AIを使った芸術は「あり」なのか、誰が決めるのか?
京都芸術大学で文芸を教える河田学さんに、木原考晃さんが問いかけたのは、生成AIと創作表現の関係です。AIを使って小説を書く小説家も増えるなか、河田さん自身はそれを面白がっているのか、学生にもそうなってほしいのかを尋ねました。
河田さんの答えは、AIを使った表現の是非は自分や学生が決めることではなく、社会が決めることではないか、というものでした。
河田さんはその例として、フランスのゴンクール賞 ── フランスで最も権威ある文学賞の一つ。1903年に始まり、毎年すぐれたフランス語の小説に贈られますを受けた作品がAIを使っていると批判された件を挙げます。批判を読んでみると、AIを使った表現の良し悪しではなく、芸術にAIを使ってよいかどうかという話にしかなっていなかったといいます。
芸術の中にAIを使った表現っていうのも一つありだなっていうふうに、社会はまだまだ全然思ってないなということだけが印象に残ったんですね。
河田さんは、社会がダメだと考えているなかで学生が面白がって暴走しても、ハッピーな結果にはつながらない気がすると話します。社会全体の価値観や芸術観に関わる問題なので難しい、という慎重な立場です。
これを受けて小笠原治さんは、大学として「このプロセスだけは人間が必ずやる」というモデルを示すべきだと提案しました。
AI、アート、芸術と呼ぶには、このプロセスだけは人間が必ずやるべきだと考えているというモデルを提示した方がいいかなと。
小笠原さんは、京都芸術大学芸術学部としてそうした考えを打ち出せば、どう教育を形作るかが決まるはずだと話し、大学の執行部で議論してほしいと期待を語っています。
人間が書いたものを読みたい、という気持ちはどこへ向かう?
木原さんがAIで作られたとされる作品を読んだか尋ねると、河田さんはまだ読んでいないと答えます。小笠原さんは、そもそも「他に読みたいものがもっとある」と指摘しました。
小笠原さんは、人間が書いたものを読みたいという感覚と、AIが書いても面白ければよいという感覚の関係を、文学の歴史のなかの変化として捉えます。
例えば昔だとその学のない人が書いたもの、面白くないって言ってたかもしれない。
小笠原さんによれば、昭和初期を経ていろいろな人が書くようになりましたが、それは技術や経済の進歩があって初めて成り立ったことでした。AIという書き手が増えた今も、同じように影響し合うはずだという見方です。
「説明的な表現」ばかりが大量生産される未来?
木原さんは、小説でも映画でも説明的であるほどつまらないと感じるといいます。説明して現実っぽくするほど非現実感が生まれ、隙間を残して読み手が埋めるほうが現実に近づき、面白みがあるという考えです。
木原さんの懸念は、AIそのものより、AIが「売れる表現」に寄っていくことにあります。
説明的な表現の映画の方がマーケティング的には売れるってことがわかったAIが作っていく表現って、どうしてもそっちに寄っていくものが大量生産されるんじゃないかなって僕は思ってる。
小笠原さんは、人間の書き手でも売れると思えばそちらに寄るのは同じだと返します。木原さんは、AIによってそれが加速し、そうした表現が世の中のシェアを占めてしまう点を気にしていました。
一方で小笠原さんは、売れるものを書くことにはもう一つの面があると指摘します。
ある組織の営利のために書きたくないものを書く苦しみを持ってた人を解放するとも言えますよね。
売れる説明的な表現にAIが寄り、それが大量生産されて世の中のシェアを占めてしまう
営利のために書きたくないものを書く苦しみを、AIが肩代わりして書き手を解放するとも言える
みんなで同じ本を読む時代は終わるのか?
