内乱の最中にオスマン帝国が来た?
前回の宗教改革編では、ルターの思想をきっかけに、多くの死者が出るほどの農民反乱が各地で起きました。今回の深井さんは、この農民反乱を神聖ローマ皇帝の立場から見直します。
深井さんによると、ルターは破門されたあと弁明の場でも主張を曲げず、法律の保護をすべて外されていました。それでもルターは、ザクセン選帝侯 ── 神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を持つ有力諸侯の一人。ザクセン地方を治め、ルターを保護したことで知られますに匿われていたといいます。
ルターを支える領主たちは、日本でいえば大名のような存在です。ルターの論理を使えば皇帝の権力も教皇の権力も崩せそうだったため、ルター派の領主が少しずつ増えていきました。
(ルターの論理は)ヒエラルキーの下の人が上の人に反抗するのにとても良いやつだったわけですよ。
カトリックである神聖ローマ皇帝カール5世は、ルター派の動きを早く抑え込みたいはずです。ところがちょうどその時期に、オスマントルコ帝国が攻めてきていました。
メフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させたことで、オスマン帝国がヨーロッパへ進む道筋ができていました。その後、最盛期を築いたスレイマン1世 ── オスマン帝国第10代スルタン。在位中に領土を大きく広げ、帝国の最盛期を築いた人物とされますがベオグラードを落とし、進軍を続けていたのです。
カール5世にとって厄介だったのは、諸侯が大名のように独立した力を持っていたことでした。皇帝の号令ひとつで全員が軍を集めるほどの権力は、実際には持っていなかったと深井さんは説明します。
ルター派の人だろうが、カトリックの人だろうが、みんなに軍隊出してもらわないといけないから、ルター派の諸侯に変なこと言えないわけ。
外敵がいる以上、カール5世は宗教改革の動きを抑え込みきれません。樋口さんも「もうそれどころじゃないからね」と状況に同情しています。
押さえ込もうとするたびに外敵が来るカール5世
カール5世の外敵はオスマン帝国だけではありませんでした。フランス王フランソワ1世 ── 16世紀前半のフランス国王。イタリアの覇権などをめぐってカール5世と繰り返し戦いましたとも、長く戦争を続けていたのです。
深井さんによると、カール5世はフランソワ1世に勝つこともありましたが、勝ちきれず、フランス側はなお対抗してきました。さらに本拠地のウィーンがスレイマン1世に包囲される事態まで起こります。
カール5世ってすっごい頑張ったんですよ。こういう人、ほんと名君と言われてるんだけど、めちゃくちゃ頑張って、なんとか外敵を抑え込んだ。
カール5世は外敵を一度押し返したあと、ようやく国内の宗教問題に着手します。帝国議会を招集し、ルター派はおかしい、カトリックが正統だから従いなさい、というヴォルムス勅令 ── ルターを異端とし、その著作や支持を禁じた帝国の命令。1521年に出されましたの方針を打ち出しました。
ところが、マドリード条約で一度戦争を終えたはずのフランソワ1世が、約束を破ってまた攻めてきます。カール5世は厳しい方針をすぐに引っ込め、諸侯に協力を求めざるを得なくなりました。
その結果、ヴォルムス勅令をめぐる議論は、それぞれが神と皇帝に対する良心に従って判断してほしい、というふわっとした結論で終わります。深井さんは、これでは実質的にルター派を黙認する状態だと説明しています。
ルター派ってまだまだ全然弱い状態で、もう弾けば飛ぶような状態なのに、その名君であるカール5世の外敵が強すぎて、毎回これが起こるんですよね。
その後もカール5世は、フランソワ1世の王子を人質に取るなどして余裕ができると、シュパイアー帝国議会でヴォルムス勅令をきちんと実行する方針を確認します。皇帝側の締めつけと外敵による中断が、何度も繰り返されました。
外敵を押し返す
オスマン帝国やフランスとの戦いに一旦勝つ
宗教問題に着手
帝国議会でルター派を抑える方針を打ち出す
外敵が再び動く
フランソワ1世の約束破りなどで戦争が再開する
方針を緩める
諸侯の協力が必要になり、ルター派を黙認する
深井さんは、このあたりの時系列は複雑なので、本気で知りたい人は本で確かめてほしいとも話しています。
ルター派はなぜ軍事同盟を結んだのか
ウィーン包囲を何度かはねのけたあと、カール5世はアウクスブルクで帝国議会を開きます。帝国としての最終決定は、ヴォルムス勅令をきちんと施行するというものでした。
ルター派の諸侯にとって、この決定は弾圧されることを意味します。ただし当時のルター派やプロテスタントは、聖書の解釈が細かく異なる派閥に分かれていて、一体ではありませんでした。
