X で話題になった「手札シャッフル」論争とは?
最近Xで大きな話題になったのが、カードゲームで配られた手札を、見る前に自分でシャッフルし直してよいかという議論です。Manaさんによれば、トレンドやニュースにも取り上げられるほどの盛り上がりで、Xを開くたびに「シャッフル」の話題が目に入る状態だったといいます。
この議論の前提には、手札の並び順を変えられないタイプのゲームがあります。Manaさんは代表例として、ナナトリドリやスカウト ── 手札の並び替えができず、隣り合ったカードを組み合わせて出すカードゲーム、最近の作品では『ヒャクジュウパレード』を挙げています。
これらのゲームでは、手札を見た時点で並び順が確定し、隣同士のカードを一緒に出せるなど、並び順そのものが重要な意味を持ちます。そのため、配られたあと見る前に手札を混ぜ直す行為がありかなしかが、Xで議論の的になりました。
Manaさんが最初に指摘するポイントは、そもそもこの行為の可否が説明書に書かれていないことです。「手札の順序は変えられない」とは書かれていても、その制限が配られた時点から始まるのか、見た瞬間から始まるのかまでは厳密に定義されていないといいます。
説明書に書いていないことは自由にしていいのか
定義されていない以上やってよいのか、というのが議論の中心だとManaさんは見ています。書いていないことは何をしてもいいのかという問題がある一方で、すべてを書いてしまうとルールが窮屈になるという問題もあります。
Manaさんが重視するのは作者の意図です。どうしても重要な要素であれば説明書に書いているはずで、書いていないなら「どちらでもいい」「卓の雰囲気で話し合って決めて」という意図なのかもしれない、と話しています。
私も実際にボードゲームいろいろ作っておりますので、これはルールに書くべきなのか、それは書いてしまったら窮屈なのかっていったところも結構あったりします。
Manaさんは、デジタルゲームなら操作そのものを制限できるのに対し、アナログゲームは場の雰囲気でアレンジを加えられるのが良さだと考えています。ルール間違いのリスクはあるものの、ある程度の「揺らぎ」は許容してもいいのではないか、という立場です。
できない操作をシステムで制限できる
場の雰囲気でアレンジを加えられる。ルール間違いのリスクもある
そのうえでManaさんの結論は、手札が配られて実際に見る前であれば、シャッフルしてもしなくてもどちらでもいい、というものです。同卓した人がシャッフルしていても特に気にならず、「自分で運命を変えるんだ」と言いながら混ぜる人も、それはそれで面白いと話しています。
手札の運はいつ確定するのか
手札シャッフル論争のポイントを、Manaさんは「手札運がいつ確定するのか」という問題だと捉えています。そこで引き合いに出したのが、箱を開けるまで中の猫の生死が確定しないというシュレディンガーの猫 ── 量子力学の思考実験。観測するまで箱の中の猫は生と死が重なった状態にある、というたとえで知られますの話です。
Manaさんの見立てでは、手札の運も自分が見た瞬間に確定します。そのうえで、配られた時点で運が確定すべきか、配る前のシャッフルの順番で確定すべきかという、人それぞれの認識の違いが論争を生んでいるといいます。
見る前であれば、ディーラーのシャッフル具合によっても運の要素はいくらでも変わります。自分でシャッフルし直すのは、そこにアレンジを1つ加える程度の行為だという見方です。
類似の話として、Xでは「山札から1枚引くとき、一番上ではなく好きな位置から取るのと、手札を混ぜ直すのは同じではないか」という意見も出ていました。Manaさんも、一番上を引くのも中から選ぶのも運としては大差ないと認めています。
運が同じでも「選ぶ楽しさ」は変わる
それでも一番上から引くのが普通なのは、進行がスムーズだからです。毎回山札の中から選ばせると時間がかかり、まどろっこしくなります。Manaさんはこの違いを、作者がどんなゲーム体験を与えたいかという「演出」の問題だと整理しています。
