「〇〇で滅」ってなに
この「〇〇で滅」、私が言うまでもなく流行ってますよね。2026年春には高校生の流行語1位になったらしいです。もちろんウチの子供たちも使っています。
元ネタを知らない、おじさまおばさまもいると思うので解説すると、5人組ダンスボーカルグループ「M!LK」の曲「好きすぎて滅」が始まりだそうです。
2025年10月に配信でリリースされた歌で、あなたが好きすぎて存在ごと消えちゃいそう、という好きを大げさに表現したラブソングなんだとか。
そこからTikTokで広がって、「〇〇すぎて滅」から、最近は「〇〇で滅」という言葉だけが独立してミーム化した訳です。
以前から「可愛すぎて死ぬ」「尊すぎて死にそう」みたいな言い回しはありましたよね。感情が限界を超えて、自分の存在が”消えてしまう(滅してしまう)”ぐらい高ぶっている、という誇張表現なんだと思います。というか、私がいうまでもなくそうですよね。
仏教の「滅」
この「滅」という字、実は仏教の言葉としても使われています。
有名なのは「四諦」です。お釈迦様が示した4つの真理で、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つです。
苦諦は、人生には思い通りにならない苦しみがついて回るということ。集諦は、その苦しみには原因があるということ。滅諦は、その原因が止めば苦しみも止むということ。道諦は、そのための道があるということです。
つまり仏教の滅は、”自分を苦しめている原因を静めていくこと”なんですね。「好きすぎて滅」の滅とは、意味が全然違う訳です。
お経にも
という一文があります。
好きになるな、とは言っていない
しかし、仏教は何も好きになるな、推し活禁止だ、と言っているのかというと、そういう訳ではありません。
仏教では「好きな気持ちそのもの」と「渇愛や執着」を分けて考えます。
推しが好きで、その気持ちが生活の活力になって色々頑張れる。これはいいんです。
でも、もっと私を見てほしい、私の思い描いた推しじゃないと嫌だ、いつまでも変わらないでほしい、この推しがいなかったら生きていけない。こうなると、これはもう渇愛と執着です。
これは仏教でいうところの、”苦しみの製造装置”なんですよね。
好きという感情を持つことはいいけれど、好きなものを自分の思い通りにしたいと渇望して執着することが、苦しみの元になる。そこが良くないんです。
対象に人生の舵を渡すな
推しがいてもいい、好きになるなとは言っていない。しかし、その対象に人生の手綱を渡すな、ということなんですね。
昔、長渕剛が「キャプテンオブザシップ」で、お前が舵を取れ、と歌っていました。16分くらいある、すっげえ長い歌です。
あれと同じで、推しとか◯◯の滅の対象に、自分の心のハンドルを、舵を預けるな、ということなんです。
だから、好きすぎて滅と言うけれど、仏教的には好きすぎて自分が滅びてはいけない。滅するのは自分ではなく、推しに対して持っている執着のほうなのです。
好きだからこそ、好きすぎて滅を仏教の滅する
執着を手放しても、好きという感情や愛情まで薄くなる訳ではないと思います。むしろ健全に愛せるようになる。
好きだけど、推しは変わるものだよね、と理解する。諸行無常ですから。あなたはあなたで別の人格だから、思い通りにはならない。だって、そもそも自分自身の心だって思い通りにならないじゃないですか。
そして、出会ったものはいつか別れる、終わりが来ることも理解して、その上で好きでいる。
それでもなお今好きでいられる、今リアルタイムで一緒に存在している、限りある時間を共有して応援できることを大切にする。こういう好きはあるんだと思います。
執着や渇愛を滅することは、好きなこと全部を諦めることではない。健全に好きでいるための滅が、仏教の滅なんです。
まとめ
最後にまとめると、好きすぎて令和の滅、ではなくて、好きだからこそ令和の滅を仏教の滅する。
- 「◯◯で滅」は感情が限界を超える誇張、仏教の滅(ニローダ)は苦しみの原因を静めること
- 仏教は好きになるなとは言っていない。渇愛や執着に変わると苦しみの元になる
- 推しなど好きな対象に、人生の舵を預けてはいけない
- 諸行無常と終わりを受け入れたうえで、今を大切に好きでいるのが健全な好き