前提として解釈違うけど、我々は同盟を築かないとやばくないかという話になるわけですね。
こうして結ばれたのがシュマルカルデン同盟 ── ルター派の諸侯や都市が皇帝に対抗するために結んだ防衛同盟。ヘッセン方伯フィリップとザクセン選帝侯が中心でしたです。楊さんは、ルター派が外敵に向かってまとまり出したと表現しています。
一方でルター本人は、世俗の権力争いにはあまり興味がなかったと深井さんは見ています。楊さんも、ルターは神学に集中していて、政治には積極的に入っていなかったと補足しました。
ルターは、同盟を結んで皇帝に軍事的に対抗することを最後まで躊躇したといいます。けれど、自分を援助する諸侯がみなルター派だったため、最終的には受け入れました。
そのときの見解は、諸侯は単なる皇帝の家来ではなく、領内の人々を魂の救いに導く責任を持つ、というものでした。だから宗教的におかしなことを言う皇帝に従ってはいけない、という論理を、深井さんは「ある意味無理やり作った」ものだと考えています。
同盟ができた時点でも、カール5世はオスマン帝国とフランスに注意を払わなければならず、身動きが取れませんでした。プロテスタントの諸侯には信仰上の自由を与えざるを得なかったといいます。
さらにカール5世は戦争のため、10年にわたってドイツを留守にします。その間にルター派の側は基盤を固め、分かれていた派閥もある程度まとまっていきました。
カールおじさんマジ大変。
シュマルカルデン戦争とルターの死
やがて対外戦争が落ち着き、フランスとの戦争も一度完全に終結します。10年の留守から戻ったカール5世は、ついにルター派の諸侯とのシュマルカルデン戦争に踏み切りました。
楊さんが言うように、これは神聖ローマ帝国の中での内戦です。そしてこの戦争が始まる直前、同じ年にルターが亡くなります。
急な話に聞こえますが、深井さんによると、ここまでの話はかなり長い年月にわたっています。ルターは若くして亡くなったわけではなく、当時としては普通の寿命だったといいます。
でもこのタイミングで亡くなっちゃうんですよ。だから宗教改革って彼(ルター)が亡くなった後もずっと続いてるってことですよね。
シュマルカルデン戦争では、ルター派の側が負けます。同盟を率いていたヘッセン方伯フィリップとザクセン選帝侯が捕らえられ、多くの都市が莫大な賠償金を負担することになりました。
深井さんは、自治権を持つ帝国都市の扱いにも触れます。中には、手工業者や商人の職業団体であるツンフト ── 中世ドイツの手工業者の同業組合。都市によってはツンフトが市政を担いましたが政治を担う都市もありました。
ツンフトが治める都市は、プロテスタントの思想と相性がよかったといいます。変な権力の下で頑張らなくてよく、自分たちの権利を主張しながら商売や手工業を進められる考え方だったからです。
カール5世から見ると、このツンフトの政治体制こそがプロテスタントの温床でした。戦争に勝ったカール5世はツンフトを解散させ、長官を派遣するなどして都市の自由を奪っていきます。
自治権を認められ、ツンフトが政治を担う。プロテスタントの思想と相性がよい
ツンフトは解散させられ、帝国から長官が派遣される。賠償金で経済的にも困窮する
勝ったカール5世はなぜ引退に追い込まれたのか
プロテスタントに勝ったあと、深井さんが「すごいなんか面白い」と語る展開が起こります。オスマン帝国を退け、対外戦争も内戦もうまく収めたカール5世が、調子に乗ってしまったのです。
これはもっといけるぞってなって。宗教的にも政治的にもかなり強硬な政策を取り始めるんですよ。
カール5世の強硬な政策には、味方だったカトリック派の諸侯までが反発しました。カール5世と諸侯の戦争に発展し、カール5世は大きく負けます。
この敗北によって、カール5世は神聖ローマ皇帝の座を弟のフェルディナントに譲り、引退することになりました。樋口さんは「頑張ったんやけど」と惜しんでいます。
新皇帝フェルディナントが引き継いだのは、プロテスタントも残り、カトリック諸侯も離反し、皇帝の権力も弱い混乱状態でした。そこでフェルディナントは、これ以上戦争をするのはやめよう、と呼びかけます。
フェルディナントの方針は、カトリックとルター派が互いに暴力をやめ、各諸侯が宗教を選べるようにするというものでした。深井さんは、プロテスタントはカトリックを駆逐したかったわけではなく、生き残れればよかったので、その目的はここで果たされたと説明します。
ただし樋口さんが指摘するように、宗教を選ぶのは個人ではなく領主でした。深井さんによると、建前上は領主の宗教が嫌なら出て行ってよいとされましたが、生活基盤を捨てるのは難しく、実質的には領主しか選択権がなかったといいます。
宗教改革で一番得をしたのは誰か?
