苗を背負いすぎて左腕が動かなくなった山道の話
冒頭は、収録6回目でも機材のセッティングに慣れないという雑談から始まります。ひとしは毎回「これどうやって使うのかな」と戸惑い、電源ボタンを長押ししても入らないことがあると話します。
季節は春に近づき、たっちゃんはこの日、普段のタンクトップではなく上着を着ていました。理由は花粉です。
自称花粉症じゃないけど、もう花粉が怖くて(花粉は)家に持ち込まない。
そこから話は、直近でひとしが負った怪我へと移ります。重い苗を背負って山道を登った結果、左腕が動かなくなってしまったといいます。
わさび田は山の中にあり、車で40分ほど進んだ先から、さらに山道を40〜50分歩いて登る必要があります。ひとしはその道を、大きな段ボール箱に入った苗を背負子 ── 荷物を背負って運ぶための木や金属の枠組みの道具。重い荷物を背中に固定して山道などを運ぶために使われますで重ねて背負って登りました。
この背負うとこの紐が肩に食い込んで、特に左の胸から、肩から脇に食い込んで、左腕が動かなくなっちゃう。
たっちゃんによれば、その荷物は40キロ以上あったのではないかといいます。ひとしは自分の体感では60キロぐらいに感じたと振り返ります。
たっちゃん自身は軽い竹籠を背負い、20キロの苗を手で持って登っていました。ひとしより先にポイントへ着き、後から様子を見に戻ると、ひとしの左肩から上が青くなっていたといいます。
時間経っても変わんないから、あれ、これは血液じゃないかなつって。神経系か?つって。
ひとしはこの後、キャニオニングガイドの試験を控えていました。腕が動かない状態で試験を受けることになり、不安が拭えないと話します。
元ヘアメイク、ツアーガイド、缶詰会社。バラバラすぎる3人の過去
この回のテーマは「なぜわさびを選んだのか、1から始める怖さとワクワク」です。3人はもともと全く違う世界から奥多摩のわさび農家にやってきました。
たっちゃんは、美容室で働いたりヘアメイクをしたりする仕事を10年ほど続けていました。東京と大阪にいて、大阪のほうが長かったといいます。
ももは、奥多摩に来る前はニュージーランドにいました。最初はカフェで働き、その後ツアーガイドをしていたといいます。
(ニュージーランドの)北から南まで、ずっとバスとか船で移動しながら、たどり着いたところでカフェで働いてた。
移動の途中では、宿泊先のエクスチェンジ ── 数時間働く代わりに宿泊させてもらう仕組み。お金をかけずに滞在を続けたい旅行者が利用しますも利用していました。ホテルの掃除をする代わりに滞在させてもらう、という形です。
お金なかったからね。
お金がなかったのは、ひとしも同じでした。初めてニュージーランドに行ったときは、缶詰の豆で生活していたといいます。ももも、安いパンとハムだけで過ごした経験を重ねます。
ももは、ニュージーランドの前はカナダにもいました。そして日本にいたときは、缶詰の会社で商品開発をしていたといいます。
たっちゃんも奥多摩に来る前は日本全国を回っていました。直島で海に浮かんだり、北海道の大地で過ごしたり、浜松にいたりと、行き先はさまざまでした。
直島で海でプカプカ浮いてたり、北海道の大地で転がってたり、浜松でゴロゴロしてたり。
実際にはボートに乗ってゴミ拾いをしながら、シーウィード ── 海藻のこと。ここでは直島で海藻の養殖に携わっていたことを指しますを育てていたといいます。今でも年に一度ほど、当時世話になった親方に会いに行くそうです。
なぜ美容の世界を離れたのか
ひとしは、たっちゃんがなぜ美容業界を辞めたのかを尋ねます。たっちゃんは、店を出すほどの熱量がないと続けられないと感じていたと答えます。
なんかお店出したりとか、そこまでの熱量がないと、多分行ききれないっていうか。
