AI僧侶に何百万人が集まる時代
ニュースによると、AIで生成された宗教的指導者が世界中で数百万人のフォロワーを集めているそうです。
袈裟や法衣が醸し出す信頼を借りて、商品販売や陰謀論の流布、差別的なステレオタイプの再生に利用されているケースもあるといいます。
私も、おじいさんの姿をしたAI僧侶の動画を見たことがあります。ちゃんと喋ったりしているんですよね。
記事の中では「AIが霊性そのものを伝えることはできない」と各宗教の指導者たちが口を揃えたとありました。
でも、それだけ何百万人ものフォロワーを集めているAI僧侶が実際にいるわけです。だから正直、そこはもう認めた方がいいんじゃないかと私は思うんです。
それっぽいことを言って、それっぽいことが響く。しかもそっちの方が多くの人に響いてしまう。これは往々にしてあることで、なかなか難しい問題ですよね。
悟ってないのに悟ったと言うことの重さ
自分のことを振り返っても、ショート動画をバーッと見て、全然関係ない専門分野の話に「ふーん、そうなんだ」と思ってしまうことがあります。
いちいちファクトチェックなんてしないですからね。真に受けないようにはしていますが、パッと見たことをそのまま受け取ってしまいがちなんです。
そこにお坊さんの格好をして袈裟をかけた人が出てきて語れば、陰謀論も商品販売も、そのまま通ってしまう。これはめちゃくちゃ罪深い話です。
悟ってないのに悟っていると言うのは、戒律上とても重い罪だという話を以前したことがあります。
なぜダメかというと、そういう人が世間の人々に接して、「悟りってこんなものか、大したことないじゃん」と思われてしまうからなんです。
仏教は布施をしてもらって、僧侶の衣食住を維持しています。信頼が足らないところに、みんな布施はしてくれないんですよね。
だから業界全体の評判や信頼を下げる行いは、戒律でとても厳しく罰せられるんです。
後追いになるAI倫理を、どう作っていくか
戒律はもともと出家者向けのものです。でも今回のAI僧侶は、坊さんと名乗らず正体も明かしていない人たちなんですよね。
記事では、AIだと明示されているかどうか、その透明性が倫理的な分岐点だと指摘されていました。
ただ、こういう倫理はどうしても後追いになります。現象が先に起きて、齟齬が生まれて、「これおかしいよね、どうする」となってから議論が始まる。
正直、どうやって取り締まるのかと考えても、取り締まれないですよね。
だとすれば、私にできることは何か。私はちゃんとした僧侶とは言えないかもしれませんが、世の中のちゃんとした僧侶が、もっとちゃんとした発信をしていくことが大事なのかもしれません。
発信をしている以上、私自身ももっとちゃんとしていく。それが大事かなと思うんです。
自らと法を灯し火として
お釈迦様の最後の言葉の中に、「自灯明法灯明」という言葉があります。
自らを灯し火とし、法を灯し火としろ、という意味です。法というのは仏陀の教えのことですね。
自らを頼りにしろというのは、自分の思うことを何でも信じていい、という意味ではありません。
自分の努力を怠らずやっていくこと、そのものを頼りにしろ、ということだと私は受け取っています。
そういう努力が問われる時代に、変わらない法を灯し火としながら、そこに自分自身を当てて生きていく。それが大事かなと思うんです。
新しい現象が起きて、それに対する倫理をどうするか。そのとき、何か照らし合わせるものが必要になります。
私にとっては、それが経典であり、仏陀の教えだったりするんですよね。
仏教講座や法華経講座もやっていますが、縁があって聞いてくれた人が、自分の苦しみと向き合う一つの鏡になってくれればいいなと思っています。
まとめ
正体を明かさないAI僧侶が何百万人を集める時代に、変な情報に操られないためにどうするか。まだ取り締まる方法もない中で、私は自分の手綱を自分で持つことしかないと、いまは考えています。
- AIで生成された宗教的指導者が数百万人を集め、信頼を借りて陰謀論や商品販売に利用されている現実がある
- 悟ってないのに悟ったと語ることは、教団全体の信頼を損なうため戒律で重く罰せられる
- AI倫理は後追いになりがちで、取り締まりも難しい。だからこそ、ちゃんとした発信を積み重ねたい
- 自灯明法灯明――自らの努力と変わらない法を頼りに、惑わされない自分を作って生きていきたい





