前回までの議論で何が見えていたのか?
SF作家の津久井五月さんを迎えた4週連続企画は、この回で最終週に入りました。テーマは「未来を考えることに意味はあるのか、そのダサさについて」です。
渡邉康太郎さんはまず、前回までの論点を振り返ります。津久井さんは作家として、読者の「今ここ」に働きかけたいと考えていて、小説を道具に未来を発想してほしいわけでも、未来を予測して当てたいわけでもないと話していました。
一方で津久井さんは企業相手の仕事もしており、未来を考えることで現状の課題に突破口を見出す切り口を半分は信じています。ただ、議論が現在に戻ってこられない事例を見ると、未来を安易に道具化することへの違和感が生まれるといいます。
渡邉さん自身は前回、マヤやアステカの天体カレンダーや身体改造が、四半期決算や美容整形と相似形だと指摘していました。未来でなくても、遠い過去の異文化で「今ここ」の当たり前を捉え直せるのではないか、という問題提起です。
荒木博行さんからは、参照点が遠くなるほど観光旅行のように「見学しておしまい」になり、自分たちの土地に戻りにくいという話も出ていました。さらに、フューチャーコーン ── 現在から先に広がる未来を円錐形で表し、起こりうる・ありそうな・望ましい未来などの幅を整理する考え方。未来予測やデザインの分野で使われますのように未来の幅を広げる運動も、道具の自己目的化につながりうるという指摘がありました。
違和感の正体は「方法を吟味していないこと」?
津久井さんは、問いに真面目に答えようとすると枝葉が分かれてしまうと前置きします。そのうえで、未来を考えることに意味があるとしても、「意味のある未来の考え方をしているか」が問われるべきだと話します。
僕たちがビジネスとか日常で未来未来って言ってる時は、いろんな目的とかいろんな意味合いの未来が混ざったぼんやりした概念として未来って言っちゃっていて。
(未来という言葉を)その目的とか使い方をあんまり吟味せずに使ってるなっていう感覚が、多分違和感の正体の一つかなとは思っていて。
津久井さんは「ダサさ」を2種類に分けます。方法を吟味できていないことへのダサさは分かりやすいもので、もう1つの「未来を考えること自体が孕むダサさ」は、世の中の支配的なナラティブと個人の感覚の間の問題なので、もっと難しい話だといいます。
未来の目的や使い方を考えずにワークショップなどで使ってしまう。分かりやすい意味でのダサさ
世の中の支配的なナラティブと感覚のずれに関わり、意見が分かれる。より難しい問題
役に立たない未来の空想ではいけないのか?
荒木さんはここで大前提を問い直します。「今ここに役に立たなければならない」というのは絶対的な価値なのか、という疑問です。
役に立たなくていいことっていっぱいあると思うし、必ずしもね、そのあらゆる思考が現実に役に立たなきゃいけないっていうのはちょっと窮屈な気もする。
荒木さんは、エンタメとしてSF小説を読む場合は戻ってこられなくてもよいはずだと続けます。津久井さんの問題意識が、企業がそれをやることの欺瞞にあるのか、それとも別のところにあるのかを知りたいと尋ねました。
津久井さんの答えは明確です。企業や人生の文脈で「未来を考えましょう」と言われるときには、役に立つからという含意、さらには「考えないと危ない」という含意まであります。それなのに、どう現実に作用するのかわからないままやっているのは変だ、というのが第一の答えです。
SFはそういう未来を考えっぱなしで、ボーンと広がって、じゃあ現実に何か持ち帰れるのかって言ったら限りなくほとんど何もないけど、楽しい空想であるってことは全然成立すると思ってますね。
つまり津久井さんは、フィクションとしての未来の空想そのものを否定しているわけではありません。問題は、実用を掲げながら作用の仕方を問わない使い方にあるようです。
なぜ未来は「便利な道具」に見えるのか?