河田さんは、AIで作品を書く現状にはまだプロンプトを入力する手間があり、1万部や10万部売れる作品を作ろうとすると人的コストもかかると指摘します。そのコストが下がっていくと、読書のあり方自体が変わるかもしれないといいます。
スマホに今から30分バス乗るから30分で読める小説書いてって言ったら、その場で30分分の小説がこう出来上がる。みんなそれを読んでるみたいな風になるかもしれない。
河田さんの見立てでは、今みんなが同じ作品を読み、「100万部売れた」「全米が泣いた」と盛り上がるのは、出版というプラットフォームがそれを必要としているからです。AIはそのプラットフォームの前提ごと変えてしまうかもしれない、という見方です。
木原さんは、自分にフィットした表現ばかりに触れることへの不安を語ります。とくに大学生のうちは、わからなくても背伸びした表現に触れてほしいという思いがあるからです。
もうわからんけど、何書いてんのか。でもこれを読んでる自分がかっこいいとか、なんか成長するかもしれないみたいな。
河田さんも「難しい漢字とか使いたがるんですよね」と笑って応じます。木原さんは、AIによって自分に合うものとばかり接点を持つようになると、難しいものに偶然出会う機会が減るのではないかと問いかけました。
投稿サイトもSNSも、結局は人間の「群れ」なのか?
河田さんは、小説の世界では以前から、小説家になろう ── 誰でも小説を投稿・閲覧できる日本の大型小説投稿サイト。ここから書籍化・アニメ化された作品も多く、「なろう系」という言葉も生まれましたやカクヨム ── KADOKAWAが運営する小説投稿サイト。読者の評価によるランキングがあり、書籍化のきっかけにもなっていますのような投稿サイトで書く若い人が増えたと話します。そうした経験を経て文芸表現学科に入学する学生も多いそうです。
投稿サイトでは、読者の投票で順位が決まり、上位の作品が検索でも上に来ます。この仕組み自体が面白くない作品を増やしているという指摘は以前からあったものの、河田さんはそれをベストセラーを読みたい心理と同じものだと見ています。
誰も注目しないような変わった作品を見つけたいって思う人と、みんなが読む作品をみんなと一緒に読んで、同じように楽しみたいっていう人と、やっぱり両方いる
河田さんは、同じ人でも両方のタイミングがあり、問題はAIでその傾向がどう変わるかだとまとめます。
小笠原さんは、人間は群れる動物で、テクノロジーがそれを加速させているだけだと話します。河田さんも、YouTubeやTwitterも最初はオルタナティブなプラットフォームだったのに、結局フォロワー数を競うテレビと同じことになったと応じ、プラットフォームより人間の本性の問題だと見ています。
小笠原さんはさらに、いいねがチップとして賭けられ、誰かに集まると現金に換わる「カジノ」にたとえます。投稿サイトでも、書き手が親として作品をベットし、読み手が投票という形でベットする構図は同じで、AIの問題ではなさそうだといいます。
エンタメ輸出国・日本にとってAIはなぜ怖い?
小笠原さんは、国の立場から見るとAIによる創作はきつい話だと指摘します。日本ではエンタメが半導体を超える輸出産業になっており、国はそこに張ると宣言しているからです。
これAI代替される可能性があるっていう議論を今してるわけで。ということは、日本の輸出産業1つ吹っ飛ぶよねっていう話でもあるんで
小笠原さんが怖いと語るのは、AIを怖がって使わせない現場の判断と、AIを超える人材を育てたい国策が、目的は違うのにやることだけ一致してしまう点です。
だからこそ今みんなに怖がって使わないって判断だけはやめてねと。ちゃんとなぜ使わせないかははっきりさせましょうと
木原さんは、日本人が作ったプロンプトから生まれたキャラクターIPが世界で売れたとしても、同じことは世界中の人ができると指摘します。日本がエンタメで先頭を走ってきた立場が揺らぐのではないか、という懸念です。
小笠原さんは、ライトノベル原作の『無職転生』を例に挙げます。アニメ制作のためにスタジオまで作り、世界配信したところ、海外では「アニメは好きだけど主人公は嫌い」という賛否も起きているそうです。
小笠原さんは、そこまで届くのは日本のエンタメへの信頼があるからだと見ています。AIが作ったものが同じ信頼を得るにはまだ時間がかかり、その間に、どんな人に何を教えるかを決めておきたいと話しました。
AIを議論しない教育者でいいのか?
