟越さんの答えは「ただ笑かすために」でした。
学校に行かなくなった理由と、ガソリンスタンドの携帯販売
舟越さんは、親の力で高校や大学への道は用意されていたものの、学校には行かなくなりました。事業やクリエイティブの話をしたい舟越さんと、合コンや受験、就職の話をする同級生とでは、会話が合わなかったといいます。
だったらその働いてくれるやつを探すとか、他になんか面白いもの仕入れられないかなとか、そっちの方に興味が出るんで。
当時の舟越さんは、ビジネスパートナーという言葉もよくわからないまま、人が欲しがりそうなものを探していました。そのころ、先輩や知り合いのルートから回ってきたのが、出たばかりの大きな携帯電話でした。
携帯電話の流通が整っていない中、舟越さんは学生がよく働いていたガソリンスタンドに目をつけます。給油に来たお客さんに携帯電話を提案する方法を考えたところ、この売り方が主流になって一気に広がったそうです。
小さくこう成功するか失敗するかを繰り返すんで、それはもう学校行ってらんないですよね。面白すぎて。
坂本さんは、うまくいくかもしれないと思って試し、成功を味わう感覚は今ならよくわかるとしつつ、学生時代にそれでお金を稼ぐ発想はなかったと驚きます。前編はここで区切られ、舟越さんがどのようにXRやメタバースの世界へ進んだのかは、後編で語られます。
まとめ
舟越靖さんの原点には、事業家の母のもとで現金に触れて育った環境と、お手本がない中で人を喜ばせる方法を試し続けた膨大な経験がありました。その延長線上に、クリエイターの価値を上げる仕事と現在のHIKKYがあります。
- 舟越さんは約15年前、市場でほぼ評価されていなかったクリエイターにスポンサーをつける事業を始めた
- クリエイターを目指した経験を経て、育てる側のほうが幸せを感じられると考えている
- 小学生のころ、ノートの企画書で母親を説得し、ファミコンを複数台買ってもらった
- お金に触れて育った経験から、お金への不慣れが人を変えると見ている
- 漫画と商売での異常な回数のトライアルが、現在の企画力の地力になったと語っている