津久井さんは、未来ばかりがよい道具のように思われがちな理由について、ヒントが2つあると話します。1つ目は、前回のマヤ文明の身体改造の例から説明されました。
マヤ文明について真剣に考えても、例えば日本企業の人たちはマヤ族の人たちに物を売ることができないじゃないですか。
マヤ文明について考えても、得られるのは旅行のお土産のような気づきだけです。一方で日本人のサイボーグ化について考えれば、同じような気づきが得られるうえに、その成果物を売りに行ける市場として未来が存在している、と津久井さんは見ています。
現在の行き詰まり
新しい市場をどこに生み出すかが問われる
未来を考える
現在についての気づきが得られるかもしれない
未来という市場
待っていれば到来し、気づきの成果物を売る先にもなる
津久井さんは、待っていれば到来する市場として未来が見えていることが、ビジネスにおける未来思考の素朴な前提になっているのではないかと話します。気づきの収穫先と成果物の売り先が重なっている点が、未来を特別にしているという見立てです。2つ目のヒントは複雑になるため、いったん置いておかれました。
予測なのか創作なのか、目的と手段はかみ合っているか?
荒木さんは企業現場のシンプルな見方を補います。パソコンからスマホへのようなビジネスモデルの転換を予測できたから乗れた、というナラティブがまことしやかに語り継がれているというのです。
未来を考えていたから適応できました的ナラティブ。実際どうかは知らんけど。
荒木さんは、未来を考えることで今の波に乗れるという点は必ずしも嘘ではないとも付け加えます。シェルの話が伝説として語られるのも、そうした背景からかもしれないと話しました。
津久井さんも、データや気づきから未来を頑張って予測し、それに乗れるようにするという使い方は、概念としてすっきりしていて全く結構なことだと応じます。違和感があるのは、その目的と実際の活動のずれです。
予測して適応するってことが目的なら、本当はそういうリサーチとかそういう議論をすればいいのに、回りくどい創作論っぽいワークショップをやって。
未来を予測し、変化に適応できるようにしたい
あり得なそうな未来や突飛なアイデアを考える、創作論っぽいワークショップ
津久井さんによれば、未来という概念は「僕たちが作るもの」であると同時に「不可避に到来するもの」でもあります。その性質をごっちゃにしたまま進めていることに、強い違和感があるといいます。
デザイン思考や民藝は、なぜ普及すると空洞化するのか?
渡邉さんは、自身が関わるデザインの方法論にも似た構造があると話します。デザイン思考という手法や名前がバズ的に消費され、本質的に大事な部分が抜け落ちて流通してしまうという現象です。
ポストイット使ってブレストするんでしょ?みたいな。で、なんか調査とか共感するんでしょ?とかっていう表面的なところだけ流通して、結局意味なかったねってなっちゃう人が多い。
渡邉さんは、それは道具をうまく使えていないだけで、デザイン思考そのものへの洞察ではないと指摘します。ただ、表面的に流通したことと広く普及したことは表裏一体で、SFプロトタイピングにも同じ状況があるかもしれないといいます。
渡邉さんが次に挙げたのが民藝 ── 無名の職人が日常使いのために作った工芸品に美を見出す考え方。1920年代に柳宗悦らが提唱した運動として知られていますと柳宗悦 ── 日本の思想家・美術評論家。民藝運動を提唱し、日本民藝館を創設した人物ですです。無名の職人が無心で作ったものに宿る美に名前をつけてキュレーションした瞬間、民藝を作ろうと決めた途端に無心ではなくなる、という矛盾があるといいます。
民藝っていうジャンルを作ったことによって、民藝が非常に難しくなったっていう皮肉が実はあるから。
それでも民藝という言葉やファンは今も残っています。渡邉さんはここから、手法や考え方が流布して生き残ることと空洞化することは、実はセットなのではないかという仮説を示しました。
空洞化はむしろ生産性の条件なのか?
