南部にいた「自由黒人」という存在
前回のエピソードはこちら
リンカン編はここまで奴隷制の話を続けてきました。前回は綿花を軸に、綿花需要の高まりが奴隷需要を押し上げた流れを扱いました。
今回のテーマは、奴隷制の解像度をさらに上げることです。深井さんは、コテンラジオでこれまで何度も奴隷の話をしてきたものの、ここまで詳しく語ったことはなかったと切り出します。
まず前提として、南部の黒人には奴隷だけでなく「自由黒人」もいました。全員が奴隷だったわけではないという点は、イメージと違うところです。
深井さんによれば、1860年ごろのデータで、全米の黒人全体の約11パーセントが自由黒人だったとされます。その半分以上が南部に住んでいたといいます。
自由黒人になる経緯はさまざまです。主人の遺言や大きな功績によって解放された人、そしてその解放された人の子供も自由黒人になりました。
楊さんは、南部の自由黒人がプレスの工場や革を作る工場、理髪店、鍛冶屋などで働き、専門的な技術を提供する立場にあったと説明します。全員がそうではないものの、そうした仕事に就く自由黒人もいたということです。
自由黒人は「秩序を乱すバグ」だったのか
自由黒人の存在は、南部の白人からは歓迎されていませんでした。深井さんは、民主主義の回で触れたフランス人のトクヴィルの発言を紹介します。
不幸な同胞の心を漠然とかき乱し、奴隷たちに権利の観念を意識させることになるよね
これは、南部のような環境で自由黒人がいると、同じ黒人がそれを見たときに「本当は権利があるのでは」と心をかき乱される、という趣旨の発言です。
楊さんは、南部の白人プランターから見れば、自由黒人は秩序を乱すバグとして見なされていたと表現します。
一方で北部にも自由黒人がいました。北部は奴隷制を廃止しており、名目上は奴隷がいてはいけません。音楽家として活動する人や、南部より地位の高い仕事に就く人も普通にいたといいます。
ただし自由黒人が差別されていなかったわけではありません。深井さんは、南部でも北部でも自由黒人がバリバリに差別され、不当な扱いを受けることが多かったと強調します。
深井さんは、10年ほど前の映画「それでも夜は明ける」を例に挙げます。自由黒人が黒人だという理由で拉致され、奴隷として使役されて十何年間帰れなかった実話を描いた作品です。
自由黒人になったからってもう幸せだっていうわけではないですね
奴隷の中にあった5つの階層
話は再び黒人奴隷に戻ります。深井さんは、奴隷の大部分が夜明けから日没まで野良仕事をする耕作奴隷だったと説明します。
そのほかに、身の回りの世話や乳母などの家内奴隷、大工や鍛冶屋などの職人奴隷もいました。奴隷の仕事は綿花以外にも多様だったのです。
楊さんは、100人以上の奴隷を所有する大規模なプランターが、奴隷たちの間に階層を作って管理していたと紹介します。分け方は本によって異なりますが、楊さんが読んだ中で最も細かい仕事別の階層を挙げます。
最上位は家事使用人で、主人の家の中で料理や掃除をし、主人の足を洗うこともしたといいます。次いで馬車の運転手や庭師、床屋などの家事労働者が続きます。
その下に家事や現場監督が置かれます。現場監督は綿花畑を管理するマネージャー的な立場で、家畜や狩猟犬の世話をする仕事もありました。
さらに下が農業に従事する熟練労働者で、脱穀機や製粉、綿繰り機を操作する人たちです。そして一番下の第5階層が、自給作物や綿花などの換金作物の生産、家畜の飼育に携わる層でした。
この第5階層こそ人数が最も多く、映画でよく見る「綿花畑で綿を摘む奴隷」の姿がこれにあたります。仕事は最もヘビーな層でした。
信用された奴隷、嫌われた奴隷
深井さんは、フィクションであるタランティーノ監督の映画「ジャンゴ」を例に、階層のいびつさを説明します。家事使用人の中でもマネージャー的な人物は、白人と仲がよく描かれます。
やっぱ信用されないとね、そばに置けないからね。常に反乱の危険性もあるからさ、黒人も
黒人の中でも立場が大きく違う人がいて、そうした人が同じ黒人から嫌われたり、自由黒人が黒人から嫌われたりする描写もあります。深井さんは、そこにはこの時代のいびつな世界観が表れていると話します。
