事件当日、なぜ言葉が出なかったのか
川﨑さんは事件当日の朝、ヘルパーの起床介助を受けて身支度を終え、事務所へ向かおうとしていました。
そのときテレビで、津久井やまゆり園事件のニュースが流れていたと言います。
さあ今から事務所に向かうぞというところでテレビを見ていたら、この事件が動画ニュースで流れていて、まず言葉にならなかったんです。
川﨑さんは20代前半から、障害者が地域で当たり前に暮らす権利を目指す自立生活運動に取り組んできました。
その活動の中で、戦後最大と言われる障害者の命を奪う事件が目の前で報道されていた。まず言葉が出なかったのは、そのためでした。
犯人の主張と、繰り返されてきた思想
言葉を失った最大の理由は、犯人の主張が報道で流れてきたことでした。
意思疎通ができない、障害を持った人は社会にとって必要がない。元職員の彼はそう言い切ったんです。
川﨑さんは、この発言を優生思想や、生産性だけを求める社会の考え方だと捉えています。
社会に準じられない障害者は必要ないという主張です。
歴史を紐解けば、こうした思想は繰り返されてきた。それでも障害者運動を中心に、そうしたことが起きない社会を作り上げてきたと川﨑さんは言います。
しかしこの事件は、その積み重ねをすべて踏みにじる行為でした。そして大切な命が失われてしまいました。
怒りの声を上げられなかった本当の理由
川﨑さんは、この事件にすぐ怒りの声を上げられませんでした。
理由の一つは、隣にいたヘルパーが同じような考えを持っていたらどうしよう、という思いがよぎったことでした。
SNSにも、許せない、悔しいと書けなかったと言います。
犯人の思想に同調する人、事件はいけないけれど理解はできると理解を示す人たちの声が、日本中に溢れているように思ってしまったんです。
だから自身が期待するセンターでも、声明を出す、講演会を開くといった行動が全くできなかったと振り返ります。
仮に一般の人が無差別に襲われる事件だったなら、こんな報道のされ方ではなかっただろう。同意の意見がこれほど流れることもなかったはずだ、と川﨑さんは感じていました。
自分らしい暮らしが、人の思想でいとも簡単に踏みにじられてしまう。これが障害当事者の生の声だと、川﨑さんは語ります。
そこから見出した、自分たちがやるべきこと
その恐怖を抱えたまましばらく時が過ぎ、やがて自分たちがやるべきことを思い返せるようになってきました。
川﨑さんの団体ができることは、日々地域で生きる人を支援し、その生活が困らないよう取り組むことです。
そしてもう一つ。今も施設や病院、親元で苦渋の思いをしながら暮らす人へ、地域で自分らしく生きていいと伝え続けることだと言います。
誰にも我慢することなく、自分らしく生活して生きる権利があるんだよということを、伝え続けていくことかなと思っています。
そのためには声で訴えるだけでなく、しっかり経営をすることが欠かせないと川﨑さんは考えています。
障害を持った人が生活するには、支える働き手の安定が最も大事だからです。
課題を考えるだけでなく、行動へ
川﨑さんは、この事件が凄惨であり、社会に大きな課題を投げかけたと受け止めています。
ただし、課題は考え続けるだけでは変わりません。
一人一人の行動が未来を変えていくし、障害を持った人の人生を支えていくと思っています。
誰もが自分らしく暮らせる共生社会は、自分たちの今日と明日の行動にかかっている。それがこの回で川﨑さんが伝えたかった着地点でした。
まとめ
やまゆり園事件から10年、川﨑さんは当事者として感じた恐怖を率直に語りつつ、その恐怖の先で自分の使命を見つめ直しました。声を上げられなかった経験が、地域で生きる支援を続ける決意へとつながっています。
- 事件当日、犯人の主張への同調の声を恐れ、川﨑さんは怒りの声を上げられなかった
- 障害者は必要ないという主張の背景には、繰り返されてきた優生思想がある
- 自分らしく生きる権利を伝え続けることが、川﨑さんの見出した使命
- 支援を続けるには、働き手の安定を支える経営が欠かせない
- 共生社会は考えるだけでなく、一人一人の日々の行動で近づいていく




