コロナ禍に出た『思いがけず利他』とはどんな本か
今回の一冊は、中島岳志さんが2021年10月にミシマ社から出した『思いがけず利他』です。児玉さんは、タイトルからしていいと話します。
この本はコロナ禍に発行されました。人と会えず、ソーシャルギフトなどが使われた時期で、そうした背景も本の冒頭に触れられていると児玉さんは紹介します。
利他とは他人のために何かをすることですが、児玉さんは、そこに落とし穴があると整理します。将来自分に何かいいことが返ってくるという思いがあれば、それはもう利他とは言いにくい、というわけです。
将来的に自分に何かいいこと返ってくるよなみたいな思いがあれば、ちょっとそれ利他と言いにくいよねみたいな。
児玉さんの理解では、純粋な利他とは、提供した側も受け取った側も、その瞬間には気づいていないものです。あれが利他だったんだなということが、お互いに将来になって初めてわかるという時間の構造があると読み解きます。
提供した側は今提供したことに気づいてないし、受け取った側も将来わかるんで、受け取ったその瞬間があ、自分のためなんだっていうことも理解できない。
つまり利他は、今と過去と未来という時制の話でもある。児玉さんは、そう本を受け止めます。
経営者が利他を扱う難しさと挑戦のしがい
児玉さんは経営者として、この本を事業の上でどう捉えるかを考えると、非常に難しいと率直に語ります。本自体が利他で事業をやれと言っているわけではないので、なおさらです。
それでも、事業における利他がありうるのかと考えると、難しさと同時に挑戦のしがいもあると児玉さんは話します。哲学書として簡単には解説できない本なので、ぜひ読んでほしいと勧めます。
その上で、児玉さんは今回シェアしたい感想を3つのポイントにまとめました。
- 欲覚(よかく)という言葉
- 美味しいものを作ろうとしてはいけない
- 今の意味は未来から
ヒンディー語の「与格」が示す主体性のなさ
1つ目のポイントは「与格」です。児玉さんも普段は使わない言葉で、文法や言語学の人がよく使うのではないかと前置きします。
本では、中島さんがインド政治学を大学院で学ぶなかで触れたヒンディー語の話が出てきます。ヒンディー語には、日本語や英語でよく使う「主格」と対比される「与格」があると紹介されます。
主格は「私は何々をする」という、よく使う形です。一方で与格構文では、たとえば「私は嬉しい」を「私に嬉しさがとどまっている」と表現します。
風邪を引いたも同様で、私に風邪がとどまっているという言い方をします。このほにゃららにで始める構文を与格構文と言います。
児玉さんは、風邪を引くのは積極的に引くわけではないので、確かにコンビニに行くような行動に比べて主体性がほとんどないと納得します。日本語はそれを文法まで落とし込んで言い表せていないのかもしれない、とも言います。
この与格構文があるからこそ、本のタイトルどおり、自分が意図しないのにそうなっている「思いがけず」の状態が世の中に多くある、と本は伝えているのだと児玉さんは受け止めます。
児玉さんは、本にも引用されている國分功一郎さんの『中動態の世界』を挙げ、欲覚は中動態の考え方にも近いと感じたと話します。人は主体的であることばかりではない、というわけです。
コロナ禍で売上が伸びて感じた主体性の限界
児玉さんがこの欲覚を取り上げたのは、事業をやるとどうしても自分が主体になってしまうからです。営業出身ということもあり、自分が受注しようと動く癖があると振り返ります。
これをこうしてこうしてこうやって受注しようみたいなね。どうしても自分本位になってしまう。
ただ、コロナ禍にカタログギフトの需要が大きく増え、地元カンパニーの売上も伸びました。児玉さんは、それはコロナを意図的に起こしたわけでも願っていたわけでもないのに起きたことだと言います。
そこから児玉さんは、人間が恣意的にやる行為の無力さを実感します。社会の大きな動きの方が、よっぽど売上や事業に影響を与えると気づいたのです。