最低限の暮らしと、自分で確保した衣食
続いて、南部の奴隷の生活が語られます。割り当てられたのは、最低限の食料、衣料、医療、住居だけでした。
深井さんはワシントンDCの黒人博物館を訪れ、当時の家や服の展示を見てきたといいます。住居はパインの丸太小屋のようなもので、寒さがしのばれるものでした。
深井さんは、栄養ある食事や十分な衣服を持てたのは、暇な時間に懸命に働いて自分で衣食を確保した者だけだったと説明します。食料や衣服は常時ぎりぎり足りていませんでした。
子供にはトウモロコシや小麦のパン、牛乳の粥だけが与えられ、成長して労働力が増すにつれて脂身の多い豚肉などが割り当てられました。労働力に比例して与えられる食べ物が変わったのです。
楊さんは、フライドチキンの由来にも触れます。胸肉は白人の農園主や裕福層が食べ、骨や皮の多い足などが黒人の食卓に回り、それを揚げたものがソウルフードとして黒人の間に広まったといいます。
大人の労働者には小麦粉と肉または魚が毎週配給されました。ただし大半の奴隷は、自分で育てた野菜や、森や川で捕まえた魚や肉でなんとか食料を補っていたとされます。
衣服は年に2回、秋と春の終わりに作業着が配られました。深井さんは、映画で見る限り極端に粗末な服ではなく、寒そうではあるものの必要最低限のものは渡されていたと説明します。
「思ったよりマシ」をどう伝えるか
楊さんは、アメリカで黒人奴隷の生活を研究してきた歴史があると紹介します。定量的な研究の結果、生活が「実はそこまで悪くなかったのではないか」という結論が出てきたといいます。
ただし、その研究は当初むちゃくちゃ叩かれたと楊さんは付け加えます。奴隷制を肯定しているように聞こえかねないためです。
なんでその思ったよりはマシだったっていうことではあるんだけど、それが良いわけではない
深井さんは、この文脈をきちんと添えないと反感を招くと注意を促します。あくまで想像よりはマシだった、というだけの話だということです。
服も足りないため、女性奴隷は自分で服を作りました。家事奴隷が家から不要な素材や糸を持ち出して再利用し、服やベッドカバー、毛布を作ったといいます。羊の毛を刈って布にするまで自分でできる人もいました。
一方で楊さんは、奴隷の居住区が不衛生で、マラリアやコレラ、ハシカなどの病気に襲われていたと説明します。奴隷の中には薬草や経験、呪術に頼って治療しようとする人もいました。
楊さんによれば、黒人は白人より健康状態が悪く、特に黒人の乳児死亡率は白人の倍以上だったとされます。
病気を装い、白人をバカにする 日常の抵抗
深井さんは、ここは絶対に伝えておかないといけない内容だと切り出します。恐ろしい環境の黒人奴隷がなぜ反抗しなかったのかと思う人がいるかもしれないが、実際はめちゃくちゃ抵抗していた、というのです。
深井さんは黒人博物館での体験を語ります。来場者の7割から8割が黒人で、娘に展示を見せる母親や、深刻な顔で見る若いカップルの姿が、抵抗の歴史をリアルに感じさせたといいます。
博物館では、黒人はこの抑圧と非人権的な扱いにずっと抵抗してきた、というストーリーで展示が語られていました。抑圧が激しくなるほど、抵抗も偶発的なものから組織的なものへと変化していったといいます。
軽い抵抗の例として、病気を装う、仕事をサボるなどがありました。深井さんは、性交渉や出産を拒絶するといった、女性奴隷の抵抗の形にも触れます。
深井さんは、黒人には精神的に服従している感覚がなかったと解釈します。小さなことから大きなことまで、白人の意に沿わないことをやり続けていたのです。
博物館の展示を要約すると、黒人はずっと精神的に服従せず、わざとバカのふりをして白人をからかい、それを見てバカにしていた、と深井さんは説明します。
そうした振る舞いの延長線上にブラックカルチャーがあると深井さんは話します。ラップの歌詞には黒人にしかわからないコードや意味が入っており、それが文化として育っていったといいます。
抑圧の中で生まれた歌と信仰
