AIで会社の仕組みを「全部ひっくり返す」夏
冒頭は、岡島さんが今取り組んでいる会社の仕組みづくりの話から始まります。会計からタスク管理まで、AIを使って全体を作り直している最中だと語ります。
ひっくり返してて死にそうです、もう。
玉置さんは、規模が小さいうちにやるほうが楽だと応じます。それに対して岡島さんは、AIとの会話の中でタスクを自動で拾い、完了したものが下がっていく仕組みが理想だと話します。
ただ、毎日何時間もAIと会話を続けるうちに、AIが書くメモにもミスが出てきたといいます。終わったと伝えた作業が「まだ」と表示されるようなずれが増えたため、人間とAIが一緒に見られるタスクボードを作ろうとしている最中だと語ります。
いいじゃないですか。なんかあの、夏休み感がして。
もっとも、顧客は全員夏休みなしで働いている人ばかりだと岡島さんは苦笑します。玉置さんは「キリがないですよ、もっともっとが出てくるので」と、作り込みに終わりがないことを指摘しました。
サブスクをAIに毎月チェックさせる習慣
この番組で玉置さんに言われたことをきっかけに、岡島さんの行動が毎週少しずつ変わっているといいます。最近報告したのは、サブスクの見直しでした。
会計ソフトのfreeeに連携している明細をAIと組み合わせ、毎月の明細を読ませて「このサブスクは本当にいるのか」と問いかけてくる仕組みを作ったと語ります。
一気にいろんなサブスクで、なんか漠然と登録してたやつとか切りまくって、結構いいんですけど、ちょっとずつそういう風に、行動が変わっていったりもしてますね。
ここから話題は、この回の本題である「自由とは何か」へと移っていきます。
選択肢が多いことは、本当に自由なのか
玉置さんは、一般的に自由とは「選択肢が多いこと」「あれもこれも選べる状態」とイメージされがちだと切り出します。責任を考える人は、そこから一歩進んでいるといいます。
岡島さんは自分について、会社を好きにひっくり返せることや、合わない仕事をすぐ辞められることを自由だと感じつつ、そこには責任が伴うと話します。
玉置さんは、選択肢の多さを裏返して見せます。転職しようとすれば求人は何百万件、Netflixに入れば映画やドラマは何万本。今は人類史上もっとも選択肢が多い時代だと指摘します。
何万件の求人案件を見た時に、「自由だ」って感じるよりも、「どうしたらいいんだろう」って感じる方が多いんじゃないですかね。
逆に、選択肢がほとんどない状況では自由をまったく感じないのか、という問いも投げかけます。
例として挙げるのは、独身時代は自分の時間を100%自分で決められた人が、結婚し子育てが始まった瞬間に、自分のための時間がほぼゼロになるケースです。自由はなくなったように見えます。
じゃあその子供なんか産まなければよかったみたいな不幸かっていうと、またそれもちょっと話違いますよね。
自由がないのに、それほど不幸ではない。逆に無限の自由があった独身時代が、幸せだけの状態だったわけでもない。こうして玉置さんは、自由が選択肢の多さや選べることではないとしたら何なのか、という問いに行き着きます。
「哲学する」とは、深く考えること
玉置さんは、夏休みなので少し哲学的に話したいと切り出します。ただし専門家ではなく、自分が考えることを哲学と呼んでいるだけだと前置きします。
岡島さんが哲学の意味を調べると、「世界や人間、生き方などの根本的な問いを理性の力でとことん考える学問」と出てきました。
そもそもこれって何でだろうって考えだしたら、もうほら、哲学でしょ。
玉置さんは、いにしえの高名な哲学者の理論を深く知ることが哲学なのではなく、考えることそのものが哲学だと語ります。その姿勢で「自由」について考えたいと述べました。
自由とは、自分の選択を「引き受ける」こと
玉置さんは、以前の回で話した「引き受ける」というテーマを持ち出します。自分がその選択をしていなくても引き受ければいい、という考え方でした。
その話を深めていくうちに、テーマは「自由について考えること」と同じだと気づいたといいます。自由とは、自分の選択を自分のものとして引き受けられることという考え方の系譜が実はあるのだと語ります。
これはAIに自分の考えを延々と述べ、同じことを言っている哲学者はいるかと尋ねて分かったことでした。その哲学者になりきってもらい、議論する試みをしたといいます。
その私が言っている内容と同じことを言っている哲学者はいますか?みたいな感じで聞いたんですね。
AIとの議論では、自分の考えの弱い部分や矛盾も見え、どの哲学者と一致しているかも分かるといいます。ここで最初に名前が挙がったのが、哲学者フランクフルトでした。
依存症の人は自由か、という問い
玉置さんが紹介したフランクフルトの議論は、依存症を例にとります。薬物依存の人は、欲しいという自分の気持ちに従って行動しており、誰にも強制されていません。その意味では自由な状態です。
しかし、私たちはその人を自由で幸せそうだとは思いません。玉置さんは、その理由をフランクフルトの言葉で説明します。
本人が心の中でこんなものを欲しがる自分でいたくないっていう否定があるからだっていうんですよね。