美容の世界では、稼ぐには自分が有名になるか店を持つかという道が見えていました。しかし経営を学んでこなかったため、なりたい姿の描き方がわからなかったといいます。
(美容の仕事は)18から(お客さんだけを見て)お勉強してきたから、対お客さんしか見てきてないから、やっぱわかんないですよね。
たっちゃんは、わさびをやらせてもらった今だからこそ、美容にも会社向けや介護美容など、いろいろな攻め方があったと気づいたといいます。当時は一つ上の先輩を見て「店を持たなきゃいけないのかな」と思い込んでいた、と振り返ります。
ひとしも、整体やマッサージをしていた時期に「店をオープンするしかない」と考えがちだったと共感します。パッと思いつくのは、自分が見てきた先輩の姿になりやすいというわけです。
3人がそれぞれ違うバックボーンを持っていることは、チームの面白さでもあります。ひとしは「全く違うのが面白い」と話します。
わさびを通じた「職業体験」という視点
たっちゃんは、わさびを通じてさまざまな企業と協業する中で、「わさびを通じて職業体験をさせてもらっている」ような感覚があると話します。
わさびを通じて職業体験をなんかさせていただいてるっていう感じもするんですよね。
例えばサンシャイン水族館では、わさびを半年ほど展示してもらう中で、お客さんが入れない裏側にまで入らせてもらったといいます。
JRの駅弁の仕事では、通常は入れない場所に入り、そこで面白いハンコを見つけて「これ使っていいですか」と実際の仕事につなげたこともあったそうです。
俺ら本当にわさびのおかげでいろんなつながりといろんな経験できてきてるよね。
震災で問い直した「本当に必要なもの」
ももが海外に出たきっかけは、2011年の東日本大震災でした。内陸部だったため直接の被害はありませんでしたが、大きな転機になったといいます。
当時ももは新卒で入った缶詰の会社にいて、5年目ごろでした。会社にあまり好感を持てず、進路を考え始めていたところに地震が起きました。
(地震が起きて)やりたいことをやっておいた方がいいよねと思って。
震災による停電などを経験する中で、ももは「これはやらなくてもいいこと」「これは必要ない」と感じることが増えていったといいます。自分の中で、必要なものと必要でないものの区別がついていったのです。
自分の中で必要なものと必要じゃないものを分けたいなと思って、もう必要なものだけにしようと思って。
その延長で、ももは化粧をほとんどしなくなり、物を減らしていきました。英語を話せるようになりたいという思いも重なり、海外へと向かったといいます。
3万円で3ヶ月。ひとしがニュージーランドに渡った理由
一方、ひとしがニュージーランドに渡ったきっかけは、ラフティングの練習でした。当時は全く自信がなかったといいます。
行き先がニュージーランドだったのは、勤めていた会社のオーナーがニュージーランド出身で、周りにニュージーランド人のスタッフや、そこへ練習に行った先輩が何人もいたからでした。
調べていくと、1年間海外でどんな職業にも就けるワーキングホリデー ── 協定を結んだ国の間で、若者が一定期間、休暇を楽しみながら働くことも認められる制度。日本では対象年齢に上限がありますという制度があることも知ります。ただ、ひとしは対象年齢がギリギリでした。
最初はワーキングホリデーのビザを使わず、3ヶ月の練習として渡航しました。しかも持っていたのは3万円ほど。最初の2週間で半額ほどが講習会でなくなり、最後はこっそり持ってきた親のカードに頼ったといいます。
3万円ぐらい持って、3ヶ月間行って、最初の2週間ぐらいで半分ぐらいなくなっちゃって。
ひとしにとって、このキャニオニングを始めた群馬県みなかみは「始まりの場所」です。アウトドアがなければわさびに出会わなかったからです。
キャニオニングがなかったら、このアウトドアがなかったらわさびに出会わなかったから、すごい始まりの場所という感じ。