深井さんは、宗教改革をめぐる争いを、宗教同士の争いと世俗権力同士の争いが二重三重に重なった構造として整理します。ローマ教皇、神聖ローマ皇帝、領主、そしてルターが、それぞれの思惑で動いていました。
| 立場 | 望んでいたこと | 背景 |
|---|---|---|
| ルター | 純粋に宗教を改革したい | 世俗の権力争いには関心が薄い |
| カトリック | ヒエラルキーを崩す勢力を潰したい | 全ヨーロッパを秩序の中に置いてきた |
| 領主 | 皇帝や教皇に対抗したい | 力が強まったのに体制が追いついていない |
深井さんは、この争いの結果として一番得をしたのは領主だと述べます。
根拠の1つは、ルター派の存在を認めたのが神聖ローマ皇帝だったことです。信仰の話であれば本来はローマ教皇が判断するはずで、それを皇帝が言っている時点で宗教の権威が落ちています。
しかもフェルディナントがそう言ったのは、カール5世が領主に負けたからでした。宗教の権威も皇帝の権威も落ち、領主は自分を縛っていた2つの勢力から解放されたことになります。
ローマ教皇の宗教的権威と神聖ローマ皇帝の権力の両方に縛られる
教皇も皇帝も力を落とし、領主が自分で宗教を選べるようになる
樋口さんは、徳川家の力が落ちて長州藩が上がってくるようなものかと尋ねます。深井さんは、日本に無理やり例えるなら、徳川家と天皇家の権力がともに落ち、長州藩が好きにできるようになった状態だと答えました。
(領主たちは)これによって主権国家になっていくわけです。
こうして実現したのがアウクスブルクの宗教平和 ── 1555年に結ばれた取り決め。諸侯にカトリックかルター派かを選ぶ権利を認めましたが、カルヴァン派は対象外でしたです。ただし深井さんは、平和が実現した「かに見える」と含みを持たせています。
宗教平和はなぜ三十年戦争に行き着いたのか
フェルディナントは争いをやめてほしいと訴え、ルター派を選んでよいとまで認めました。ただしカルヴァン派は認められませんでした。それでも争いは止まらなかったと深井さんは語ります。
皇帝権力もまだ中途半端に存在しているし、ローマ教皇の権力も中途半端に存在しているし、諸侯の権力も中途半端に存在しているから、
結局そのみんななんかこう、誰かが完全勝者が出るまで止めれなかったんですよね。
深井さんは野球にたとえ、試合の途中でフェルディナントが「もうやめて」と止めに入ったようなものだと説明します。まだ勝負がついていないので、それぞれの勢力は最後までやり切りたかったわけです。
その延長戦が、ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争 ── 17世紀前半にドイツを主な舞台として起きた戦争。宗教対立に各国の利害が絡み、多くの国が参戦しましたです。宗教の争いでもあり、世俗権力の争いでもあったこの戦争を経て、神聖ローマ皇帝の権力は諸侯の1人程度にまで落ちたといいます。
樋口さんの発言としては、三十年戦争を経て、国王・貴族・聖職者などの権力が入り乱れていた状態が王という1つの権力に絞られ、フランスの絶対王政などにつながっていくという流れも紹介されています。
ローマ教皇の側から見ると、イングランドやドイツなどはプロテスタントやイギリス国教会としてカトリックの秩序から外れ、カトリックのフランスもだいぶ離れていきました。ヨーロッパの半分ほどがカトリックの統治から外れ、教皇の権力は以前に比べて圧倒的に落ちたと深井さんはまとめます。
そこまで行かないと、でもなんか新しい権力の形にはならないんですね。
次回は、ルターと並ぶ宗教改革の重要人物、ジャン・カルヴァンを取り上げると予告されています。
まとめ
今回のエピソードでは、名君と呼ばれたカール5世が、オスマン帝国とフランスという外敵に追われ続けたためにルター派を潰しきれなかった過程が描かれました。最終的に皇帝も教皇も力を落とし、宗教の選択権を手にした領主が実質的な勝者となっていきます。
- カール5世は諸侯の軍事協力が必要だったため、外敵が現れるたびにルター派への締めつけを緩めざるを得なかった
- ルター派は解釈の違いを越えてシュマルカルデン同盟を結んだが、ルター本人は皇帝への軍事的な対抗をためらっていた
- シュマルカルデン戦争に勝ったカール5世は強硬策で味方の諸侯にも背かれ、弟フェルディナントに皇帝位を譲った
- アウクスブルクの宗教平和で宗教の選択権は領主に与えられ、皇帝と教皇の両方から解放された領主が一番得をした
- 誰も完全な勝者にならなかったため争いは三十年戦争まで続き、神聖ローマ皇帝の権力は大きく落ちた