自分はこう、何とかできるみたいなマインドでいろいろやってたんですけど、社会の動きに抗うことはほとんどできないんだなみたいな。
児玉さんは、それを無力と思うか新しい可能性と見るかの両面があったとしつつ、自分の主体性や恣意性、狙いに寄りかかりすぎるのは良くないと最近思うと語ります。
もちろん従業員や株主などのステークホルダーには、何を狙ってどう進めるかを説明します。ただ、それがうまくいこうがいくまいが、そうではない世界もあると児玉さんは戒めます。
主体性や恣意性がない中で事業が動いていくことを上手に乗りこなさなきゃいけないよな。
日本語では受動態と能動態、主格ばかりを使ってしまうので、欲覚という視点を思い出せてよかった、と児玉さんは1つ目のポイントを締めくくります。
土井善晴の「美味しいものを作ろうとしてはいけない」
2つ目のポイントは、料理家の土井善晴さんの言葉「美味しいものを作ろうとしてはいけない」です。中島さんは土井さんと『料理と利他』という本を出しており、その繋がりから本にコメントが引用されています。
土井さんのコメントは、美味しいものや美しいものを作ろうとしてはいけない、というものです。計らいや意志を消し、黙々と仕事に没頭すると、素材が寄り添って美味しいものが現れる、という民藝的な料理観です。
自分の計らいや意志が消え、黙々と仕事に没頭する。そうすると素材が自分に寄り添い、美味しいものが現れる。
児玉さんは、自分も週の半分ほど夕飯を作るけれど、創味シャンタンやオイスターソースなど調味料を使ってしまうと打ち明けます。素材の味や声を聞くという意識は、確かにあまりなかったとドキッとしたそうです。
実家がアスパラ農家という児玉さんは、味の弱いアスパラは味付けするほど本来の味が分からなくなると例を挙げ、シンプルな味付けの良さに触れます。
狙いを薄めて相手の声をニュートラルに聞く
児玉さんは、土井さんの料理観をそのまま経営に重ねます。ビジネスもこうしよう、こうしようとばかり考えると、お客さんの反応を少数派の意見だと切り捨ててしまうことがあると省みます。
そこで大切なのは、自分の意図や狙いを薄めつつ、相手の声をニュートラルに聞くことだと児玉さんは言います。
自分の意図とか狙いをいかに薄めつつというか、持ちながらも相手の声をニュートラルに聞く。
地元カンパニーは、食品メーカーや生産者から商品を流通させる立場です。児玉さんは、お客さんの声も生産者の声も同じように聞き、狙いを薄めてニュートラルに方向転換できる状態を、会社としても個人としても保たなければならないと語ります。
土井さんのコメントには、味噌などの発酵食品は微生物がおいしさを作っているという話もあります。児玉さんは、自分で味付けしているというおこがましさを、料理を通じて中和していきたいと話します。
自分の浅ましさとかね、驕りみたいなのを中和していかなきゃいけないなというふうに思った一節でした。
「今の意味は未来から」がくれる救い
3つ目のポイントは「今の意味は未来から」です。児玉さんは、本の一節を抜き出して紹介します。
私は今の意味を未来から贈与されるのです。そのためには今を精一杯生きなければなりません。
児玉さんは、事業では「今の行動が未来の売上につながる投資」か「過去にまいた種を刈り取る行動」かのどちらかで考えがちだと整理します。種まきか刈り取りか、というわけです。
ところが利他の話では、今の行為は今実を結んでいない、ということになります。児玉さんは、そう言われると今やっていることに意味がないようにも思えると受け止めます。
ただ、これに何の意味があるのかという疑問に対して、自分でもよく分からない利他になっているという解釈もできる、と児玉さんは読み替えます。
なんでこんなことやってんのかなっていうのが今わかんなくてもいい時もあるよねみたいな、そういうポジティブな今の捉え方ができるようになるかな。
未来のための今と、今を楽しむ今のあいだで