海外で気づいた「日本の良さ」とわさびという答え
話は、なぜ数ある選択肢の中からわさびだったのかへと進みます。ひとしはニュージーランドに5シーズン通う中で、日本を強く意識するようになったといいます。
現地のアウトドアガイドはレベルが高く、子どもの頃から続けてきた人が多いため技術が染みついていました。その中でひとしは、日本人として負けたくないと感じ、「日本ってどんなところがいいの」と問われることで日本を考えるようになったといいます。
日本ってどんなとこいいの?とか言われたことによって、日本を考えるきっかけになって。
海外にいる日本人が「日本より海外のほうがいい」と言うことに、ひとしは違和感を持っていました。日本にもたくさん良いところがあると感じていたからです。
良いところとして挙がったのが、食べ物のおいしさです。ももは「米が美味しい、ベースが美味しい」と話します。
ひとしがもう一つ挙げたのは、日本語がそのまま通じることでした。海外では思っているより英語が話せず、意思疎通に苦労します。言葉が通じる環境は、それだけで過ごしやすいと感じたといいます。
日本だとなんかあれ、ちょっとめっちゃやれるじゃんって(思った)。
さらに、ひとしがニュージーランドから帰国した直後にはクライストチャーチ地震 ── 2011年2月にニュージーランドで発生した大地震。同年3月の東日本大震災の約1ヶ月前に起きましたがあり、その後に東日本大震災が起きました。日本のために何かしたいという気持ちが芽生えたといいます。
ひとしは、自分たちの世代が日本の良い時期をほとんど経験しておらず、日本全体が自信を失っているように見えたと話します。だからこそ、日本の良さを伝えたいと考えました。
コロナがもたらした3人の合流
わさびに向かう流れを決定づけたもう一つの転機が、コロナ禍でした。ももはコロナがなければ日本に帰ってきていない可能性があるといいます。
だって日本に私帰ってきたもん。(コロナがなかったら帰ってきてない可能性がある)
ひとしとももにとって、ニュージーランドは日本と通じる部分の多い場所でした。島国で地震や温泉があり、国民性も似ていると感じていたといいます。
特にももが暮らしていたクイーンズタウンは、自然と隣り合わせの観光地で、奥多摩に近い雰囲気だったといいます。景色は違っても、自然が豊かでアウトドアが活発という点が共通していました。
ひとし自身も、コロナでアウトドアの会社の仕事がなくなったことがきっかけでした。そこで、近くにいたたっちゃんに「わさびを勉強しに来よう」と声をかけたといいます。
俺不安の中、たっちゃん来てくれるかなって思って。
たっちゃんも、コロナで勉強していなければわさびはスタートしていなかったと振り返ります。それまでわさびをちゃんと食べたことがなく、東京にわさびがあることも知らなかったといいます。
そもそも奥多摩のわさび田は急峻な山の斜面にあり、登山でもしなければ出会えない場所にあります。壊れたわさび田は、説明されなければ石が崩れた場所にしか見えないといいます。
わさび田は「農業」ではなく「土木」と「林業」に近い
たっちゃんは、美容の経験がわさびに生きている面もあると話します。畑の中だけでなく、外枠の見た目もかっこよくしたくなってしまうというのです。
(畑の)外枠っていうか、かっこよくしたいっていうか、そこを直さなくていいじゃんっていうとこも直したくなっちゃいますよね。
わさび田は山の中にあるため、境界があるようでなく、作業は広大になっていきます。たっちゃんはこれを「山のデザイン」だと表現します。
山のデザインだから、なんか言葉では今できないけど、デザイナーですよね、山の。森をデザインできたらいいですね。
ももが自然や環境への配慮を大切にする姿勢は、カナダのバンフでの暮らしにも通じています。バンフは街全体が世界遺産で、国立公園の中に街があるという場所でした。
