第二回総攻撃はなぜまた失敗したのか
今回のテーマは、日露戦争の旅順攻略で激戦地となった二〇三高地 ── 旅順港を見下ろせる位置にあった高地。標高が約203メートルだったことからこう呼ばれ、日露戦争の旅順攻略で最大の激戦地の一つとなりましたです。話はまず、第一回総攻撃に失敗し、多くの死傷者を出した直後の日本軍の状況から始まります。
日本軍は8月中に旅順を落とす必要がありましたが、北方で遼陽会戦が行われていたため銃弾の供給が足りず、旅順への攻撃は中断されていました。攻撃が再開されたのは9月19日です。
しかし日本軍の大砲の威力は依然として不足しており、9月23日に攻撃はいったん中止されます。この間にも日本軍は4800人ほどの死傷者を出していました。
当時はバルチック艦隊がまだ出港しておらず、日本側にも「少し余裕がある」という感覚があったといいます。その状況が変わったのが、10月15日のバルチック艦隊出港の知らせでした。
(バルチック艦隊は)三、四ヶ月で到達するはずだと。ということはよ、その2ヶ月前の11月、どんなに遅くても12月には旅順を落として、旅順艦隊を無力化していかないと、
バルチック艦隊を迎撃するための準備が間に合わないよねっていうことになって、ここでまた再びですね、大本営と海軍からですね、第三軍に対して強いプレッシャーがかかります。
ここで陸軍はようやく火力を見直し、国内の要塞に据え付けられていた榴弾砲 ── 砲弾を山なりの軌道で撃ち込む大砲。弾が炸裂して周囲を破壊するため、要塞や陣地への攻撃に使われますのうち、28センチ榴弾砲18門を外して旅順へ急いで運びます。さらに砲弾の備蓄や、要塞を下から爆破するためのトンネル掘りも始めました。
ところが日本の砲弾生産能力は低く、10月中旬になっても砲弾の備蓄は大砲1門あたり100発程度でした。これは総攻撃なら1日で消費してしまう量だと語られています。
準備不足を自覚しながらも、大本営、満州の総司令部、さらに「早く落とせ」という世論からの圧力を受け、第三軍は10月26日に総攻撃を再開します。坑道の掘削は終わっておらず、28センチ榴弾砲は破壊力を見せたものの弾が足りず、不発弾も多かったといいます。
第二回総攻撃は、参加兵力4万4100人のうち死傷者3830人、戦死1092人を出して失敗しました。それでも第一回の死傷者約1万5000人と比べると大きく減っており、歩兵が一直線に突撃するのをやめ、ロシア軍の塁の近くまでジグザグに走る方法に変えた工夫があったとされます。
明治天皇の勅語がもたらした重圧とは
第二回総攻撃の失敗で大本営はさらに焦ります。バルチック艦隊は12月にマダガスカル島に集結し、1月には来るという状況が現実味を帯びてきました。
大本営は諜報活動や欧米の新聞報道を通じてバルチック艦隊の位置をずっと把握しており、最速で来た場合に備えて危機感を煽るような対応を続けていたといいます。兵力の損耗も大きく、国内に最後に残っていた第七師団まで第三軍に編入されました。
そして11月22日、明治天皇から第三軍に対し、速やかな旅順攻略を求める勅語 ── 天皇が直接発する言葉や命令。当時の日本の軍人や国民にとって、極めて重い意味を持つものでしたが出されます。
これはきついですよね。天皇陛下から言われるのきついですよね。
第三軍の参謀副長だった大場という人物は、後に司令官の乃木希典と参謀長の伊地知にかかった重圧を振り返っています。総司令部も大本営も海軍も「旅順を落とせ」と迫り、そのためにはいくら死んでも構わないというようなことまで言ってきた、という内容です。
おまけに乃木希典さん、ほら、人が良くて詩人だから。漢詩とか読む人だから、こういうのつらいタイプの人だと思うんですよね。
勅語は、旅順要塞が堅固であることを認め、天皇が将兵の労苦を思い日夜心を痛めていると述べたうえで、それでも陸海軍の情勢は旅順攻略を待てない段階にあるとし、成功を強く望んで努力を促す内容だったと紹介されます。
