13回目の雑談、そもそもポッドキャストの伸ばし方がわからない
番組は第13回。冒頭からツバサとテツトは、ポッドキャストの伸ばし方がわからないという話で盛り上がります。
テツトは、ビジネス系ならセミナー的に会社関係の人が聞くが、自分たちのような雑談系で名をはせる例は少ないと分析します。
聞かれなくても続けていくしかないですね。なんかいきなり暗いテンションになっちゃってあれだけど。
ツバサは、そもそも自分たちには元々の知名度がなく、他の活動との相乗効果もないゼロイチのスタートだと言います。
ただのただの人なんで。
そのうえで、それでも続けることに価値があるという姿勢は共通しています。
継続だけ、継続だけがやっぱ価値があるからな。
好きなポッドキャストと、乗り切れなかったTaiTanへの評価が変わった話
話は好きなポッドキャスト番組へ移ります。テツトが挙げたのは、TaiTanと藤原ヒロシ、テレビ東京の上出さんの3人でやっている「BadPharmacy」です。
ツバサは、TaiTanが所属するヒップホップグループ「Dos Monos」を、デビューした2018年から聴いてきた同い年のファンだと明かします。
一方で、ツバサはTaiTanが関わるポッドキャスト番組には、これまでどこか乗り切れなかったと言います。お笑いとも違う、教養っぽいバイブスにハマれなかったというのです。
なんかハマれないなみたいな、いまいち。
その評価が変わったきっかけが、TaiTanが玉置周啓と組む番組「奇奇怪怪」の、物語をめぐる回でした。
「物語はもう終わり」――ナラティブが手法になった瞬間に陳腐化する
ツバサが感動したのは、「人はもう物語に飽きている」という趣旨の回です。話の軸は、スティーブ・ジョブズのストーリーでした。
ジョブズは元々エンジニアではなく、美とは何かを問うアート寄りの学びから始まり、後にAppleを世界へ広めた、と番組では語られていたといいます。その経歴は伝説的なストーリーとして語られてきました。
一見こう関係のない、自分の経歴とか過去っていうのが、後から振り返ったら、なんかそれらが全部点と点がコネクトされて。
問題は、その魅力的なストーリーを見た企業やマーケターが、「ストーリーがあると売れる」とビジネスの手法にしてしまった点だと二人は整理します。
そうだね、モノ消費からコト消費へみたいなね。
ツバサは、過程そのものを見せるプロセスエコノミー ── 商品そのものではなく、作られる過程やストーリーを見せることで価値を生み出そうとする考え方や、「100日後に死ぬワニ」もその流れだと例に挙げます。
そのうえで、ツバサはTaiTanの主張の核を、こう受け止めています。手法として再現され、みんながやり始めた瞬間に、どんなにかっこいいものも陳腐になる、というものです。
テツトは、これはビジネスの世界では再現性として当然だが、もっと引いた視点で見ると、みんながやり始めた時点でもう面白くないという投げかけだと補足します。
なぜTaiTanの視点にリスペクトが生まれたのか
ツバサは、この視点があまりに先を行っていることに感動したと言います。世の中はまだナラティブの価値を認めているのに、それを「もう古い」と一蹴する早さです。
YouTubeでは今も「100日後にイケメンになる男」のようなストーリー系コンテンツが生まれている、とツバサは具体例を挙げます。それらをバッサリ切る姿勢に、彼はある人物を重ねました。
ツバサが連想したのは、みうらじゅんです。みんなが「いいもの」と思って票が固まったものに風穴を開ける発想だと言います。
テツトが、その視点でリスペクトが生まれたのだと確認します。ツバサは、好きでありながら乗り切れなかったTaiTanへの見方が、その回を経て大きく変わったと語りました。
作ろうとしないバズ――パンチくんと「今の自分を生きる」こと
テツトは、以前TaiTanの番組で語られたという市川市の動物園のカピバラ「パンチくん」の話を持ち出します。
パンチくんは、バズを生み出そうとしていない、ただ生きているだけだとテツトは言います。その「わざと感のなさ」がTaiTanにとって重要なのだろう、という見立てです。
やろうとしてないことが多分タイタンさんにとっては多分大事なんだろうね。作り出そうとしないバズみたいな。
テツトは、その回の結論を「今の自分を生きることが重要で、それが結果としてどこかの点になる」という話ではないかと推測し、ツバサもおおむね同意します。
テツトは、たまたま読んだという「本当のことを書く練習」という本にも同じ共通項を感じたと言います。日記やエッセイで、やろうとせず本当に思っていることをそのまま出す、という点です。