児玉さんは、今が「未来のための今」なのか「今のための今」なのかを問い直します。高校生活を満喫するのは今の楽しみのためだが、それでは大学に受からないから勉強する、となると未来のための今になる、というわけです。
一方で、ずっと未来のための今を生きていると、今を楽しまないまま一生を終えてしまうことにもなりかねないと児玉さんは指摘します。老後のために働く、いい会社に入るために大学に行く、という使い方です。
他方で、会社経営には、これは何のためにやっているのか分からなくなる苦しい時もあります。心や体が弱ると思考も弱り、意味を見失いそうになるのです。
そんなとき、誰かの利他になっているかもしれないという知識があれば、今を乗り切れる可能性が少し増えると児玉さんは話します。
そんな時にもね、誰かの利他になるかもしれないという知識があれば、今を乗り切れる可能性は少し増えるかな。
児玉さんは、今には自分が狙った将来のための要素も、今を楽しむための要素もあるとした上で、もう1つの視点を加えます。誰かのためになっているかもしれないという淡い希望が、今を生きる救いになるのかもしれない、というのです。
目の前に没頭することが、結局は近道になる
児玉さんは、従業員や株主、家族、お客さんといった関係者のために頑張るのはもちろんだが、自分が全然意図しなかった人のためにもなっていると思えれば新しい希望になる、と語ります。ただ、そこまで思い切るのはまだ少し遠い、とも正直に述べます。
それでも、今を精一杯生きるからこそ誰かのためになる、という話です。児玉さんは、哲学書も自己啓発書も結局は「今を精一杯生きる」に帰着することが多いと言い、それは本当にそうだと受け止めます。
目の前の業務とか目の前のお客さんとかに必死に向き合う瞬間を積み重ねていくということが、まあ結果的に実を結ぶことになる。
児玉さんは、以前扱った衝動の本にも触れ、余計なことを考えずに没頭する時間が長ければ、結果的に誰かのためにもなっている気がすると話します。迷いなくできればいい、というわけです。
狙いだらけの経営に、思いがけない余白は持てるか
最後に児玉さんは、利他をビジネスの観点で考えるのは相性が悪いと総括します。会社経営には狙いや主体性、真剣さが横行しており、打ち合わせでも「お前どうしたいんだ」「何が狙いなんだ」といった言葉が多いからです。
会社経営には狙いとか主体性とか真正が横行しているので、そういう話し方が多いですし、打ち合わせでもお前どうしたいんだとかね。
それはそれで話が進んで分かりやすいと児玉さんは認めつつ、意味があるか分からないけれどやってしまうこと、身が動くようなことにも触れます。この本で使われる表現で、以前扱った衝動の本とも似ていると言います。
そうした思いがけない行動が事業に入っていると楽しいのかもしれないが、うちの会社にはまだそこまでの余裕はないと児玉さんは語ります。GoogleのようないわゆるルールもGoogleならでは、というわけです。
だからこそ、こうした余白を持つためにも、事業を堅牢にして利益が出やすい体質にすることが大事なのだろうと児玉さんは締めくくります。次回は楠木建さんの『ストーリーとしての競争戦略』を取り上げる予定です。
まとめ
『思いがけず利他』を経営者の視点で読んだ回でした。児玉さんは、利他が今すぐ実を結ばない時間の構造を持つことを踏まえ、狙いや主体性が支配する会社経営のなかに、思いがけない余白をどう持ちうるかを問い直しています。
- 純粋な利他は、与えた側も受け取った側も後から気づくもので、今・過去・未来の時制の話でもある
- ヒンディー語の「欲覚」や中動態は、人が主体的であることばかりではない状態を言い表す
- コロナ禍の売上増を通じ、恣意的な行為より社会の大きな動きの影響が大きいと児玉さんは実感した
- 土井善晴の「美味しいものを作ろうとしてはいけない」を、狙いを薄めて相手の声を聞く経営に重ねている
- 目の前に没頭し今を精一杯生きることが、誰かの利他になり、今を生きる救いになるかもしれない