渡邉さんはこの仮説を、自然科学の議論にもつなげます。参照したのはクーン ── アメリカの科学史家トーマス・クーン。『科学革命の構造』で、科学はパラダイムの転換によって非連続に変化するという考え方を示しましたのパラダイム理論です。
パラダイムが確立すると、科学者はもう根本を問うんじゃなくてパズルを解くっていうフェーズに入っていくんだよ。根本を問わないからこそ、天才でない多くの人がたくさんそこで働けるようになってくる。
渡邉さんによれば、クーンにとってこれは堕落ではなく、科学の生産性の条件です。悪しき使い方が広がることと普及することは切っても切れない関係かもしれない、と立ってみたときに、次に考えられることがあるかもしれないと話しました。
これに対して津久井さんは、科学のパラダイムは標準的なやり方で整理され、みんなが乗れば合意できる筋の通ったものだと応じます。しかし未来という概念は昔からぬるっと常識に染み込んでいて、同じ言葉を使いながらみんなが違う話をしているところが違うといいます。
未来っていうものについて考えるっていうのがもっともらしく聞こえることを利用して、甘い考えで未来っていうものを使った様々な思考商品みたいなものが売られちゃうっていう感じなのかもしれないですね。
ただし津久井さんは、ビジネスの倫理を真剣に憂いて「けしからんからやめろ」と言っているわけではなく、気持ち悪いと思う程度だと強調します。
思考の旅先は、なぜ未来ばかりなのか?
津久井さんがこの場で話すに値すると考えるのは、もっと深い違和感のほうです。思考を旅させる対象は旅でも人類学でも歴史でもよいのに、未来ばかりを近く感じてしまうことが疑わしいといいます。
荒木さんは、マインドフルネスやパーパス経営にも近い構造があると話します。本質的には意味があるのに、手法だけが取りざたされ、アティチュード(態度)が抜け落ちてしまうという現象です。
ツールとアティチュードを往復できるっていうことが多分本質だと思うんですけど、ツールだけが販売商品としては売りやすい。アティチュードまではすごく売りにくいから。
渡邉さんは少し違う角度から応じます。最初に作った人や深く関わる人はツールとアティチュードを行き来できているが、波紋が広がるほど減衰し、端にいる人にはツールしか届かない、というイメージです。
態度が欠落した道具っていうのは世の中には本当はないはずっていうか、態度を欠落されたツールの使い方があるだけで。
しかし津久井さんは、未来について考えようという手法の始まりに、そもそもアティチュードがあったのかを疑問視します。SF作品が気づきや態度を含むのは確かでも、それをビジネスや課題解決に向けるとき、目的や世の中への態度がどこまで考えられていたのかはぼんやりしていると感じるといいます。
未来という考え方は、実はまだ若いのか?
渡邉さんは、未来という概念そのものが近代的、現代的なものではないかと話を広げます。例として挙げたのがシナリオプランニング ── 起こりうる複数の未来像を描き、それぞれへの備えを検討する戦略手法。軍事分野で発展し、のちに企業経営にも広まりましたです。
渡邉さんによれば、シナリオプランニングは冷戦期の核戦略の中で、抜け漏れがないかを考えるための核抑止の副産物として生まれました。第二次大戦後にやっと出てきた考え方だということになります。
近代以前は終末論や反復論が中心。人間が進歩していくという考え方は途中まであまりなかった
複数ある未来、開かれた未来、計画できる未来という考え方が生まれた。ただしかなり若い
まだ人間が未来概念を使いこなせるほどの時間が経ってないみたいな。
歴史みたいなものにはずっと人は付き合ってきたけど、未来みたいなものと付き合い始めたのは、今の文脈では、実はここ100年ちょっとみたいな。
渡邉さんは、自分たちはまだ未来のバズに酔っているだけという可能性もある、と話しました。
妖精物語からSFへ、想像力の行き先はどう移ったのか?