ナラティブの手法が「早すぎる」ことの面白さと、その先にあるもの
テツトは、ストーリーで商品を売る手法に世の中はまだ全然ついてきていない、と指摘します。それなのにTaiTanはすでに「使い古された手法」だと先へ行っている、そのズレが面白いというのです。
それがおもろいよな。早すぎる。
では、そこまで先を行くTaiTanは何をしたいのか。ツバサの答えは「面白いことをしたい」というものでした。
ツバサは、本当に面白いことをすれば人もお金も集まるはずだ、という信念に強く賛同します。ゴッホは日の目を見ずに死んだが、今は人目に触れるチャンスが確実に増えているとも言います。
なぜ手法をなぞるのがいけないのか。ツバサは、TaiTanの言葉を借りて「自分の頭で考えていないから」だと説明します。
誰かが作った考え方とやり方を当てはめてやってるだけじゃないですか。
先例主義の壁――一会社員に「新しいこと」は難しいのか
テツトは、この発想をお笑いに引き寄せます。M1で新しいフォーマットを作ったときに面白いとされるのと同じで、既に誰かがやったことをなぞるのは芸人としてダサい、という空気に近いのではないかと言います。
一方で、フレームワークのないことを、普通の一ビジネスパーソンが自分の仕事でやるのはめちゃくちゃ難しい、とテツトは現実を語ります。理由は先例主義です。
この企業はこういうフレームワークでこれをやったから成功したんです。だからこっちをやりましょうっていう方がロジックが分かりやすいし、お金も取りやすいし。
ツバサは、それはわかりつつも寂しい話だと言います。どんなに先進的な考えに共感しても、末端の会社員では実務に生かしにくい、という現実です。
テツトは、事例がないことは「それって売れるの?」と聞かれ、稟議も上げられないと補足します。だからこそ誰かが成功させたやり方を引っ張ってくることになり、ナラティブもブームになるのだと整理します。
理由付けをやめて、無意味な余白を大事にできるか
ツバサは、会社組織の話はさておき、少なくとも個人の取り組みや考えの中では、ナラティブをやめる発想は重要だと言います。
ツバサは、番組内で玉置周啓も語っていたという内容を引きます。ストーリーを重視しすぎると、過去の自分に引っ張られ、未来まで理由付けで縛られてしまう、というものです。
自分はこうしていきたいから、こういうことしなきゃいけないとかじゃなくて、もう今みたいな。
ツバサは、今飲んでいる江川ビールを例に、味がわかるかどうかもわからないこの何でもない実感こそ価値があるのではないか、と語ります。
理由付けをどうしても考えようとしちゃう、今の傾向というか雰囲気はあるよね。
二人は、無意味な余白の大切さを言葉にしようとします。ツバサは「ぼーっとする時間」を例に挙げ、「大事だからぼーっとしよう」では、もう違うのだと言います。
何のために大事なのかと問われた時点で、それはもう無意味ではなくなる。ツバサは、効果効用を求めすぎることそのものへの違和感を語ります。
音楽をお薬にしないこと――意味を求める人間の本能
ツバサは、この違和感を音楽にも感じると言います。悲しくなりたいからこの曲、というように、音楽が「お薬」のように扱われることへの引っかかりです。
もちろん機能は認めます。ツバサ自身、エレファントカシマシを聴いて頑張ろうと思ったこともあると言います。
いや、本当にそういう機能は、装置的な機能はあると思う。
それでも、感情を全く喚起しない無機質なテクノを「かっこいい」と思う気持ちもある、とツバサは言います。何に対しても意味や効果効用を求めすぎることへの疑問です。
ここから話は「なぜ人間は意味を求めるのか」へ深まります。テツトは、脳が理由付けをした方が前に進める仕組みなのではないか、と考えます。
それがなくなった瞬間、もう本当にこう死んじゃうぐらいのスイッチが切れて死んじゃうみたいなこともあるんじゃない。
テツトは、ワクワクやドーパミンが出て全身の血液が回ることが、人間という動物にとって必要なのだと言います。繁栄し次の世代へ繋ぐという目的に向けて最適化されてきたのが人間だ、という見立てです。
「誰が生命に役割を与えてんの?」――本能はストーリーか
二人の意見はここで分かれます。ツバサは、意味を求める行為を人間に生来備わったものではなく、現代病的な文脈で捉えます。
一方テツトは、意味を求める本能はもともとあって、それが現代ではナラティブという形に当てはまるだけだ、と考えます。生まれて死ぬまでの目的が、使命のようにあるという立場です。
テツトは、それは全動物、さらには微生物にも脈々と受け継がれる何かがあると広げます。ツバサは、その「役割」を誰が与えているのかと問い返します。
誰が与えるの?