小笠原さんは、この日の木原さんがいつになく考えて話していると冷やかしつつ、こうした議論が大学の代表教授会でも交わされるとよいと話します。
河田さんによると、代表教授会では最近AIの話題が出たそうです。学長から大阪府立大の件のようなトラブルも含めて問題提起があり、軽いディスカッションが行われたといいます。
小笠原さんは、いまAIを議論しない教育者はどうなのかという立場です。木原さんが、AIを一切使わない方針の大学もあると指摘すると、小笠原さんは方針そのものより理由が大事だと答えます。
(AIを使わせない理由が)例えばいやよくわかんないんで、だったらクソな大学だし
小笠原さんは逆に、芸術とは人がこの部分をやることだと定めたうえで、そこに集中させるために使わせないと説明できるなら、それはいい大学だと話しています。
「よくわからないから使わせない」なら評価できない
芸術と呼ぶために人がやる部分を定め、そこに集中させるために使わせないなら良い大学
ハルシネーションは新しい表現になるのか?
木原さんは、AIのハルシネーションを表現として面白がれないかと河田さんに尋ねます。フィクションをプロンプトで作らせたうえで、さらに虚構が生まれるのは人類にとって初めての状態ではないか、という問いです。
河田さんは、そうした試みはシュルレアリスム ── 1920年代にフランスで始まった芸術運動。無意識や夢、偶然を手がかりに、理性の制御を離れた表現を目指しましたなどの文脈でかなりやられてきたと応じます。ハルシネーションはもともと幻覚や幻想を指す言葉で、文学のテーマになってきたからです。
ただし河田さんは、AIの生む妄想が人間の妄想とは別種のものとして面白く感じられる可能性も否定しません。小笠原さんは「確率論的に生まれた妄想が面白いと思えるかどうか」だとまとめました。
AIが返してきた「存在しない谷崎」の不思議
河田さんは、2〜4年ほど前の自身の体験を紹介します。授業で扱っている谷崎潤一郎 ── 明治末から昭和にかけて活躍した小説家。官能や美への耽溺を描いた作品で知られますの短編「秘密」について、日本文学での一般的な解釈をAIに尋ねたところ、答えがずれていたそうです。
そこであらすじを要約させると、内容はまったく違っていました。それでも妙に谷崎らしく、元の短編とかけ離れているわけでもない。問い詰めると、AIは創作したと認めたといいます。
どっかで読んだことがあるような気がする。だけど実在しないみたいなものを生み出してきたっていうのは、なんかすごい不思議な感覚がしましたね。
河田さんは、いろいろな要素を取ってきているからだろうとしつつ、読後感としてはとても不思議な体験だったと振り返ります。
小笠原さんは、防衛白書を三島由紀夫の文体でまとめさせると読めるようになるという例を挙げ、そうした使い方のクリエイティビティは「あり」だと話します。元の数字を変えないよう指示することもできるようになってきたそうです。
小笠原さんは、ハルシネーションはいずれ人間より少なくなる前提で、今だけの楽しみ方だと見ています。「読んだような」読後感も言語化できれば再現でき、業務レポートに読む楽しみを与えることもできるかもしれない、と想像を広げました。
AIで「書く喜び」を味わえる人は増えるのか?