津久井さんは、歴史の浅い未来が、信用できる架空世界として最も説得力を持っていることが興味深いと話します。ここで参照されたのが、『遊びと人間』で知られるロジェ・カイヨワ ── フランスの社会学者・批評家。遊びの分類論で知られる『遊びと人間』の著者で、幻想文学についての評論も残しましたの『妖精物語からSFへ』です。
カイヨワの議論によれば、古代や中世の妖精物語は生活のすぐ隣にあり、ちょっと山に入れば妖精がいるような、現実と非現実がぬるっとつながった世界でした。近代に科学が発展すると妖精物語は否定され、想像力の行き先は、異世界から侵入する怪奇な存在へ移ります。
さらに科学が発展すると、霊魂やヴァンパイアもいるとは思えなくなります。そこで想像力の行き先は、社会の中から生まれたテクノロジーが異界的なものに成長してしまう恐れへと移り、その先にSFがある、というのがカイヨワの論だと津久井さんは説明します。
いわゆる伝説とかおとぎ話を使って人間はいろんなことを考えたいと思ってるっていうのが多分根本にあるような気がして。
津久井さんは、想像力を飛ばす先は時代のリアリティー感覚によって変わり、ここ100年ぐらいは未来がリアルに感じやすく、思考の道具として使いやすい世の中になっているのではないかと話します。
渡邉さんは、チクセントミハイ ── ハンガリー出身の心理学者。没頭した状態を指す「フロー」の概念を提唱したことで知られますが心理学に進むきっかけとなったユングの講演を思い出します。第二次大戦後にUFOの目撃情報が急増したのは、核の危機の中で不安の向け先がなかったからだという話で、カイヨワの議論とよく似ているといいます。
未来は複数の欲望が交わる「交差点」なのか?
津久井さんは、世の中は欲望や恐れを向ける広い意味でのファンタジーを常に求めていて、ここ何十年かはその対象として未来が選ばれやすいと話します。同時に、不確実な時代には即物的な未来予知や未来への適応も求められています。
それがなんか都合よく交わるところに、その未来概念があるような感じがするっていうですかね。
その結果、安易に「未来」と言うだけで何かを考えた気持ちになりやすい、と津久井さんは見ています。渡邉さんが、未来は合理的な概念だけでなく、現実逃避や不安解消の手段とも響き合っているのかと確かめると、津久井さんは「複数の目的を都合よく重ねられる交差点」に未来が置かれていると答えました。
渡邉さんはさらに、SFが幻想と妖精物語の中間にあるのではないかと付け加えます。SFは科学的に説明できるというアリバイを持ち、自分の世界観の中で説明が成り立つため、ビジネスの世界とたまたま相性がよいのかもしれないといいます。
未来という言葉が出たとき、どう構えればいいのか?
荒木さんは時間を見ながら、当初のテーマを振り返ります。意味があるかどうかは使い方次第で、未来には安易に使われがちな引力がある、という整理です。
その安易に使うのがけしからんからやめろというふうには別に僕は思ってはいないんですけど、未来について考えることに意味はあるのかって一回考えてからやった方がいいんじゃないかっていう。
渡邉さんは、4週は問題意識をしっかり共有する流れだったと振り返り、ここからさらに語れることがありそうだと話します。よい宿題を受け取った気持ちで、自身のデザインの仕事にも重ねながら聞いていたといいます。
荒木さんは、自分もリスナーの大半も、SFプロトタイピングへの問題意識はゼロだったはずだと話します。だからこそ「なるほど」と思えて、とても勉強になったと感想を述べました。
最後に津久井さんが締めくくります。「未来について考えよう」は素朴に流通していて、その通りだと思えてしまうからこそ、都合よく人を操作する場面でも使われやすいといいます。
津久井さんは、はっきりした答えや結論は導けていないとしつつ、ちょっとおっと思って構える姿勢を大事にし、2人からもらったヒントをもとに考え続けたいと話しました。
まとめ
この回では、未来を考えること自体を否定するのではなく、目的と方法を吟味しないまま未来を使ってしまうことへの違和感が掘り下げられました。デザイン思考や民藝、クーン、カイヨワまでを行き来しながら、未来がなぜ特別視されるのかが浮かび上がります。
- 違和感の中心は、予測・創作・市場といった異なる目的が「未来」という言葉の中で混線していること
- 未来は、気づきの収穫先と成果物の売り先が重なるため、ビジネスで便利な道具に見えやすい
- 手法が普及するほど態度が抜け落ちて空洞化する現象は、デザイン思考や民藝にも見られる
- カイヨワの議論によれば、想像力の行き先は妖精物語から怪奇小説、そしてSFへと移ってきた
- 「未来を考えよう」と言われたら、一度構えて目的を問い直すことが大切だと津久井さんは話す