もう運的にはそんなに変わらなかったとしてもですね、そこにユーザーが選択するっていう楽しさといったものを設けるのかどうかっていったところだと思います。
Manaさん自身、発売はしていないものの、山札を2つや3つに分けるゲームを考案したことがあるそうです。配り終えた残りの山札を2分割し、どちらから引いてもいいという「2分の1の選択肢」を与える仕組みです。
これ(山札を2つに分けること)、正直意味はないです。
何が出るかわからない以上、確率としては山を分けても変わりません。それでもManaさんは、あえて選択させることで「勝つ手があったはずだ」という感覚を味わってほしかったといいます。
たとえば山札Aを引いて微妙なカードだったあと、他のプレイヤーが山札Bから良いカードを引いて好プレイをすると、「あの時Bを選んでおけばよかった」という後悔が生まれます。
選択
山札AとBのどちらから引くかを自分で選ぶ
結果
Aを引いて微妙なカードだった
比較
他のプレイヤーがBから良いカードを引き、好プレイをする
後悔とスリル
「Bを選べばよかった」と感じ、運に抗えた気がする
実際はただの運でも、人の手が加わった時点で「自分のせい」「運に抗えたのではないか」という感覚が生まれます。山札を引くだけのアクションに、選ぶスリルという楽しみ方が加わるのが面白いとManaさんは話しています。
手札を混ぜ直すのは「一人遊び」の範囲か
Manaさんは、手札シャッフルの可否も作者がどう考えているかで決まると見ています。配られたあとに運命を引き寄せろ、抗えという体験をさせたいなら、作者は「配られた後に並び替えてから見ろ」と説明書に書くはずだといいます。
書かれていない以上、作者はそこを演出として想定しておらず、混ぜ直してもゲームとしての運の要素はほとんど変わらない、というのがManaさんの見方です。変わるのは、混ぜ直したその人自身のアクションだけです。
(混ぜ直したあとに)結局そこで悪かったとしても、うわぁ失敗したって思いますし、自分一人としての、ゲーム全体としてみんなで楽しんでいくっていうよりも、ある意味一人遊びに結構近いですね。
Manaさんは手札の混ぜ直しを、自分に自分でベットするような個人の楽しみ方だと捉えています。それを禁止することは、その人が個人で楽しんでいる遊びを制限することになる、という考えです。
同じような「一人遊び」の例として、Manaさんはプレイ中にしゃべる人、カードをじわっと見せてから出す人、「来い」と祈ってから引く人を挙げています。祈っても引くカードは変わりませんが、場を盛り上げる面も含めて、各自が好きに楽しんでよい範囲だといいます。
イカサマの懸念と大会ルールは別の話
Xの議論では、手札を混ぜ直すとイカサマの恐れがあるという意見も出ていました。これに対しManaさんは、お金がかかっているわけでもないボードゲームで、イカサマをしてまで勝とうと思うだろうかと疑問を投げかけます。
一方で、大会であれば厳密なルールを定める必要があるとManaさんは考えています。ただしそれはゲームのルールとしてではなく、大会の運営ルールとして定めるものだという整理です。
例として挙げたのが将棋やチェスです。遊びとしては1手にどれだけ考えてよいか厳密な決まりはありませんが、大会では30分の持ち時間制などが設けられます。
作者が説明書で定める遊びの仕組み。手札シャッフルの可否は書かれていない場合がある
公平性や不正防止のために運営側が定める。持ち時間制や「配られた後のシャッフル禁止」など
不正を疑われないことや、全員が同じアクションをする公平性を保つためなら、運営ルールとして「配られた後のシャッフルは禁止」と明言すべきだとManaさんは話します。手札シャッフルの問題は、ゲーム単体ではなく遊び方の問題だという見方です。
同卓した人に「シャッフルし直しはダメ」と主張すること自体も、Manaさんは悪いとは考えていません。声が上がった時点で、その卓ではどうするかを決めればよく、明言化したほうが面白ければ明言化すればいいといいます。
