梅シロップから始まる「複数の居場所」の話
話の入り口は、中島晋也さんのもとに届いた3キロの梅でした。梅シロップにしたというその梅は、大学時代の一つ上の先輩が収穫したものだといいます。
梅シロップにしたんですよ。いっぱいのハチミツに漬けてですね。
その先輩、伊藤洋志さんとは、国際交流を行うAIESECというサークルで知り合った仲でした。伊藤さんが現代に着物を流行らせるという「サークル内サークル」を立ち上げ、そこで一緒に活動していた、と中島さんは振り返ります。
伊藤さんは、修士課程を経ていったん企業に就職したものの早々に退職し、いまは「ナリワイ」と称した複数の手仕事を組み合わせて、生計を立てているといいます。
伊藤さんの働き方は、季節ごとに各地の農家へ出向いて収穫を手伝う「遊撃農家」を軸に、モンゴルやタイでの体験型ワークショップの企画、床張り、現代版の作業着づくりなど、多岐にわたるものです。
(伊藤さんは)一つの企業に所属してるわけじゃないので、いろんな仕事を営んでいて、コロナなどで何かが出来ない時期があったりしても、そのポートフォリオがいっぱいあるんで、生活には困らないんです。
一つの組織に縛られず、流行に左右されにくい生き方をする伊藤さんについて、中島さんはその著書も読み、生き方に感心したと語ります。神田大介さんは、それには相当なセンスが必要だと応じました。
読んですごいなと思いつつ、真似できねえなと思いつつ。
仕事も居場所も複数持つ、という考え方
中島さんが特に注目したのは、伊藤さんが2021年に出した「イドコロをつくる」という本でした。仕事だけでなく、居場所も複数あった方がいいという内容です。
会社と家庭しか所属先がないと、そこで何かうまくいかなくなったときに自分の存在が非常に辛くなる、というのが伊藤さんの問題意識だと中島さんは説明します。
イドコロをなるべく複数持つ。公園のベンチみたいな、そういう小さなところでもいいから、5個6個自分のイドコロを作ると、のびのび生きられるよ、みたいな。
この「複数のイドコロ」という考え方を、中島さんは最近のポッドキャストのコミュニティに重ねて見ていると言います。一つの場所でうまくいかなくても、別の場所では自分を肯定できる、という発想です。
神田さんも、ポッドキャストを「場」として展開できないかとずっと考えていたと応じます。そのうえで、自分の中で鍵となるキーワードは「他者性」だと切り出しました。
神田さんが理想とするのは、家族や同僚など簡単には離れにくい関係とは違う距離感です。それらには良さもあると認めつつ、離れにくさが課題だと語ります。
(家族や同僚は)離れようと思うとベリベリベリって力入れないと剥がれないから、離婚とか大変なわけじゃん。
神田さんが求めるのは、サラッとしていて深入りせず、離れるときにはすっと離れられる関係です。現代社会では、そうした形でしか人と繋がれないのではないかと述べます。
一方で、家族形成への負担感を感じて結婚や出産を選ばない人が増えているのだとしても、人は他者との繋がりなしには生きていけない、というのが神田さんの立場です。
シングルの人も他者と関係性は持ちたいと思うだろうし、それが推しとペットだけだとやばいと思うんだよね。
「一線を踏み越える人」をどう防ぐか
神田さんが最大の課題と考えているのは、参加者同士が粘着質にならないようにする方法です。関係を保つには、互いに他者であり続けることが一番大事だと考えています。
その例として神田さんは、ポッドキャスト界で長年活動するトッキンマッシュ主宰のSHIBUさんから聞いた話を挙げます。
(SHIBUちゃんの)長年の盟友であるケンちゃんとかノブちゃんでも聞かないようなデリケートなことを、普通に聞いてくる人がやっぱりいる。
そうした「一線を踏み越える人」が現れると、その場が家族やパワハラ上司と同じものになってしまう、と神田さんは危惧します。この境界をどう守るかが、いまの一番の課題感だと語りました。
これ、めちゃめちゃ難しいですよね。
セカストに学ぶ「お金で一線を引く」発想
この難問に対し、奥山晶二郎さんは「お金じゃない?」と切り出します。関係をサービスとして定義してしまえば、求められる範囲も決まるのではないか、という発想です。
奥山さんが引き合いに出したのは、以前聴いたポッドキャストで語られていた、メルカリとセカンドストリートの対比でした。
奥山さんは、メルカリなどの個人間取引は、共感し合えれば幸せな取引になる一方、値下げ交渉などのやり取りを負担に感じることがある、と自身の感覚を語ります。
(メルカリは)基本なんか値下げ不可って言っても値下げしてくるやつとかがいて。全部自分で対処しなきゃいけない。