奥多摩も国立公園 ── 自然の風景を保護するために国が指定した地域。奥多摩は秩父多摩甲斐国立公園に含まれますの中にあります。ももがバンフのような場所に住んでいた経験は、奥多摩の価値を世界目線で伝える材料にもなると3人は話します。
ももが缶詰会社で商品開発をしていた経験も、思わぬ形で生きています。加工食品の一括表示ラベル ── 食品のパッケージに表示される、原材料名や添加物、内容量などをまとめて記載したラベル。表示方法には決まりがありますの作り方や、加工食品のベースの知識があったのです。
まさかのね、商品開発のおかげで一括表示ラベルみたいなのの作り方がなぜかわかって。
食の仕事は幅が広く、飲食店で働くこと、加工品を作ること、卸すことは、隣り合っていても業種が違うほど別物だとたっちゃんは話します。同じ飲食店でもキッチンの中と外で全く違うといいます。
農家も同じで、育てるものが違うだけで職種が違うほど異なります。中でもわさびの畑は特殊です。ひとしとももは、わさび栽培は農業というより林業と土木作業がメインだと語ります。
もちろん土や栄養といった農業の素養も必要ですが、それ以上に山の知識や土木の知識が求められるといいます。
土や栄養、苗の育成など、作物を育てる素養が必要
山の斜面での石積みや水路づくり、木や地形を考える知識が中心
急な斜面と石積み。怪我と隣り合わせの現場
わさび田の作業は、怪我と隣り合わせです。出勤するのに登山から始まる場所もあり、平らな場所で物を運ぶのとは訳が違います。
石積みを手伝ってもらう際には、重い石を運ぶため指を挟む危険もあります。足場が悪く、きつい場所では斜度が35〜40度ほどにもなるといいます。
足場が悪くて、斜度がきついとこだと35度とか40度ぐらいあるから、あんまりそんな畑って少ないよね。
山の中ではすぐに救助も来ず、場合によっては自力で下山しなければなりません。そのため、体力も欠かせないとたっちゃんは話します。
林道の整備で行きやすくはなったものの、人手はまだ足りていません。3人は、東京・奥多摩のわさびをつなげて残していくために、手伝ってくれる仕組みづくりを続けたいと語ります。
ひとしは、支えてくれる人たちを「わさびファミリー」と呼びます。家族や奥多摩の仲間、都心の協力者まで含め、楽しさを基準にやっていきたいといいます。
わさびファミリー、みんなでね、楽しく、やっぱ楽しいのが俺も好きだから、それを基準にやっていければいい。
話を振り返り、3人に共通しているのは、わさびが好きで、日本が好きだということでした。ひとしは、変化を楽しみながら一歩踏み出すことの大切さを語ります。
今年は、ももがコーヒーのイベントに挑戦するなど、それぞれがチャレンジを続けます。たっちゃんは40歳になることを一つの目標に挙げ、3人は互いを応援し合いながら前へ進もうと話します。
まとめ
ヘアメイク、ツアーガイド、缶詰会社の商品開発と、全く違う道を歩んできた3人が、震災やコロナといった転機を経て奥多摩のわさびに合流しました。それぞれの過去の経験が、山をデザインするようなわさび田づくりに思わぬ形で生きています。
- たっちゃんは元ヘアメイク、ももは元缶詰会社の商品開発とニュージーランドのツアーガイド、ひとしはアウトドアガイドと、3人の過去はバラバラだった
- ももは震災を機に「本当に必要なもの」を問い直し、ひとしは海外で日本の良さに気づいたことが、わさびを選ぶ背景になった
- コロナ禍は、ももの帰国やたっちゃんの合流を後押しし、3人がわさびに集まる大きな転機になった
- わさび田づくりは農業というより林業と土木に近く、急な斜面での石積みなど怪我と隣り合わせの作業が多い
- 過去の経験は無駄にならず、ももの加工食品の知識やたっちゃんのデザイン感覚が、今のわさびの仕事に生きている