楊さんは、こうしたディテールを話す理由を語ります。黒人奴隷は一方的に支配された無感情なロボットではなく、生活と尊厳のために必死で生きた人間だった、ということを伝えたいのです。
楊さんは、奴隷にもプライベートな時間があったと補足します。大規模なプランテーションでは奴隷の居住区が用意され、夜に集まって歌ったり踊ったりして、固有の文化が生み出されていきました。
深井さんは、ルーサーキングの回でも触れたキリスト教の受容に話を移します。奴隷たちが暮らしていた抑圧の中で、旧約聖書の出エジプト記が特に人気になったといいます。
出エジプト記は、奴隷化されていたイスラエルの民がエジプトから逃げる物語です。黒人たちは自らの境遇を重ね、いつか神が自分たちを解放してくれるという感覚を持ちました。
この受容の形は白人の文化とは異なり、ゴスペルや黒人霊歌といった新しい文化を生み出していきました。深井さんも楊さんも、これらが本当に新しい文化だと語ります。
楊さんは、これらがアフリカ文化そのものではないと補足します。多様なアフリカ由来の文化を持つ黒人たちが1か所に集まり、さらにキリスト教が入ってマージされて、新しいカルチャーが生まれた構図だといいます。
それは抑圧の中ではあったけれども、その姿を我々は知る価値があるなというふうに思いますよね
鞭を装い、リボンを盗む 抵抗の作法
深井さんは、より具体的な抵抗の作法を紹介します。白人は黒人に能力がないと思い込んでいるので、黒人はそれを逆手に取り、白人のビジネスを阻害しようとしました。
たとえば、指示されたことをわざとできないふりをして、白人に「言ってもしょうがない」と思わせる。それは黒人にとって「やってやったぜ」という感覚で、裏で白人をバカにすることでプライドを保っていました。
学ぶことも基本的に禁止されていましたが、抜け道がありました。子供のころは白人の子供と仲がよいことも多く、その時期に読み書きを一気に学ぶこともあったといいます。
深井さんは、子供のころ仲がよかった白人の子供と、青年期に一気に上下関係ができて引き離され、認知がバグるようなことがこの時代には多かったと説明します。
学校の送り迎えの道すがら、白人の子供に今日学んだことを聞いて吸収しようとするなど、大人にバレないように学ぶ工夫もありました。
夜には白人にバレない森などに集まり、用意できない楽器の代わりに打楽器を鳴らして踊りました。ルーツが少しずつ違うため共通の文化がなく、そこから新しいものが生まれていったといいます。
女性は着飾りたくても服が支給されていません。そこで家事奴隷が白人の奴隷主の部屋からリボンなどを盗み、加工しておめかしをして、祭りに出て一緒に踊ったといいます。
深井さんは、こうした集まりで愚痴をこぼし、いかに白人をバカにするかを語り合っていたと話します。これは今のブラックカルチャーにも通底していると考えられ、映画やラップの歌詞にも表れているといいます。
窃盗、脱走、そして武力抵抗へ
抵抗はさらにエスカレートしていきます。深井さんは、罰せられる領域の抵抗として、まず窃盗を挙げます。黒人同士ではほぼ盗まず、白人から仕事道具や食料を盗みました。
次が脱走です。ただし逃げれば犬に追われるなど危険が大きく、犯行レベルとしてはかなり高いものでした。脱走しても生きていけずに戻ってくることも多かったといいます。
戻ればひどい罰を受けました。鞭打ちの刑、パンと水だけの長期の食事制限、灼熱の場所に閉じ込めるといった罰です。奴隷としての価値が下がるため、耳を削ぐことは避ける傾向がありましたが、それでも行われることはありました。
楊さんは、奴隷1人あたりの価格が上がっていたため、耳の削ぎ落としのような価値を下げる体罰は控える傾向にあったと補足します。だからといって行われなかったわけではありません。
深井さんは、命の危険を冒して逃げる人がたくさんいたことを忘れてはいけないと強調します。みんなが従順に綿花を摘んでいただけではないのです。
見せしめとして行われた罰には、耳を切り裂く、歯を折る、顎を割る、頭蓋骨を割る、腹部や手に焼き印を押す、指を切るといった残酷なものがありました。
最上級の犯行が武力抵抗です。武器や農具を使って反抗するもので、最も有名なのが1831年のナット・ターナーの乱でした。