これに対し、セカンドストリートは店舗での買い取りをビジネスとして完結させてくれるため、そこにメンタルを使う必要がない、というのが奥山さんの見立てです。
店員さんが笑顔で対応して、笑顔だけど全く交渉の余地がない値段を提示され、同意するなら同意、ダメだったらまた笑顔でさよならをする。
役割とルールをお金とともに明確に定義すれば、心理的なリソースを割かずに済み、一線を引けるのではないか、と奥山さんは整理します。中島さんも、その価値にはお金を払う意味があると同意しました。
お金とルールで、距離感は保てるか
中島さんは、お金を払えば関係に線引きができるという考えに理解を示す一方、キャバクラやホストクラブなど、金銭を介した関係でも、相手との距離感が曖昧になるケースはあると指摘します。
話題は、アイドルや配信者など、ファンとの距離が近い活動にも広がりました。お金を使ったことで、相手との関係に特別な期待を抱いてしまうケースもあります。
奥山さんは、こうした期待の行き違いを減らすには、提供するサービスの範囲やルールを明確にすることが大切なのではないかと話します。
どっちかというとお金を払ってルール化させた方が、何かしらトラブルは少なさそうだなっていう気がします。
ではポッドキャストで具体的に何にお金を取るのか、という中島さんの問いに、奥山さんもすぐには答えを出せません。奥山さんはむしろ「順番が逆」だと言います。
農家のお手伝いみたいな、まずそういった営みがあって、それを補完するチャンネルとしてポッドキャストがあれば、自ずとルールができていく気がします。
宇野常寛さんが語る「マネタイズできないから健全」という逆説
ここで中島さんは、批評家・宇野常寛さんのポッドキャストでの発言を引用します。
その番組で語られていたのが、ポッドキャストはマネタイズがうまくできないことが、逆説的に価値になっている、という見立てでした。
ポッドキャストはマネタイズがうまくできないのが、ある意味、価値になっていると。逆説的に。
マネタイズしやすくなれば、収益を目的とした参入が増え、いまのポッドキャストの空気が変わる可能性がある、と中島さんは説明します。逆に、いまは稼ぎにくいからこそ、発信そのものを目的とする人と、それを楽しむ聞き手が集まりやすく、そのことが場の健全さにつながっているのではないか、という見立てです。
音声だから安心感が醸し出されると言ってたのが、実はマネタイズができなかったから安全だっただけではないか、と言っているんですね。
そのうえで宇野さんが示すのは、ポッドキャストを収益源そのものにするのではなく、複数の生業の一つとして位置づける「百姓」的なあり方です。
冒頭の伊藤さんが複数の手仕事で生きるように、ポッドキャストをメディアの一つとして位置づけ、そこで生まれるコミュニケーションを別の収益活動につなげていく、という発想です。神田さんは「それじゃん」と反応しました。
界隈化を避ける「アソシエーション」という発想
中島さんは、宇野さんが文学批評やコンテンツ批評からキャリアを始めたことにも触れます。宇野さんは、知り合い同士の優しい批評のし合いなどによる「界隈化」によって、真剣な読者が萎えていったことを目の当たりにし、批評の対象を空間や都市へと移していったとのことです。
だからこそ宇野さんは、ポッドキャストも同じように界隈化してしまう危うさがあると懸念している、といいます。
神田さんは、これを自身の言う「ねっちょり」と重ねます。関係が濃密になりすぎて、閉じた方向に向かう危険があるという認識です。
ねっちょりしちゃうんだよね。
中島さんは、宇野さんが「コミュニティ」ではなく「アソシエーション」という言い方をしていたと紹介します。強い仲間意識や同じ物語を共有するのがコミュニティだとすれば、それとは異なる関係のあり方です。
立場は違う、ナラティブも違うんだけど、一緒に仕事しようねとか、一緒にこういう議論をしようねっていうことには向き合う。ただしコミュニティではなくアソシエーションだ。
もっとも、立場もナラティブも違う相手と喧嘩せずに向き合うことは、誰にでもできるわけではない、と中島さんは付け加えます。自分も含めてレベルの高い話だ、という実感です。
同じナラティブや強い仲間意識を共有する。界隈化・ねっちょり化しやすい
立場もナラティブも違うが、ルールや目的に合わせて喧嘩せずに関わる関係
給湯室が示す「遠くて薄いつながり」
神田さんに問いを振られた奥山さんは、「給湯室ってことかね」と切り出します。本業は別にあり、給湯室自体はなくても困らないが、あることで生まれるものがある、という発想です。
奥山さんは、新聞社に戻ってから当番編集長として缶詰めになる日に、給湯室で交わす短い会話を例に挙げます。