これは日本人が聞いたら突撃するよね。天皇陛下にこれ言われたら突撃するっていうメンタリティーになっちゃうわね。
もう天皇陛下のためにしか死ねなかったんでしょうね。そう思わないと多分死ねなかったと思うんです
樋口さんは、これはあくまで個人的な想像だと断ったうえで、負け戦に身を投じる理由を、現場の兵士は天皇の言葉で自分に納得させるしかなかったのではないかと語っています。
旅順要塞か二〇三高地か、二系統の指示に揺れる第三軍
第三回総攻撃は11月26日に始まります。これまで失敗してきたのと同じく、要塞の北東正面に重点を置いて占領を目指すやり方でした。
この頃の大本営は、旅順要塞が落ちなくても、旅順港にいる旅順艦隊を山越しに砲撃して無力化できればよいと考えるようになっていました。そこで第三軍に、旅順港を見下ろせる二〇三高地の占領を求めます。
旅順要塞がマジで落ちないから、もう究極、もう落とさなくていいから、艦隊だけ何とかしてくれって思ってるっていう状態ですよね。
楊さんが「なぜ最初からそうしなかったのか」と疑問を投げると、樋口さんは二〇三高地攻略は有力な方法だとしつつ、陸軍にも要塞を落としたい事情があったと説明します。
旅順にロシア軍がいっぱい残ってる状況で、日本軍が旅順を離れてしまうと後ろから背後を突かれるので、やっぱ落としたいっていう気持ちもあるんですよ。
しかも大本営は二〇三高地の占領を命じ、満州軍総司令部は旅順攻撃の続行を命じていました。現場の第三軍には、再び二系統の指示が届いていたことになります。
二〇三高地を占領し、旅順艦隊を撃滅せよ
旅順要塞への攻撃を続行せよ
第三軍は当初、すでに攻撃配備が完了していて配置転換は簡単ではないなどの理由で、二〇三高地攻略を一度拒否します。しかし第三回総攻撃が失敗したことで攻撃目標を切り替え、満州軍総司令部も二〇三高地の占領こそ重要だという考えに変わっていきました。
このとき、満州軍総司令部の参謀で大山巌の右腕だった児玉源太郎 ── 明治期の陸軍軍人。日露戦争では満州軍総参謀長として作戦全体を支え、旅順攻略では現地で指揮に関わったことで知られますが第三軍に送り込まれ、乃木司令官に代わって直接指揮を執ることになります。乃木は泣きながら「致し方なく委ねる」と言って指揮を渡したという話が残っていると紹介されます。
崖を登り、奪っては奪われる二〇三高地
実際の二〇三高地は、丘というより崖のように勾配がきつい場所だったといいます。その上にロシア軍が陣取っていたため、登っている間の日本兵は撃たれ放題になる危険な地形でした。
第三軍は11月28日、二〇三高地の西南山頂の一角を占領します。しかし29日の午前0時30分には、すぐにロシア軍に奪い返されました。
この後も何回も取って取られたりとかすんだよね。
奪い合いが繰り返された理由は、ロシア軍の陣地が高地の背後にあり、そこから兵力が送られ続けていたためです。その陣地に砲弾を撃ち込めれば防げましたが、大砲を移動させる時間がなかったといいます。
二〇三高地陥落の知らせを受けた児玉源太郎は喜んで祝電を打たせようとしましたが、翌日に奪還されたと聞くと激怒し、机を叩いたと言われています。参謀たちに作戦を出させても、突撃隊が頑張るしかないという答えばかりだったという逸話も紹介されます。
出演者の一人は、この戦い方が後世に無能だと批判される一方で、砲兵による数日間の砲撃の後に歩兵が突撃して要塞を奪う方法は、当時の軍人の常識に沿ったものだったという考察もあると補足しています。
話の途中では、児玉源太郎がえげつないジョークを好む人物だったことを示す逸話も語られます。仮病のために牛肉を使った話などが紹介され、出演者から「YouTuberなの?」とツッコミが入る脱線も生まれました。
ちょっとぶっ飛んだ系の人なんですよね、児玉源太郎さんっていうのは。
