執着は自分の外にも中にもある
執着というのは、私たちの身の回りにもあるし、私自身の中にもありますよね。
相手の執着によって自分が苦しむこともあれば、自分の執着によって自分が苦しむこともある。両方の構図があるなと思います。
たとえば上司と部下の関係です。昔はこのやり方でうまくいったから、こうやればうまくいくはずだと、上司が過去の成功体験に固執することがあります。
でも現場は変わっていて、部下からすれば昔と同じやり方はもう通じないんです。
それなのに上司が自分の成功パターンに縛られて、状況の違う部下に「こうやらないからダメなんだ」と押し付ける。その執着を押し付けられた部下が苦しむ、というわけです。
一方で、部下の側にも「こうあってほしい」という執着があったりします。
ちゃんと面倒を見て、正しく指導してくれる上司であってほしい。なんで私の上司はこうじゃないんだ、と。そういう期待もまた、こうあってほしいという執着なんですよね。
執着の奥に愛情が隠れていることもある
ただ、少し視点をずらしてみると、そういう関係の執着の奥に、愛情や期待、願いのようなものがある場合もあります。
だから人間関係は、悪い相手を切ってしまえば終わり、というほど単純じゃないなと思うんです。
さっきの上司も、支配したいだけじゃなくて、もう少し育ってほしいという気持ちで厳しくしているのかもしれない。
親子でも、私自身やってしまいがちかもしれませんが、心配や愛情が過剰な干渉や介入になってしまうことがある。
パートナー同士でも、大切に思うからこそ相手を束縛してしまうような行動になることがありますよね。
つまり執着の根っこにあるのは、単なる欲や自己中心性だけじゃなくて、愛情や期待、守りたい、なくしたくないという気持ちであることも多いんです。
でも失いたくない気持ちも、良かれと思う気持ちも、これはまさに執着の元になる。ここが難しいところなんですよね。
愛があるから執着しても仕方ない、ではない
だからといって、愛があるから執着しても仕方ない、ということではないと思うんです。
むしろ愛情があるからこそ、それが執着に変わりやすい。そのことを自覚的に持ちながら、他者との関係を築いていくべきだと考えています。
相手を大切に思うことと、相手に執着することは違います。
では執着とは何かというと、やっぱり相手を自分の思い通りにしたいと思うこと、それが執着なんですよね。
大事に思う、失いたくない、頑張ってほしい、わかってほしい。こういう気持ちは、愚かしくも愛すべき、とても人間らしいあり方だと思います。
でもその気持ちが「自分の思うようにしたい」「なくしたくない」に傾いてしまうと、相手のためと思っていても、結局は自分ばかりを見てしまうんです。
他人は自分ではないので、本来思い通りにはならないものです。変わらないでほしいなんて、この諸行無常の世界ではあり得ないことですから。
慈悲と執着は、どちらを向いているかで分かれる
そこで、慈悲と愛情の違いは何だろうと考えてみました。
仏教的な慈悲は「抜苦与楽」と言います。相手の苦を抜いて、楽を与えてあげるということです。
その裏側には、諸行無常であるとか、諸法無我であるといった前提をしっかり理解しながら、相手の苦しみに寄り添う姿勢がある。
こちらの欲を相手に押し付けず、真に相手のためになることを、相手に寄り添ってする。そういう働きが慈悲かなと思います。
逆に執着は、相手を自分の思い通りに固定したがる働きです。自分の欲によって相手をこうしたいとしたがる働きかけなんですよね。
つまり方向性で考えると、慈悲は相手を真に見ていて、執着は自分自身の欲望と向き合っている。ここが両者の違いだと思います。
自分の働きかけがどっちを向いているか
だから上司が厳しく口を出すのも、支配したいのか、育ってほしいと思っているのか、相手の執着なのか慈悲なのかを見誤らないようにしないといけません。
そしてもう一方で、自分が相手に愛情をかけたり働きかけたりするとき、自分の欲で相手を思い通りにしようとしていないか。
本当に相手のためを思って言っているのか、それとも自分の方ばかり向いてイライラしているだけなのか。これは難しいんですよね。
自分の気持ちというのは、自分でもなかなかわからないものですから。
点検の仕方として一ついいなと思うのが、アドラー心理学の「課題の分離」です。
これは自分でなんとかできることなのか、それとも他人の課題なのか。そう線引きしてみると、執着と慈悲を区別するときの理解の補助線になるように思います。
ただ気をつけたいのは、相手からの働きかけを全部「相手の執着だ」としてしまうと、助言に一切耳を貸さないことにもなってしまう。
だから受けるべきアドバイスはしっかり受ける。そのうえで、自分が相手に自分の煩悩を押し付けていないかも、内省的に問いかける。その両方が大事だと思うんです。
まとめ
自分のやっていることが慈悲的な愛なのか、執着的な愛なのか。正直、まだきれいに答えが出せるものではありません。でも、自分の心と向き合いながら、そこを観察する視点だけは持っていたいと思っています。
- 相手からの執着に苦しむこともあれば、自分の執着で自分が苦しむこともある
- 執着の奥には愛情や期待が隠れていることもあり、単純に切り捨てられない
- 愛情があるからこそ執着に変わりやすいと、自覚的でいることが大切
- 慈悲は相手を、執着は自分の欲望を向いている。どちらを見ているかを観察する