楊さんは、これらの反乱がすべて黒人の呪術師や説教士によって計画されていたと紹介します。深井さんは、そこにアフリカ的な思想や文化要素が、白人と対比された形で当時の黒人の中にあった表れだと解釈します。
プランターは奴隷をキリスト教に改宗させて従順にしようとしましたが、それは別のルートで発展し、黒人教会ができあがっていきました。深井さんは、そこから最終的にルーサーキングによる公民権運動へつながっていく流れをエモいと表現します。
カナダを目指す「地下鉄道」という裏組織
深井さんは、本格的な逃亡について紹介します。行き先の大半は非奴隷州や北部でしたが、北部でも法律で逃亡者は押し戻されるため、次に目指されたのがカナダでした。
北部に逃げても1793年制定の逃亡奴隷法があり、犬の追跡や銃撃を逃れて逃亡しても連れ戻され、賞金首にされることがありました。それでも逃げる人はいたのです。
成功率は1000人に何人という水準でしたが、成功した人が現れました。その人たちが裏で結託し、同胞を逃がそうとしていきます。
そこに、全員平等だと信じるクエーカー教徒、博愛主義者、黒人にも参政権があるべきだと考える民主主義者らが加わりました。彼らが結託して非合法組織「地下鉄道(アンダーグラウンドレールロード)」が生まれます。
深井さんは、この組織が機関車に例えられていたと説明します。隠れ家となる家が「駅」のようになり、途中を送り届ける馬車を用意する人がいるなど、組織的に逃亡を手伝う裏組織でした。
これ本当に地下を走ってる鉄道じゃなくて、こういう、まあ名前の概念の(アナロジー)
地下っていうのはなんか地下組織みたいな話と一緒で、そういう意味のアンダーグラウンドですね。地下アイドルの地下と一緒です
賞金首になった「黒人の女モーセ」タブマン
深井さんは、地下鉄道で最も有名な人物を紹介します。過去に逃亡に成功した自由黒人が車掌の役割を担い、その中でも「黒人の女モーセ」と呼ばれたのがハリエット・タブマンでした。
タブマンは1820年ごろの生まれで、30歳ごろに自由州のペンシルベニアへの逃亡に成功しました。ペンシルベニアはクエーカー教徒が作った街でした。
最も盛んに活動したのは1850年代です。奴隷が400万人規模に増え、逃亡取締りが厳しくなっていく中、その網をかいくぐって多くの奴隷を逃がしたことで知られます。
南北戦争と奴隷解放宣言に至る10年ほどの間に、タブマンは20回近くも潜行し、300人近くの奴隷を逃亡させました。深井さんは、彼女が4万ドルの賞金首だったと紹介します。
この賞金は、本によって差はあるものの、今の日本円で1億から2.3億円ほどにあたります。命をかけた活動であり、南部白人からはテロリスト、黒人からは英雄と見なされる存在でした。
深井さんは、宗教のリバイバル運動が奴隷制反対を後押しした面にも触れます。信仰覚醒運動で感化され、倫理的に生きなければ神の御心にかなわないと考える人が増えるタイミングがあったといいます。
深井さんは、あくまで奴隷たちはずっと抵抗してきたし、今も抵抗しているという感覚が、現在のアメリカに住む黒人の認知にもあると考えると話します。それを理解しておくことがとても大事だといいます。
深井さんは、この話を聞いた後にその時代の映画を見ると理解が深まると勧めます。以前触れた「グリーンブック」も、公民権運動のころの映画ですが、ディープサウスを舞台にした背景がここにあるといいます。
聖書は奴隷制を肯定したのか
後半は、奴隷制を擁護した論理に移ります。深井さんは、リバイバル運動で反奴隷制の人が出てくる一方、奴隷制を擁護する人もあの手この手で理論を用意したと説明します。擁護の論理は大きく3つあるとされます。
キリスト教義にある「人類みな平等」という考え方を根拠に、奴隷制を否定する
旧約聖書のレビ記などを引用し、奴隷の所有・売買・移譲を正当化する
1つ目は、聖書の字句を引用し宗教的観点から擁護するものです。深井さんは、宗教は奴隷制の擁護にも反対にも使われたという点が示唆深いと話します。
深井さんは、旧約聖書のレビ記の記述を紹介します。周囲の異邦人から奴隷を買い、子孫に所有として継がせることができる、という趣旨の記述です。