木原さんは、AIが表現を変えても、書く喜びや作る面白さにこそ芸術大学の活路と学びの価値があると考えています。AIを使えるのにあえて使わない学生も、書いているほうが幸せだと感じているのかもしれないといいます。
河田さんは、AIによって文学の新人賞への応募が爆発的に増えているという話を紹介します。学術誌への論文投稿も増えており、小説を大量生産できる状況になっているといいます。
小説を書くってことへの参入障壁みたいなのが低くなって、より多くの人が書くっていう喜びを味わうことができるようになるんだったら、僕それは面白いなと思います。
小笠原さんは、建築設計事務所での最初の仕事を振り返ります。普通科の高校から親戚の事務所に入ったため、ドラフター ── 製図板と定規が一体になった手描き用の製図器具。CADが普及する前の設計現場で広く使われていましたで図面を描いた経験がなく、手描きのままなら責任ある図面を任されるまで5年ほどかかったはずだといいます。
そこにCADが登場します。小笠原さんは消費者金融でお金を借りてパソコンを買い、CADを入れて、自分でも綺麗に描けるようになりました。
時給500円のやつがやってることに400万投資していいと思ってもらえた。
事務所が認めてくれた証は、給料ではなく、当時400万円ほどした出力用のプロッターの購入でした。小笠原さんは、技術の進歩は「仕事ができる人間が1人増える」ことを生むと考えています。
ドラフターで手描き。綺麗に描けず描き直しが続き、責任ある図面まで5年ほどかかる見込み
CADで綺麗に描けるようになり、事務所が400万円のプロッターを買うほど仕事を認められた
評価の喜びか、作るプロセスの喜びか
木原さんは、二人の話は作るプロセスの喜びではなく、評価される喜びではないかと問い返します。AIで新人賞に出せても、出てきた作品を読んで達成感があるわけではなく、賞を取れたときに喜びがあるだけではないか、という見方です。
賞を取らなくても、小説を賞になんなら出さなくても、今まで書きたいけど俺は絶対無理だなって思ってた小説というものをAI使ったら案外書けるじゃんっていう書く喜びを味わう人が増えたりしたらいいんじゃないかなっていう。
小笠原さんも、プロッターは1つのマイルストーンだったものの、CADで描くこと自体が手で描くよりずっと楽しかったと話します。自分が描いたトイレの図面をみんなが使い回すのも楽しく、もっと綺麗に描こうと思えたそうです。評価とプロセス、両方の喜びがあるという立場です。
木原さんは、作るプロセスだけでなく、AIを使って新しい表現者をたくさん生む価値も芸術大学にはありうると考え直します。たとえば入学時に求める力も変わっていくかもしれないといいます。
人間が書いた作品しか認めない人は残るのか?
河田さんは、入学時に求められるものは変わるだろうとしつつ、人間が書いた小説しか認めないという人は必ず生き残ると話します。その考えも尊重されるべきで、そのせめぎ合いの中で新しい技術が芸術にどう取り込まれるかが楽しみだといいます。
小笠原さんは、陸上の100メートル走をたとえに出します。
100メートル9秒切る必要ありましたっけ?人類。
小笠原さんによれば、人は9秒を切るまでの取り組みやプロセスを想像して泣けるし、興奮できます。だからそうした人を育てる「オーセンティックな」コースや学科はあってよく、その対として、技術でできることをやりきって新しい想像力を解放する場も必要だといいます。
木原さんは、工業製品がある時代に陶芸を学ぶことがまさにそれだと応じ、小笠原さんも同意しました。
人間がやるプロセスそのものに価値を置き、その取り組みを育てる
技術でできることはやりきったうえで、新しい想像力を解放する
写本から印刷へ、文芸はもともとテクノロジーの産物
河田さんは、文芸というジャンル自体がテクノロジーから生まれたと指摘します。本はかつて手書きの写本でしたが、印刷技術によって同じ本を何千冊、何万冊と刷れるようになり、その上に成り立ったのが今の文芸だという見方です。
河田さんは、変わっていくのが当たり前だと話します。木原さんはこの言葉を「パンチライン」と呼び、小笠原さんは「怖がらなくていいよって話ですよね」とまとめました。河田さんも「楽しもう」と応じています。
ただし小笠原さんは最後に、業務でのAI活用はまた別の話だと付け加えています。
まとめ
AIによる創作の是非は、個人ではなく社会の芸術観が決めることだと河田さんは話します。それでも、文芸が印刷技術から生まれたように、表現はテクノロジーとともに変わってきました。怖がって使わないのではなく、理由をもって向き合うことが、芸術大学にも求められています。
- AIを使った表現が芸術として認められるかは、社会全体の価値観が決めると河田さんは考えている
- 売れる説明的な表現にAIが偏るという懸念がある一方、書きたくないものを書く苦しみから解放するという見方もある
- AIは小説を書く参入障壁を下げ、より多くの人が書く喜びを味わえる可能性がある
- 芸術大学には、人間のプロセスを重んじる学びと、技術を使い切って想像力を解放する学びの両方が必要だと語られた
- 写本から印刷へ移ったように、文芸はもともとテクノロジーの産物であり、変わっていくのが当たり前だと河田さんは話す