テツトの答えは「歴史」「過去」でした。本能として脈々と受け継がれてきたものだ、という説明です。
それめっちゃストーリー的な話だよね。
ツバサは、その脈々と受け継がれるものをストーリーと呼ぶなら理解できると受け止めます。テツトは、犬が同族を認識して発情したりマーキングしたりする例を、DNAに刻まれた本能として挙げました。
テツトは、仮に人間が無為なことを完全にできたら、スイッチが切れて生きられなくなるのではないか、と締めます。ただしこれは今パッと思っただけの考えだと付け加えました。
抽象的な話ができる人、できない人
かなり抽象的な話になったことを受けて、ツバサは新しい話題を切り出します。抽象的な話ができる人とできない人がいる、というものです。
ツバサは、身近な人には抽象的な話ができる人でいてほしいと言います。否定ではなく、自分自身が抽象的な話を好み、話し合うのが好きだからです。
一方で、具体オンリーでコミュニケーションする人も結構いて、会うとギャップに驚くと言います。ツバサは、相手からも自分の話が漠然として見えているだろうと察します。
多分そうだと思う。相手方の方がむずいと思う。意味わかんないことを言ってる人になると思う。
ツバサは、そういう人からは「その話して何になるの?」と思われそうだとも言います。笑える話なのか、お金になる話なのか、と実利で問われる感覚です。
テツトは、抽象化は日常でも起きていると返します。映画で感動したシーンを、なぜ感動したのかに抽象化し、別の作品と結びつけて「自分はこういうのが好きだ」と理解する、というプロセスです。
映画の感想はなぜ難しいのか――「スマッシングマシン」で自信をなくした話
話は映画の感想の難しさへ移ります。ツバサは、ドウェイン・ジョンソン主演で実在の総合格闘家を描いた映画「スマッシングマシン」を観て面白かったと言います。
ところが、格闘技に詳しい映画好きの友人に感想を話すと、まったく違う見方を返されたといいます。
そいつの考えがあまりにも真っ当というか、正しすぎて、俺なんかすごいずれた見方してたなみたいな思って。
ツバサは、映画に限らず何かへの感想が人とずれる自意識が昔からある、と明かします。仮説を立てながら観るが、その仮説自体がずれていることもあると言います。
テツトは、その原因をツバサ自身の背景に見ます。映画を観すぎていること、大学で映画を学び、自ら撮った経験もあることから、カットや監督の意図といったメタな視点で観てしまうのではないか、というのです。
本当の自分が思ったことをパッケージングできてない可能性がある。
ツバサは、自分の知識はたかが知れているとしつつ、ずれていると感じた自分の感想にも価値はある、と受け止めます。それでも友人の意見を並べると「それだわ」と思ってしまう、と苦笑しました。
「今の自分」で観るための工夫と、若者の「何が何だかわからなかった」
テツトは、ここで意味付けの話につなげます。二人とも映画を無意味には観られず、意味付けて観ているのではないか、というのです。
テツトはむしろ自分の方が、なるべく今の自分で、まっさらな状態で観ようと意識してしまうと言います。ただ、いいセリフをメモできるよう覚えておこうとする自分もいて、それも余計だと感じています。
テツトは、映画はただのエンタメで、見たものを受けて感じればいいとも言います。そのうえで「プラダを着た悪魔2」を観た後の、喫煙所での若者たちの会話を紹介します。
何が何だかわからなかったって言ってて。
雑誌がグループ会社にあることなど、説明されていない前提が多い作品でした。テツトは、それがわからないままの感想もそれでいいのではないか、と受け止めます。
メディアに勤める視点で観た「プラダを着た悪魔2」