新約聖書のコリント人への手紙にある「各自は召されたままの状態にとどまっているべきである」を「奴隷は奴隷のまま」と解釈するなど、いくつかの箇所も擁護に用いられました。
深井さんは、現代ではこう解釈する人はほとんどいないと繰り返し強調します。プリンストン大学で会った神学の教授は、聖書をリベラルに解釈し直していたといいます。
深井さんは、時代によって聖書の解釈が移り変わっているように見えると話します。ただし、キリスト教の教義そのものが奴隷制を肯定していると誤解されないよう、注意を促します。
楊さんは、この現象の順番を指摘します。先に偏見や固定観念や価値観があり、それに合わせて宗教を解釈して自分を正当化するロジックを組み立てている、という見方です。
「美しい主従関係」という擁護
2つ目の擁護は、奴隷の主従関係が美しいものだとする言説です。深井さんは、ひどい言い方だと断りつつ、当時の人が本気でそう思っていた論理を紹介します。
当時の擁護論では、黒人は知的にも道徳的にも肉体的にも劣っているとされました。その劣った人々を白人が導いてあげているのだ、という発想です。
その論理では、動物を導く人間のように黒人を導き、精一杯の自由と保護された状態で幸せに生きられる状態を白人が担保している、とされました。もし解放すれば黒人は生きる術を失って餓死する、とも考えられていました。
楊さんは、この価値観を端的に表した本として、トマス・ジェファーソンの「バージニア覚え書き」を紹介します。建国の父の1人が書いたものです。
記憶力の点では白人と同じであると思われる。しかし、推理力では(黒人は)白人に比べてかなり劣っており、想像力は鈍く下品で異常であると思われる
楊さんは、この記述を読んだときにびっくりしたと話します。建国の父が自らこう書いていること、そしてこの考え方が南部プランターの正当化ロジックとして使われたことに驚いたといいます。
深井さんは、この態度が黒人だけでなくアジア人など白人以外のすべての人に向けられていたと補足します。当時の白人は白人以外を著しく見下していた、ということです。
科学と「逃亡病」による正当化
3つ目の擁護は、人種学の見地から科学的に脳の容量を測り、黒人の脳の容量が小さいから知能が低い、とするものでした。
深井さんは、そもそも脳の容量と知性は人間同士では直結しないと説明します。科学的には間違っているものの、自分の言説を正当化するために科学が使われた例だといいます。
深井さんは、優生学やヒトラーの行い、いまも残る女性差別の言説を挙げ、こうした科学の悪用が繰り返されてきたと指摘します。黒人への差別が全盛期だったのがこの時期でした。
さらに深井さんは、逃亡する奴隷が「病気」とみなされていたことを紹介します。黒人だけが罹患し、発症すると主人のもとから逃げたくなる「逃亡病」という病が大真面目に語られていたのです。
読んだ時もう笑っちゃったよ。これはすごい認知の偏りやな
深井さんは、逃亡を病気とすれば逃亡の原因を黒人自身のせいにでき、白人のせいではないと言えたのだと解説します。逃亡という抵抗を精神病とみなしていたのです。
楊さんは、人間は思いたいように思い、その裏付けに使えるものを全部使うのだと述べます。深井さんも、人間はずっとこれをやってきたと応じます。
共同体を守るための「敵」と必要悪の論理
深井さんは、もう1つの視点を提示します。白人のプランターにとって、自分たちの共同体を維持するために、敵として攻撃できる人間を想定した面もあったのではないか、という見方です。
黒人を劣ったものとして言い続けることで、共同体を維持するという結果を達成しようとする動きがあったのではないか、と深井さんは想像します。
さらに、奴隷制を必要悪とする論者もいました。人権の概念から見ればダメだが、黒人は科学的に知性が足りないのだから、それを前提にした社会を作るのは妥当だ、という理屈です。
深井さんは、サウスカロライナの弁護士で上院議員のジェームズ・ハモンドの言説を紹介します。南部の奴隷制は社会の基礎杭である、という主張です。