二〇三高地の奪取から旅順要塞の降伏まで
児玉源太郎が陣頭指揮を執ると、状況が動きます。高地の背後から送り込まれるロシア軍の予備兵力を止めるため、重砲の部隊を陣地に移し、ロシア軍の陣地を砲撃して援軍を断ったうえで、二〇三高地の確保に成功しました。
ただし犠牲は非常に大きく、第三回総攻撃には日本軍の将兵6万4000人が参加し、死傷者は1万6935人、戦死者は5052人にのぼったと語られています。
二〇三高地は12月5日ごろに落ち、翌6日からは28センチ榴弾砲と海軍の15センチ砲が、目で見える旅順港内へ砲撃を始めます。戦艦ポルタバ、レトヴィザン、ペレスヴェート、巡洋艦パルラーダなどが破壊され、旅順艦隊は無力化されていきました。
唯一出港した戦艦セヴァストーポリも、日本艦隊と戦った末に16日に撃沈され、旅順艦隊は撃滅されます。
港を失ったロシア軍にとって、二〇三高地の陥落は大きな衝撃でした。港を失ってまで要塞を守る意味は何か、という状況になったのです。
なので、この12月の半ばの時点で、海軍と守備隊合わせて1万4000人程度の戦闘員がいたんですけど、めちゃくちゃ疲れきってもいたので降伏するんですよね。
要塞司令官のステッセルは防衛会議を招集します。まだ戦えるという声もありましたが、ステッセルは勝敗は決したとみなし、1905年の元旦に日本軍へ降伏を申し出ました。
乃木希典は本当に無能だったのか
旅順要塞はようやく陥落しましたが、乃木希典や旅順攻略への評価には「無能だ」という厳しいものが多くあります。楊さんも、観察が不十分だったこと、砲弾がコンクリートを貫けないとわかっていて突撃したこと、二〇三高地に気づくのが遅かったことなど、問題点は確かにあると認めます。
そのうえで楊さんは、現場にはさまざまな方面から相反する要求が押し寄せていたことを振り返ります。満州の総司令部は要塞攻略を求め、海軍は港の攻略を急かし、明治天皇からも言葉が下り、しかも弾は足りませんでした。
弾も足りないしみたいな感じで、それに従ってたらこうなっちゃってるっていうのはやっぱあると思うんですよね。
(親戚がこれで死んでたら)ふざけるなって思うと思います。やっぱり人の命がかかってるからね。
出演者の一人は、8月中に旅順を落とさないと危ないという見立て自体は嘘ではなかったと指摘します。予測値ではあってもシナリオは本当だったため、頑張れと言われれば頑張ってしまう、良い人が頑張った結果こうなった、という見方です。
この戦いで乃木は長男を亡くしており、その地で詠んだ漢詩も紹介されます。山河が荒れ果て、血生臭い風が吹き、馬も進まず将兵も語らない中、夕日を受けて立ち尽くすという内容で、6万人ほどが死傷した戦場で司令官が詠んだ詩だと語られました。
戦略で負けても頑張る日本人のメンタリティー
楊さんは、後から「ダメだった」と言うのは簡単だとしたうえで、どのタイミングで誰がどう動けばよかったのか、それは本当に可能だったのかという代案を考えることが大事だと話します。現場ではこのやり方では勝てないとわかっていても、大本営が言うから頑張ってしまうという認識の乖離がありました。
ここで楊さんが持ち出すのが孫子 ── 古代中国の兵法書、またはその著者とされる孫武のこと。戦わずに勝つことや、情報を集めて勝算を見極めることを重視しましたです。己を知り敵を知れば百戦危うからず、つまり情報戦で勝てるとわかってから攻めよという考え方からすると、勝てないかもしれない状況で頑張るのは最も下策だといいます。
出演者の間では、二〇三高地の話が日本では美談になっていること、日露戦争で日本軍が頑張ったことが日本人の価値観に影響し、その後の太平洋戦争にもつながっていったことが話されます。失敗のデメリットをあまり感じず、全力を出したかというプロセスが評価されやすい、という指摘も出ました。