お弁当をレンジで温める3分の間に「お互い大変ですね」っていう、何の意味もない会話。
神田さんは、その一見しょうもない会話こそが大事なのだと応じます。奥山さんが4年ぶりに今の職場に戻った際、顔と名前が一致しない相手を再確認できた、というような潤滑油の役割です。
ただし、給湯室からはお金が生まれない、と奥山さんは指摘します。神田さんは、そもそも給湯室はマネタイズの合間の時間なのだから、稼げなくて当然だと返します。
稼ぐ場所と、自分のアイデンティティや存在理由(レゾンデートル)の場所は別ではないか、というのが神田さんの見立てです。個々の報道行為もまた、一つ一つが直接収益と結びつくわけではないという点で似ていると中島さんも応じました。
消えゆく居場所と、定年後のメンタル問題
神田さんは、仕事と趣味が重なりすぎている人が新聞記者に多いことを問題視します。仕事は自分の時間を金に変える行為であり、それとは別のものが必要だ、という考えです。
特に日本の男性には、仕事と家族以外の居場所を持たない人が多いと神田さんは指摘します。奥山さんは、それは「持たされなかった」のだと補足しました。
定年退職した後、なんか廃人みたいになってる人を俺は知ってるからね。
定年後に居場所がなくなり、メンタルがやばくなる。だからこそ、定年後に居場所を探し始めるのではなく、ふだんから複数の場所に所属しておいた方がいい、と中島さんは提案します。神田さんは、むしろそちらが人生の軸だと応じます。
神田さんは、遠くて薄いつながりを生む場所がどんどん失われている、とも述べます。かつてのような麻雀やゴルフなどを通じた社交の機会が減り、その機能が代替されていないという指摘です。
喫煙所コミュニティが濃厚である一方、それが持っていた機能を、喫煙者以外にも開かれた形でどう引き継ぐかが課題になります。
世の中がさっぱりしてきたことを、ホモソーシャルが嫌いな神田さん自身は歓迎しつつも、それだけでは生きていけない現実にも向き合わざるを得ない、と語ります。
自民党がなんで強いのかっていったら、ホモソだから。みんなホモソに入りたいんだよな。
神田さんの居場所と「80点でいい」という効率
奥山さんは、神田さん自身のバランスを尋ねます。神田さんは、仕事にやる気がなく、家族、特に妻とねっちょりしていると率直に答えます。
しかし中島さんは、神田さんのアウトプット量を知る立場から、とても最小限とは思えないと反論します。これに奥山さんは、アウトプットとやる気は比例しない、とすかさず補足しました。
神田さんは、その理由を効率の良さに求めます。8時間かける編集を、割り切ることで大幅に短縮できるという説明です。
もっとも神田さんは、それも6年続けて上手くなっただけだと付け加えます。記者1年目は何でも時間がかかるのと同じ理屈だ、という自己分析です。
一方で、居場所が家庭一本になっている点については、あまり良くないかもしれないと神田さんも認めます。伊藤さんのように複数を回すのは、アーティスティックで真似が難しいと語りました。
(居場所は)2つでギリギリ、3つできれば上々って話だと思うんだよね。
「ダサみ」と「対等さ」——居場所づくりの壁
奥山さんは、居場所づくりにはビジネスチャンスがあると見ます。ただしサークル系の活動には「ダサみとの戦い」があると指摘します。
主体的にそば打ちするんだったらいいけど、なんか「そば打ち…はいはい」みたいな感じになる。
そば打ちをしたらいい、と思っても一歩踏み出せない背景には、公民館的なイメージや、個人主義がかっこいいとされる価値観がある、と三人は分析します。
仕事や家族は、居場所を持たないことの「問答無用の言い訳」になる、と奥山さんは言います。それ以外に、かっこいいと思える居場所へのニーズは潜在的にありそうだ、という見立てです。
神田さんは、その鍵は「対等な関係」だと強調します。誰かを中心とする上下関係では権威や金銭が介在しやすいが、対等だからこそ純粋に楽しめる、という考えです。
俺が超相対性理論とかに出て楽しいのは、対等だから楽しいわけよね。
そば打ちも、師匠がいなければ互いの打ち方を情報交換するWin-Winの場になり得ます。給湯室で別の部の人と話せるのも、そこに上下関係や利害が発生しないからだ、と神田さんは整理しました。
中島さんは、給湯室では偉い人にも若手にも態度を変えないフラットさが保たれる点を挙げます。喫煙所と違って開かれている、という奥山さんの指摘も加わりました。
批評から考察へ——AIに組み敷かれない対話
