怒らなくなった僕と、ある記事の問いかけ
僕は最近、怒ることが減ってきているような気がしています。
一番多かったのは、たぶん子どもに対して怒ることでした。こうした方がいいと思ってもできないことは多いですし、怒りは反射的に出てきてしまうものです。
でも、考え方が変わってきて、「まあ、そうか」と思えるようになりました。振り返ると、我を押しつけるための怒りが、僕の怒りの動機として強かったなと思うんです。
怒らない僧侶、横山。穏やかでいいんじゃないかと思っていました。
そんなときに読んだのが、イギリスの新聞『ガーディアン』の記事です。タイトルは「怒りの効用」で、激しい怒りは人間の最も深い慈悲の形になりうるのではないか、と問いかけていました。
ん?と思いますよね。
哲学者たちは「いい怒り」と「悪い怒り」を分けてきた
私たちの多くは、怒りは抑えるもの、コントロールするものだと考えています。最近はアンガーマネジメント ── 怒りの感情と上手に付き合うための心理的なトレーニングや考え方という言葉もよく聞きますよね。
でも記事によると、昔から哲学者たちは怒りを、いい怒りと悪い怒りに区別してきたそうなんです。
古代ギリシャのアリストテレスは、怒ること自体は誰にでもできるけれど、正しい相手に、正しい時に、正しい程度で、正しい目的のために怒るのは難しい、と言っています。そして、それができたとき怒りは徳になる、と。
中世のキリスト教の神学者トマス・アクィナスは、正しいことのために動くべき場面で怒らない、動けないのは、かえって悪徳になりうると言っているそうです。
現代の哲学者マーサ・ヌスバウムは、怒りに価値があるのは、それが相手のためや、より良い未来のための行動にすぐ変わったときだけだとしています。正当な怒りでもくすぶらせたままにしておくと、ただの仕返ししたい気持ちに変化して、矮小化されてしまうんだそうです。
記事の筆者は、部屋を片付けない娘に腹が立つという身近な例を出していました。その怒りには親としての意地もあるけれど、奥には、この子に元気でいてほしい、朝ちゃんと靴下を見つけて学校に行けるようになってほしいという気持ちがある、と。
微笑ましいですよね。うちも靴下が散乱していて、今日履くやつなのか昨日脱いだやつなのか、みたいなことがあります。
詩人のデビッド・ホワイトの、怒りとは相手を大事に思う深い気持ちをうまく行動に移せないときに起きるものだ、という言葉も紹介されていました。怒りの奥には、相手をケアしたい気持ちがあるんじゃないか。それが記事の内容です。
仏教にもある「怒りの顔をした慈悲」
では仏教はどうか。仏教では、怒りは三毒 ── 貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の3つの煩悩。心を毒するものとされるの一つです。
むさぼり、怒り、愚かさ。この3つを心を損なうもの、煩悩の原因として戒めています。記事の中でも、仏教は怒りを否定する側として紹介されていました。
ただ、仏教に怒りのものがまったくないかというと、そういうわけでもないんです。
日本のお寺に行くと、山門に怖い顔をした仁王像がいたり、炎を背負って剣を持った不動明王がいたりしますよね。あれは完全に憤怒の顔です。
でもあれは、迷っている人を何としても救おうとする慈悲の表れだと言われています。優しく言っても聞けない人を、怖い顔をしてでも引き戻す姿なんです。
怒りの顔をした慈悲は、実は仏教の中にもあると言える気がします。
日蓮聖人が描いた曼荼羅にも、左右に不動明王と愛染明王が梵字で書かれています。うちの本堂にも不動明王の仏像が祀られていて、僕にとっては身近な存在です。
ちなみに僕も、集中するとしかめっ面になって、顔が怖いと言われます。これは不動明王とはまったく関係ないんですけど、、まあ、これはいいですわ。
激しさとやさしさは、同じ一人の人の中にある
日蓮という人を見ていると、この話がなんとなくわかってくる気がします。
日蓮に強烈なイメージを持っている方は多いんじゃないかと思います。初対面の他宗派の方に日蓮宗のお坊さんだと言うと、構えられることがあるんです。他宗を強烈に批判したと紹介されますし、実際にそれをしたので、折伏されるんじゃないかと思う方もいまだにいるみたいです。話すとわかってもらえるんですけどね。
日蓮聖人は、時の権力に対して本当に厳しい人でした。『立正安国論』を当時の幕府の最高権力者だった北条時頼に提出し、政治のあり方とその元になっている信仰のあり方が間違っているからこの国が危ないのだと諫めました。
そのために命を狙われ、伊豆と佐渡に2度も流罪になっています。
背景には、その前の数年、地震や台風、飢饉や疫病が続き、多くの人々が命を落としていくのを日蓮が目の当たりにしたことがありました。なぜそうなっているのかを、一切経を読んで研究し、何とかしなきゃいけないと書物にまとめて諫言したわけです。
スタート地点には、苦しんでいる人々がいた。記事の話で言えば、その人たちへのケアの気持ちから怒りが生じたと言えるんじゃないかと思いました。
一方で、信者さんに宛てた手紙を読むと、まったく違った顔が見えてきます。
たとえば時尼という女性への手紙には、「矢の走ることは弓の力、雲の行くことは龍の力、男の仕業は目の力なり」という言葉があります。男が何かを成し遂げるのは妻の力である、と。今の社会だとちょっと炎上しそうな言葉ではありますけども。
夫の時上人さんは熱心な信者で、その信仰を横で支えてくれるあなたがいるからですよ、ということがこの例えとともに説かれています。同じ手紙には、時尼の体調を心配したり、お灸の治療を勧めたりする記述も、確かあったような気がします。
権力にはあれほど厳しかった人が、一人ひとりの信者さんの健康を細やかに気遣っていた。この2つは一人の人の別々のあり方で、根底には同じ慈悲があって、それが時に厳しさとして、時にやさしさとして出ていたんじゃないかと思います。
その怒りは、慈悲から始まっているか
ただ、怒りがすべていいわけではありません。我を通すための怒りは、やはり良くない怒りだと思います。
慈悲とはまったく逆の、我からスタートしている怒りは、人を傷つけるばかりで、その先にその人へのやさしさはないんです。
日々、憤ることもあると思います。そのとき、慈悲から始まっているのか、我から始まっているのかを一つひとつ見ていくといいんじゃないかと思います。
僕は最近怒った記憶がない、という話から始めましたが、それがいいことなのかどうかも考えなきゃいけないなと思っています。何でも「いいじゃん、いいじゃん」になっちゃっていないか、ということです。
以前、何でも「いいじゃん」と言う人は良い友ではなく、もしかしたら敵のようなものかもしれない、という話をしたこともありました。
怒ったりなんなりする気持ちが、どんな心に基づいて表に出ているのか。改めて考えていきたいなと思ったところです。
皆さん、良い一日をお過ごしください。ではまた。
まとめ
怒りの奥には、相手を大事に思う気持ちがあることがあります。不動明王の憤怒の顔や日蓮の諫言には、苦しむ人を救おうとする慈悲がありました。ただし我を通すための怒りは良くないので、自分の怒りがどこから始まっているかを見ていきたいと僕は考えています。
- アリストテレスやトマス・アクィナスは、正しく怒ることの価値や、怒るべきときに怒らない悪徳を語っている
- 不動明王の怖い顔は、優しく言っても届かない人を引き戻す慈悲の表れとされる
- 日蓮の権力への厳しさと信者への細やかな気遣いは、同じ慈悲の別の顔だと僕は思う
- 怒らないことが「何でもいいじゃん」になっていないかも、問い直したい