楊さんはその背景として、日本人にとっての最大の脅威が人間ではなく、挙動が読めない自然だったことを挙げます。だからこそ相手の思考を読み切ったり戦略を立て切ったりする前に、耐える・頑張る方向へすぐ行ってしまうのではないか、という見立てです。
戦略で勝てるとわかったときだけ戦う。結果を重視する
勝算がなくても耐えて頑張る。努力やプロセスを評価する
さらに楊さんは、結果を出しているのに努力していないと非難されることさえあると指摘します。出演者からも「楽してやりやがって」「若いうちは苦労しろ」といった言い回しが挙がりました。
コテンも陥っていた「日露戦争しぐさ」
話はここから、株式会社コテン自身の反省に移ります。日露戦争を勉強する中で、自分たちの仕事のやり方にも通じるところがあると気づいたといいます。
日露戦争編の台本そのものも、リソースの適正配分を最初に考えずに頑張った結果、膨大な量になり、収録も長時間に及んだと語られます。頑張ることでしか覆せない状況に、自ら追い込んでいたという自己分析です。
楊さんが具体例として挙げたのが採用活動です。読みが甘く、想定の倍ぐらいの応募が来たにもかかわらず、何ができなくなるかを話し合わないまま頑張ろうとしてしまったといいます。
(採用で)本当はこの時に、これを適正に進めるためにコストを払われるコストはこれぐらいで、これぐらいで、これぐらいでとか、
これを捨てるとか、この仕事をペンディングするとか、これをどうするとかいうことをその場で考えて決めていけばよかったんだけど、なんかそこに突入せずに頑張るみたいになってたんですよ。
唯一フランス出身のメンバーだけが「考えよう」と言っていたものの、その重要性を他のメンバーは理解できていなかったと振り返られます。
想定外の事態
想定の倍ほどの応募が来る
するしかない
優秀な人を逃したくないので選考するしかないと思い込む
考えずに突入
何を捨てるか検討しないまま頑張る
本来の順序
偵察して現状を把握し、オプションを並べてから頑張る
楊さんは、頭のいい人が集まっているはずのコテンでさえこうなると語ります。当時の陸海軍も留学経験のあるスーパーエリートの集まりでしたが、「ここまでにやるしかない」という状況が冷静さを失わせるスイッチになったのではないか、という見方です。
するしかない系の思考って基本的にはやっぱり思考を狭めていくんだよね。
頑張ることと考えることは矛盾しない
深井さんは、この話に強く共感しつつ、高校の体育祭の応援団のように、頑張らずに結果を出しても泣けないという感覚もあると返します。
これに対し楊さんは、頑張ることと考えることは本来矛盾しないと話します。両者を対立するものとして捉えてしまうのが日本人の特性だ、という指摘です。
楊さんは、この気づきをここ数ヶ月で最も興味深い発見だったと語り、自分たちが何もわかっていなかったと知ったときに興奮したと振り返ります。深井さんが「頑張って考えよ。めっちゃ頑張ろ」と返し、日本人っぽいとツッコまれる掛け合いも生まれました。
旅順は攻略されましたが、北方にはロシア陸軍の主力が丸々残っており、バルチック艦隊も日本に向かっています。それらにどう対処するかは、次回以降に語られる予定です。
まとめ
今回は、準備不足と二系統の指示、明治天皇の勅語という重圧の中で、第三軍が甚大な犠牲を払って二〇三高地を奪い、旅順要塞の降伏にこぎつけるまでが語られました。そこから見えてきたのは、戦略で負けていても頑張ってしまう日本人のメンタリティーと、それが今の組織にも残っているという指摘です。
- 第二回総攻撃は砲弾不足と圧力のもとで行われ、失敗に終わった
- 二〇三高地は児玉源太郎の指揮で確保され、旅順艦隊の撃滅と要塞の降伏につながった
- 乃木希典への厳しい評価の裏には、相反する要求と凄まじい重圧があった
- 孫子の発想と対照的に、日本では勝算がなくても頑張ることが評価されやすい
- 頑張ることと考えることは矛盾せず、考え尽くしてから頑張ればよい





