IT系以外でこだわっている道具は、たぶん革製品です
同じおハガキのコーナーで、こだわっている道具は何かと聞かれたので先に少しだけ。
IT系ならキーボードなんですが、それ以外だと私は多分「革製品」ですね。
キャメル色の革がすごく好きで、昔は小銭入れ、物理Suicaのパスケースなんかをオイルを塗って長く使っていました。
中でも名刺入れは2003年ぐらいから使っていて、革も柔らかく肌に馴染んでいて、思い入れがありました。
それが先月、韓国に仕事で行ったときにどこかで忘れてきてしまって。翌日探してもなくて、本当にショックでした。
そのうえパスポートまで一瞬なくしたと勘違いして真っ青になって(結局カバンの中にあったんですけどね)、名刺入れを探す余裕すら失っていました。
結局見つからず、新しいのも革のものを買いました。これからまた育てていこうと思っています。
「必死になれ」に噛みつく前に、人は人でしょと思うんです
さて、本題の「命がけで勉強しろ」問題です。
まず私が「どっちでもいい」と言うのは、人は人でしょというのが前提にあるからなんです。
これはSNSで文字になったことの難しさだと思っていて、人は自分が読みたいようにしか読まないんですよね。
だから部分的に切り抜いて、自分の気持ちで解釈を変えてしまう。どう書いたって賛否は出ます。
「命がけでやれ=死ねってことか」と受け取る人もいれば、「それぐらいの覚悟でやれということだ」と受け取る人もいる。
そもそも「必死」も「命がけ」も、絶対値のない、すごく定性的な言葉なんですよ。
私にとっての必死と、あなたにとっての必死は違う。だからその言葉尻に噛みつくのは、私はやめた方がいいと思っています。
自分に合わないなと思う投稿は、全部無視したらいいんじゃないかと思うんです。
私が使っているのは「タレント」であって、才能ではないんです
おハガキには、私の働き方は真似できない、というようなことも書かれていました。否定しているわけではないと。それはちゃんとそう受け取っています。
そのうえで言うと、私は自分の「タレント」を使っているだけだと思っているんです。
何のタレントかというと、体が丈夫だということ。たまたま母が私を頑丈に産んでくれた、その能力を使っているだけなんです。
100メートルでウサイン・ボルトが肉体的な能力と努力を重ねて世界一になったとして、それに「才能を使ってずるい」とは言わないですよね。順位を決めるものは全部そうなってしまう。
むしろ私は、ディレクターとしての才能はそんなにないと思っています。時間でカバーしている方なんです。
若い頃は本当にコンプレックスでした。20代でセミナーに登壇して本も書いて、大きな案件を回している同世代がたくさんいて。同い年なのにあんなに喋れていいな、と悔しかったですもんね。
私は声優を目指したりもしていたので、名声欲もあるはずなんですよ。だからこそ、自分が目立つ才能ではないこともよくわかっているんです。
才能がなくて、それでもやりたいなら、何かを犠牲にするしかない
残酷だけど、才能や適性がない人はいます。全人類にデザイナーの才能があるわけじゃない。
たとえば絶対音感のように、感覚でめちゃめちゃ綺麗な配色ができちゃう人がいる。私にはその才能がないので、色彩検定を受けてセオリーでカバーするわけです。
相手は検定なんか受けなくても同じことができる。でも私は勉強して覚えないと同じ土俵に立てない。
じゃあ相手を恨むのかというと、そんなことはなくて。デザイナーになりたいと思ったのは、自分なんですよね。
なりたいと思ったのも、才能があるかないかの責任も、全部自分にある。ないならば努力するしかない。それもしょうがないじゃん、と思うんです。
もしそれがすごく嫌なら、その仕事はやめた方がいいと思います。日本に2万種ぐらい仕事はあるんだから、他に向いている仕事は絶対にありますよ。
だからこれは、自分自身のベストエフォートなんじゃないかと思うんです。
会社の研修と、自分がなりたい自分への努力は、イコールではないんです
会社で研修をやればいい、という意見もあって、それはそれで正しいと思います。
ただ、会社の研修は「会社があなたにこうなってほしい将来像」に向けたものなんですよね。
あなたがなりたい自分への研修を、会社が用意してくれるかというと、それは全くイコールではない。
そもそも会社は教える場所ではなく、結果を出す場所なので、研修は本質的には仕組みの中にないんです。
転職するとき、あなたが戦う相手は組織の中のデザイナーではなく、広く世間にいるデザイナーですよね。
そこには才能にあふれた人も、努力でそれを補ってすごくなった人もいる。その人たちと肩を並べたいなら、頑張らなきゃいけない。ただそれだけだと思うんです。
そして最後に思うのは、「必死になれ」と言われてカチンとくるとき。それはもしかしたら、自分は頑張りたいのに頑張れていないと、どこかで認めてしまっているからかもしれません。
だから琴線にビビビンと響いて、むむむとなってしまう。私はそんな気がしています。
まとめ
トンパパさんへの答えになっているかはわかりませんが、私はこう考えています。他人の言葉に噛みつく前に、自分がどこまでやりたいのか、そこにだけ向き合えばいいんじゃないでしょうか。自分が頑張っていると自分で認めてあげられるなら、それでいいと思うんです。
- 「必死」や「命がけ」は定性的な言葉で、人によって度合いが違う。だから言葉尻に噛みつく必要はない
- なりたいと思ったのも、才能の有無の責任も、すべて自分にある。才能がなくてもやりたいなら努力するしかない
- 会社の研修は会社の望む将来像に向けたもので、自分がなりたい自分への努力とはイコールではない
- 他人の言葉にカチンとくるのは、頑張れていない自分をどこかで認めているからかもしれない