ハモンドは、すべての社会には下働きをする階級が必要で、そこに求められるのは健康、従順さ、忠実さだけだと述べました。その階級がなければ、進歩や文明を導く他の階級も存在できない、というのです。
深井さんは、当時はこの論理を政治家や弁護士が語り、多くの人が「そうだよね」と思っていたと説明します。そしてこう受け止められていたことこそ、この時代の世界観を示していると考えられます。
すごいね。やっぱ前提の立て方の違い一つで世界観がこんなにも違うんだね
差別をなくすには 教育と「なめない」こと
深井さんは、こうした論理が形を変えて構造として繰り返されているため、人権を習得して理解するのはとても難しいと述べます。楊さんも、今も似たことを考えてやっている人がいそうだと応じます。
深井さんは、何が差別なのかは勉強しないとわからないと話します。人をバカにし、下に見て、なめて、それを前提に社会を組み立てようとするのは人間の基本的な挙動なのではないか、というのが深井さんの見立てです。
深井さんは、差別の蔓延は教育の敗北ではないかと語り、教育にもっと予算を投下すべきだと述べます。ただし教育は効くまでに20年ほどかかるという時間差の難しさも指摘します。
楊さんは、人間は自分と違いすぎる他者と同じ空間にいると、警戒心や嫌悪感を抱いてしまう心情が働くと補足します。深井さんは、差別の本質は相手をなめる、バカにする、理解しないことにあると応じます。
深井さんは、相手をなめず、バカにせず、思考回路を習得することの大切さを語りますが、それにはエネルギーと時間と労力がかかるとも認めます。楊さんは、余裕がないと難しく、対話にコストを割ける人はまだ少数だと話します。
楊さんは、経済が落ちて失業が増えると、人間は不幸の原因を外に探そうとするといい、ナチス誕生の経緯を例に挙げます。深井さんは、なめることは無意識(アンコンシャス)に起きるから難しいと指摘します。
深井さんは、無意識になめている人は批判されると「なめていないのに」と怖くなり、その怖さが攻撃につながると説明します。だからこそ、どのパターンがなめているのかを体感で学ぶワークや、議論のワークを初等教育でやるべきだと話します。
「人間はバカ」でも諦めない 民主主義の態度
樋口さんが「人間バカやから無理ですよ」と応じると、深井さんはそれこそ民主主義の態度からかけ離れた諦めだと返します。
民主主義って信仰だからさ、それができると信じることからしか始まらないので、人は差別をなくせないとか言ったら、もうその時点で民主主義って崩壊するんですよ
深井さんは、民主主義に代案がない以上、解決方法がないのに諦めれば崩壊しかないと述べます。悲観的になってフィニッシュするのではなく、粘るべきだと話します。
深井さんは、難しいとわかったうえで、その後に諦めないという二段構成が大事だと語ります。その点でアメリカ人はリスペクトに値すると付け加えます。
最後は、次回ついにリンカンが登場するという予告で締めくくられます。ずっとリンカンを待っていた樋口さんは「なめんでほしい」と応じ、深井さんが「アンコンシャスでちょっとなめたね」と受けて笑いに変わりました。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
今回のリンカン編第7回は、奴隷たちが抑圧の中でも抵抗し、文化を生み出した人間だったことを描き、同時に奴隷制を支えた正当化の論理を丁寧に解き明かす回でした。深井さんは、難しさを理解したうえで諦めないことの大切さを強調しています。
- 南部には奴隷だけでなく自由黒人もいたが、いずれも激しく差別されていた
- 奴隷は病気を装う、白人をバカにする、脱走するなど、精神的に服従せずさまざまな形で抵抗し続けた
- 抑圧の中でゴスペルや黒人霊歌などの新しい文化が生まれ、クエーカー教徒らと結託した「地下鉄道」がカナダへの逃亡を支えた
- 奴隷制は、聖書の解釈、美しい主従関係の言説、脳容量などの疑似科学という3つの論理で正当化されていた
- 差別は無意識に起きる人間の基本的な挙動であり、深井さんは教育と「なめないこと」、そして諦めない民主主義の態度が必要だと語った