つまり、自分の欲望や願望に対して自分がOKを出せているかどうかが、自由の分かれ道だという考えです。願望が実現できていても、それを自分が認めていなければ自由ではないといいます。
玉置さんは、ダイエットのためにケーキを我慢して野菜を食べている人と、心から野菜が好きで食べている人を対比します。外面的な行動は同じ「野菜を食べている人」ですが、自由度はまったく違うと語ります。
自分の願望を自分で認めており、自由な状態
ケーキを望みながら抑え込んでおり、自由を感じない
玉置さんは、この「引き受ける」に対応する英語はownだと補足します。所有する、自分のものにするという意味で、仕事や状況のオーナーになることだと説明します。
やらされ仕事なのか、自分で選んだ仕事なのかが同じ内容でもやっぱり疲れ方変わっちゃうじゃないですか。
「私」は選択のたびに作られていく
続いて玉置さんは、現代アメリカの哲学者クリスティン・コースガードを紹介します。彼女と自分の考えが一致するのは、「私」は最初から完成している存在ではなく、何かを選択するたびに作られていくという点だといいます。
玉置さんは会社を例にします。登記した瞬間に会社は存在しますが、設立時点では社名だけで、会社らしさはありません。社長が意思決定と行動を積み重ね、10年経って初めて会社らしさが振り返って見えてくるといいます。
人間も同じで、「私らしさ」という実体が最初からあるのではなく、日々の選択と行動の積み重ねで現在進行形で作られていく。だから引き受けることが自分らしい生き方につながる、という点まではコースガードと一致していたと語ります。
衝動に流された時間は「誰の行為でもない」のか
ここでコースガードの結論が、玉置さんにとって衝撃的だったといいます。彼女の言う選択とは、自分の信念や理性に従った、しっかりした選択を指します。
では、感情的に選んだことや、選べなかったこと、ショート動画を見ていたら1時間経っていたようなことはどうなるのか。岡島さんは「Googleの操り人形になっているような感じ」と表現します。
選んだ主体がそこにいないから、これは「天気が変わったのと同じで、ただの出来事だ」って言うんですよ。
コースガードにとって最悪の事態は、悪人になることではなく、衝動に流され続けて「私」というものが溶けてなくなってしまうことだといいます。
岡島さんも、そうなるのが怖いという感覚は分かると応じます。ただ玉置さんは、この結論はあくまで自分がAIに降臨させたコースガードの主張であって、本人の見解そのものではないと断っています。
理性だけが「私」なのか、体が動く行為に人らしさが出るのか
コースガードの理屈では、「私」は理性がちゃんと考えて選んだものだけでできていることになります。これに反論したのが、近年のイギリスの哲学者バーナード・ウィリアムズです。
感前に体が動いた行為にこそ、その人らしさが出るんじゃないのっていう考えなんですよね。
ウィリアムズが挙げる例は、自分の子供が他の子供たちと一緒に溺れている場面です。多くの人は「自分の子供を最初に助けるのは正しいか」などと考える前に、まず飛び込む。むしろ正しさを考えているほうがおかしいといいます。
玉置さんは、理性で統合された部分だけが私で、それ以外はただの出来事だとするのは違和感があると語ります。情熱や愛情など理性の外の部分があって初めて、その人の人格の全てになるというウィリアムズの考えのほうがしっくりくるといいます。
岡島さんは、やる気が出ず昼寝ばかりして自堕落に過ごした日を「あれは僕じゃない」と切り捨てると、かえっておかしくなる気がすると応じます。
選び直してもいい。「後から引き受ける」という考え方
玉置さんは、自分の立場を整理します。よく理性的に考えたら自分らしいとは言えない選択を、私たちはたくさんしています。面倒だから選んだ、人の目を気にして選んだ、といった消去法的な選択も含めてです。
そうした選択を「ただの出来事だ」「私ではなかった」とするのではなく、少し時間を置いてからでいいので、後から考えて引き受ければいい、というのが玉置さんの考え方です。
やっちゃったんだけど、不本意だったんだけど、でも引き受けるなんですよね。
さらに、引き受ける以外に「変える」「やめる」という選択肢もあると語ります。1時間ショート動画を見てしまったなら、これが私かと引き受けてもいいし、やめてもいい。やめる・変えるという判断自体が、理性的な選択だといいます。
ちょっと寄り道したかもしれないんですけども、その自分らしい人生を歩む道に戻ったと思うんですよね。
岡島さんは、違うなと思うことをやってしまう自分も、これは嫌だから変わりたいと思う自分も、どちらも自分とした上で変わっていける、と受け止めます。
玉置さんは、自分が選んだこと・やりたいことを自分で認めることは、自由の条件として絶対に必要だと改めて述べます。ちゃんと選び直して「よかったね」と言えばいいだけの話だといいます。
選択肢は少なくても、引き受けた瞬間に自由になる
玉置さんが「引き受ける」を語るときの前提は、そもそも思うようには選べない、という現実です。求人メディアに膨大な選択肢があっても、「50代で主婦しかやったことがない」人にとっての選択肢は少ないと例を挙げます。