ですけれども、そこで声を発したっていう時点で、じゃあどうする?みたいな話でいいと思います。
ポーカーで「運命がねじ曲がった」と怒る人
手札シャッフルに関連して、Manaさんはポーカーでの興味深い出来事も紹介しています。ポーカーでは、ディーラーがシャッフル後に決まった順番でプレイヤーにカードを配ります。
最初に配る位置はボタンのような駒で示されますが、プレイ終わりに駒の移動が遅れ、誰から配り始めるかがずれることがあるそうです。そのとき、ディーラーに「お前のせいで運命がねじ曲がった」とクレームを入れる人をManaさんは見かけたといいます。
ルールと違う配り方をしたこと自体は問題だとManaさんも認めています。ただ、配る順番がずれたこともまた運命ではないか、シャッフルの途中段階でも結果は変わりうるのではないか、とも考えています。
多分手札が良かった時はそういった人ってそう言わないと思うんですよ。もうそれさえも運命だ、俺は引き当てたんだみたいな。
Manaさんが遊んだのはお金のかからないアミューズメントのポーカーで、そのクレームも本気というよりネタに近いものだったそうです。それでも、運の受け止め方として面白い見解だったと話しています。
作者は運と実力のバランスをどう考えるのか
ボードゲームを作る立場では、運との関わり方や、運に対して人がどれだけ手を下せるかのバランスをとても気にするとManaさんは話します。
運の要素が強すぎると、プレイヤーは自分にできることがないと感じます。逆にアブストラクトゲーム ── 将棋や囲碁のように、運の要素や隠された情報がなく、純粋な思考で勝敗を競うゲームの総称のように運がまったくないと、強い人ばかりが勝ちます。Manaさんは、弱い人でも逆転できるほうがパーティーゲームとしては盛り上がると考えています。
どれだけ運に手を出せるかのバランスは、演出としてあえて入れる場合もあれば、入れない場合もあります。入れていないなら、みんなで決めればいいというのがManaさんの考えです。
論点のずれ:作者の自由と卓の公平性
手札シャッフルを「許すべきか、許さざるべきか」という極端な議論は、少し話が違うとManaさんは見ています。作者側の視点と、ボドゲ界や卓を運営する側の視点は別物だからです。
作者としてのManaさんは、定義していないなら自由にやっていいという気持ちだといいます。ただし自由にやりすぎると公平性がなくなるため、遊び方のルールはコミュニティやその場ごとに定義されるものだと考えています。
| 立場 | 考えること | Manaさんの提案 |
|---|---|---|
| 作者 | その体験を演出として与えたいか | 意図に応じて書く・書かない・書き方を決める |
| 卓・大会の運営 | 公平性や不正防止 | 必要なら運営ルールとして明言する |
| 遊ぶ人 | 各自の楽しみ方と場の合意 | その場の卓で決めるか、各自の楽しみ方に任せる |
Manaさんは当初この話題を傍観していましたが、あまりに盛り上がっていたため、自分がどう見て考えていたかを記録として残したかったといいます。ボードゲームを作る人は演出として与えたいかどうかで書き方を考え、遊ぶ人は作者の考えを参考に、その場で決めればいいというのがこの回の結論です。
まとめ
手札シャッフル論争について、Manaさんはゲームのルールと卓の運営ルールを分けて考えるべきだと話しています。作者が説明書に書いていないなら、運が確定する前の混ぜ直しは個人の楽しみ方の範囲で、公平性が必要な場面では卓や大会がルールを定めればよい、という整理です。
- 手札の可否は説明書に定義されておらず、運が「いつ確定するか」の認識の違いが論争を生んでいる
- 運としては同じでも、選択の余地を与えるかどうかは作者がゲーム体験として仕込む「演出」の問題
- 見る前の手札シャッフルは、祈ってから引くのと同じく、各自の「一人遊び」の範囲と捉えられる
- 公平性や不正防止は、ゲームのルールではなく大会や卓の運営ルールとして決めるもの
- 作者は演出意図に応じて書き方を考え、遊ぶ人はその場の卓で決めればよい