中島さんは、宇野さんが「昨今は批評が廃れて考察が流行っている」と語っていたことを紹介します。偉い人の本を堂々と批評する姿勢が廃れ、その人の隠れた「答え」を探る考察が主流になった、という指摘です。
権威の人の答えが絶対で、それを知りたい、知れて喜ぶ、っていう考察の方が流行っちゃってる。
神田さんは、この受動的な姿勢こそが危ういと考えます。大学の講義で誰も質問しない光景と地続きの問題だという見方です。
そのうえで神田さんは、AIの時代にこそ危機感を強めます。答えを口を開けて待つだけの姿勢では、人類はAIに組み敷かれてしまう、という懸念です。
奥山さんは、宇野さんが著書『庭の話』で示した、プラモデルのように利害なく自分を極める営みに触れます。給湯室的なつながりも、そうした個人の営みから生まれるのではないか、という問いかけです。
宇野さんの一方的な語りと、対話に必要な優しさ
神田さんは、宇野さんの議論には全面的に感心しつつも、番組での宇野さん自身のコミュニケーションは一方的だと感じたと率直に語ります。聞き手のメチクロさんが気の毒に思えたというのです。
自分を突き詰めることに長けた人は、必ずしも対話が得意とは限らない、という指摘です。神田さんは、それは宇野さんが頭の良い人だからこそ起きることでもあると理解を示します。
弁の立つ人同士の対決を眺めるヒエラルキーが良いのか、という疑問を中島さんも共有します。参加してもらうには、もう少し優しさが必要だ、というのが神田さんの結論です。
対話ってキャッチボールだから、「メチクロさんはこの辺どう思いますか?」って振ってあげてほしいわけ。
神田さんは、天才個人型の人が周りを不幸にしがちな面にも触れます。壺を何個も割って納得しない芸術家のような姿勢は、他者を巻き込む場づくりとは相性が悪い、という見方です。
「ビジネス祭り」と、遊びとしてのポッドキャスト
三人は、粘着質にならずに正常な距離感で人を取り持つ場の具体例を探します。奥山さんは、企業の技術者が変わったお題に挑むNHKの「魔改造の夜」を例に挙げました。
そこで浮かんだキーワードが「遊び」です。あまりにみんな仕事をしすぎているのではないか、と神田さんは問いかけます。
遊びに「生産性」とか言われたら、それは遊びじゃなくなるじゃないですか。
そこから話は、ポッドキャストが社内で「遊び」と見なされている現実に及びます。神田さんは、TikTokやポッドキャストを「やらされている」と嘆く記者の姿勢を批判します。
ショート動画も音声も、報道の一つの形として取り組むべきものなのに、その本質を理解しない声がある、という指摘です。
(TikTokは)やらされてねえよ。ショート動画を通して新聞報道もやらなきゃいけないっていうことなのに。
一方で中島さんは、視点を反転させれば「ポッドキャストは遊び」という評価はむしろ正解ではないか、と提起します。遊び感覚があるからこそ、面白がってチャレンジするモードが生まれる。神田さんもそれを認めました。
承認欲求と、居場所を「分ける」という結論
神田さんは、居場所問題がこれから大きなテーマになると見通します。奥山さんは、SNSでマウントを取るおじさんを見るにつけ、国として喫緊の課題だと応じました。
空港ラウンジの利用やマイル修行のような趣味も、同じ立場の者同士なら情報交換のコミュニティになり得ます。しかし、それだけでは満たされない「見せつけたい」欲求がある、と二人は分析します。
(見せつけた時には)そのコミュニティ外からの承認が欲しい。
人間の浅はかさや自己顕示欲を認めたうえで、神田さんは全体を貫く結論に至ります。すべてを同じ場所で求めるから良くないのだ、という整理です。
家族的なコミュニケーションを会社で求められるのが一番嫌いだ、と神田さんは言います。すべてを一つの場所に集約したことが高度経済成長を支えた一方、いまはその遺産を食い潰している、と奥山さんは締めくくりました。
まとめ
他者との適度な距離感をどう保つか、という問いを軸に、複数の居場所、お金による一線の引き方、宇野常寛さんの「アソシエーション」論、給湯室的なつながりまでが語られました。結論は、すべてを一つの場所で求めず、ねっちょりした関係とさらっとした関係を場ごとに分けることの大切さでした。
- 仕事も居場所も複数持つことで、一つがうまくいかなくても別の場所で自己肯定される
- 関係のルールをお金とともに明確に定義すると、心理的負担を減らして一線を引きやすくなる
- マネタイズしにくいことが、逆にポッドキャストの健全さや安心感を支えている面がある
- 同じ物語を共有する「コミュニティ」より、立場が違っても関われる「アソシエーション」が理想
- すべてを一つの場所に求めず、濃い関係とさらっとした関係を場ごとに分けることが鍵になる