ある選択肢を選ぶしかない状況でも、選べなかったことも含めて、自分で引き受けた瞬間にそこは自由になるというのが玉置さんの見方です。選択肢の多さが自由なのではないと繰り返します。
関連して、玉置さんはストア派を紹介します。自分の力が及ぶものと及ばないものを分け、力が及ぶところに全力を注ぐという考え方で、これが「ストイック」の語源だといいます。
選べなかった選択肢に執着するのは、自分の力が及ばないものへの執着です。そうではなく、選んだものを引き受けて全力を注ぐことが、自由であり幸せへの道だという考え方だと語ります。
皇帝マルクス・アウレリウスとニーチェの問い
玉置さんは、ストア派を実践した人物として、ローマ五賢帝の最後にあたるマルクス・アウレリウスを挙げます。皇帝として全権を持ち、命令一つで人が死ぬような力を持っていた人物です。
その彼が残したのが『自省録』で、自分の内省ばかりを書いた日記のような書物だといいます。他者を動かす力を誰よりも持ちながら、自分にできること、自分がどう考えるかに全力を注いでいたと語ります。
続いて玉置さんは、ニーチェの思考実験を紹介します。今の人生がそっくりそのまま無限に繰り返されるとしても、もう一度この人生をと言えるか、という問いです。
問い
今の人生が無限に繰り返されても、もう一度これでと言えるか
条件
幸運も不運も、偶然も意思も、全部含めての人生
鍵
人生を引き受けているかどうかで、答えが変わる
岡島さんは、自分は言えると思う一方、むちゃくちゃな不幸に遭ったことがないので、そうなった時どうかは分からないと正直に答えます。
他に選択肢があったはずだとか、私の人生ではないっていう風に思っていて、要は引き受けてなければ、これイエスって言えないと思うんですよね。
人生を「ただの出来事の寄せ集め」と捉え、しかも大して良くもないと思っていれば、もう一度これをやりますかと問われて「私の人生じゃない」となってしまう。だから引き受けることが、自分の人生や自分自身を肯定することにつながるといいます。
言葉は現実を単純化する。だから考え続ける
岡島さんは、契約書がなぜあの「甲乙」のような硬い書き方になるのか調べたことがあると話します。法学部出身の玉置さんは、その理由を明かします。
契約書の文章っていうのは最も解釈の余地を狭めたらああなるんですよ。
解釈の選択肢が広いと係争の巣窟になるため、解釈の幅を狭めていくと、あの文体になるといいます。玉置さんは、これは哲学にも通じると語ります。言いたいことをピンポイントで的確に伝えようとするほど、表現は分かりにくくなるのです。
人間は抽象度の高い一般論のほうが分かりやすい。「選択肢が多いことが自由だ」という言い方は、多くの人が理解できる代わりに、本当に言いたいことからはずれてしまう、と対比します。
玉置さんは、自分がやったようにAIで複数の哲学者を降臨させ、自分の考えにぶつけていくやり方を、セルフでやる哲学カフェのようだと表現します。人の考えを聞いて、自分の考えを深めたり修正したりしていく営みだといいます。
最後に玉置さんは、言葉には必ず危うさがあると釘を刺します。現実は言葉一つで表せるような単純さはないのに、言葉で論じる時は必ず単純化してしまうからです。その自覚を持たなければ、現実とどんどん乖離してしまうと語ります。
そこにこう危うさを忘れてしまったら、現実とどんどん乖離してしまうので、やっぱそこの危うさっていうのを持っておくにも、哲学的に考えるみたいなことは絶対必要だと思ってるんですよね。
岡島さんも、変化の大きい時代だからこそ、考えていかないと前提がどんどんひっくり返されると応じます。
自由の四象限で、自分の状態をメタ認知する
玉置さんの問いに対して、岡島さんは自由の定義が自分の中で整理されて面白かったと振り返ります。望んでいるか望んでいないか、それを認められるか認められないか、という軸で捉えられるようになったといいます。
岡島さんは、今の自分がどの状態にあるかを目で見て把握できることが、メタ認知に効くのかもしれないと語ります。玉置さんも、自分の人生をどう認知するかの視点が増えると応じました。
ちょうど選択肢が多くて悩んでいた岡島さんは、今回の話が今の自分にドンピシャだったと述べ、また行動が変わりそうだと締めくくります。
まとめ
自由は選択肢の多さではなく、自分の選択を認め、引き受けられるかどうかで決まる、という視点を複数の哲学者の考えから掘り下げた回でした。選べなくても、後から引き受けたり選び直したりすることで、自分の人生を自分のものにしていけると語られました。
- 選択肢が多いこと自体は自由とは限らず、多すぎて動けなくなることもある
- フランクフルトによれば、自分の願望に自分でOKを出せているかが自由の分かれ道
- コースガードは「私」は選択のたびに作られると考えるが、理性の外の行為も人らしさだと反論もある
- 選択肢が少なくても、選んだものを引き受けて全力を注いだ瞬間に自由になる
- 言葉は現実を単純化するため、その危うさを自覚しながら考え続けることが大切