テツトは、Webメディア企業で広告・PRの仕事をする立場から、「プラダを着た悪魔2」をメディア論として観たと語ります。舞台は、記事やジャーナリズムが稼げず、クリックが重視されるSNS時代です。
物語では、雑誌ランウェイが親会社ごと富裕なアジア人女性に買われ、めでたし、で終わります。しかしテツトの受け止めは違いました。
救われねえなって俺は思いましたね。
テツトは、本来メディアは読まれ課金され生き延びるのが資本主義における正しい生き方だと言います。それなのに物語は、一人の金持ちに救われるパトロン的な結末を示しました。
テツトの仕事は、まさにメディアのマネタイズです。だからこの結末を、自分事として重く受け止めたと言います。
ツバサは、これをジャーナリズムの敗北的な話だと整理します。ジャーナリズムを貫くことが、企業やビジネスの成長にはつながらない、という結論です。
大きな共同体と小さな共同体――メディアはどう生き延びるか
ツバサは、正義を貫きつつ応援してくれる人と健全につながることは可能だ、と言います。ただし、映画のランウェイほどの規模では難しいと見ます。
ツバサの整理は明快です。小さなコミュニティなら成立するが、メジャーな大企業は巨大資本とタッグを組んで駆動するしかない、というものです。
だから二極化していくよね、それでいったら。小さな共同体と大きな共同体っていうので。
テツトは、この話を自分たちのポッドキャストに引き寄せます。ポッドキャストはプラットフォームの上にありつつ、どちらかといえば狭いコミュニティを作る方だと言います。
そのうえでテツトは、傲慢だと断りながらも、聞く側もお金を払わないと持続しないという現実を口にします。どうでもいいものはなくなっていい、という厳しい見方も添えます。
情報が水より安くなった時代に、良質なコンテンツは維持できるか
テツトは、YouTubeやテレビが広告技術で無料視聴を回してきたことに触れます。その結果、ユーザーは無料で情報を摂取することに慣れきってしまったと言います。
ツバサは、良質なメディアやコンテンツを維持するには、無料ではなく課金してでも得るくらいでないと難しいのではないか、とまとめます。
テツトは、30年前は雑誌も新聞も買うのが当たり前だったが、インターネットで情報が「水より安い」ほどタダに近くなったと指摘します。
情報がもうインターネットが流行って情報がタダ、水より安いくなってるんで。
テツトは、映画がYouTubeで見られる形にせず、映画館かサブスクに留めて安売りしなかったことが、結果的に良かったのかもしれないと言います。日本の新聞社が不動産で持ちこたえている例も挙げました。
本業別にある会社がジャーナリズムやる。そこでフラットにできないけど、普通は。
最後は、みんなが一斉に支払いの壁を作ればいいのかもしれないが、それも資本主義的すぎる、と話は落ち着きます。二人は「何の話だったか」と笑い合い、抽象の話から始まった雑談を締めました。
まとめ
「物語はもう終わり」というTaiTanの視点を入口に、二人の雑談は、意味を求めてしまう人間の本能や、映画の感想の難しさ、そしてメディアがどう生き延びるかまで広がりました。抽象的な問いを行き来しながら、答えを出すよりも考える過程そのものを楽しむ回になっています。
- ストーリーで売る手法は、みんながやり始めた瞬間に陳腐化する、というのがTaiTanの視点として語られた
- 一会社員は先例主義と稟議の壁があり、新しいことをやりにくい。ツバサはそれを「寂しい」と受け止めた
- 理由付けや効果効用を求めすぎず、無意味な余白や「今の実感」を大事にできるかが一つのテーマになった
- 意味を求めるのは人間の本能か現代病か、で二人の見方は分かれ、「誰が生命に役割を与えているのか」という問いに至った
- 「プラダを着た悪魔2」を通じて、良質なメディアは大資本かパトロンに頼るしかないのか、という現実が語られた






