千本鳥居は本当は何本ある?
新井大貴さんがこの回で取り上げるのは、京都の南側、伏見にある伏見稲荷大社です。お正月には毎年ものすごい数の人が初詣に訪れ、その数は近畿地方の神社やお寺の中で一番多いと言われています。
伏見稲荷大社には、一年中海外からの観光客も絶えません。その人たちのお目当てが、朱色の鳥居がトンネルのようにどこまでも続く千本鳥居です。
新井さんはここで、千本鳥居が実際には何本あるのかと問いかけます。答えは、稲荷山全体で1万基を超えると言われているというものです。
実は(千本鳥居は)稲荷山全体で1万基を超えると言われています。千本どころか、その10倍以上です。
では、誰が何のためにこれほど多くの鳥居を建てたのか。新井さんは711年、戦国時代の終わり、江戸時代と、時代を順にたどりながらその謎を解いていきます。
「いなり」の名前はお餅と白い鳥から生まれた
伏見稲荷大社は、794年にできた平安京の碁盤の目の南東の外側にあります。そしてこの神社は、平安京よりもずっと古い歴史を持っています。
伏見稲荷大社の伝えられている創建は711年で、平安京ができる83年も前のことです。神社を設立したのは秦氏 ── 古代に朝鮮半島から渡来した人々の子孫とされる有力氏族。土木・養蚕・機織りなどの技術で知られ、京都の太秦周辺に拠点を持っていましたという一族だとされています。秦氏は朝鮮半島から渡ってきた人々の子孫と言われ、当時の京都盆地で大きな力を持っていました。
伏見稲荷大社の始まりには、不思議な伝説が残っています。秦氏の一人で、とても裕福な人物だった秦伊呂具が、ある日お餅を的にして弓で矢を射ました。
秦伊呂具に射られたお餅は白い鳥へと姿を変えて飛び去り、山の峰に降り立ちました。そして、その場所に稲が実ったといいます。
お餅を射る
裕福な秦伊呂具が、お餅を的にして弓で矢を射る
白い鳥に変わる
お餅が白い鳥に姿を変え、山の峰に降り立つ
稲が実る
鳥が降りた場所に稲が実る
稲成から稲荷へ
「稲がなる=稲成」が「稲荷」の由来とされる
この伝説から、稲荷の神様はもともとお米の豊作を見守る農業の神様だったことがわかります。
全国3万社の「本家」とお米の神様の謎
稲荷の神様は伏見の地から日本中に広がり、現在全国にある稲荷神社はおよそ3万社と言われています。街角の小さなお稲荷さんも、会社の屋上にある小さな祠もその一つです。
その全国の稲荷神社すべての本家にあたるのが伏見稲荷大社で、総本宮と呼ばれています。
ところが、今の伏見稲荷大社にお参りする人の多くが願うのは商売繁盛です。お米の神様がいつの間に商売の神様になったのか、新井さんはこの変化こそが千本鳥居の謎を解く鍵だと話します。
お米の神様がいつの間に商売の神様となったのか。実はこれが千本鳥居の謎を解く鍵となっています。
秀吉が母のために約束した「1万石」とは
話は一気に戦国時代の終わりへ進みます。伏見稲荷大社に着くとまず目に飛び込んでくるのが、楼門と呼ばれる朱色の2階建ての大きな門です。
伏見稲荷大社の楼門を寄進したのは、豊臣秀吉だと伝えられています。1589年、秀吉が天下統一を目前にした頃のことです。
当時、秀吉の母親は重い病気にかかっていました。そこで秀吉は、母の病気が治ったら1万石を奉納すると稲荷の神様に願いを立てます。
新井さんの説明では、1石はだいたい大人1人が1年間に食べるお米の量です。つまり1万石は、1万人が1年間食べていけるほどのお米ということになります。
しかも相手はお米の神様で、秀吉らしいスケールの大きな約束ですね。
このとき秀吉が書いた願文 ── 神仏に願いごとを立てる際、その内容を書き記した文書のこと。願主の名前や日付、願いの内容と奉納の約束などが記されますは、今も伏見稲荷大社に伝わっています。そして、その願いとともに寄進されたと言われているのが楼門です。
400年後に見つかった楼門の証拠
秀吉が伏見稲荷大社の楼門を建てたという話は、長い間言い伝えにすぎませんでした。
ところが1973年に楼門を解体して修理したとき、「天正十七年」、つまり1589年と墨で書かれた文字が見つかりました。願文と同じ年です。
新井さんは、この発見で秀吉が楼門を建てたという話が本当だったと確かめられたと話します。
天下人の秀吉でさえ、最後は神様に願いを託した。そして願いを込めて何かを奉納する。
新井さんによれば、この「願いを込めて奉納する」という形が、次の江戸時代にもっとたくさんの人々へ広がっていきます。
江戸の町人は門の代わりに鳥居を奉納した
江戸時代に入って戦乱が終わり、世の中が落ち着くと、商売が盛んになって街は活気づいていきます。
その中で、お米が豊かに実るという稲荷のご利益が、商売が実る、つまり商売繁盛にもつながると考えられるようになりました。
お米の豊作を見守る農業の神様
「商売が実る」として商売繁盛を願われる神様
秀吉は願いを込めて門を奉納しましたが、あれほど大きな門を建てられるのは天下人ぐらいです。そこで町の人たちが奉納したのが鳥居でした。
新井さんによれば、千本鳥居の鳥居は、お参りに来た人たちが願いを込めて、あるいは願いが叶ったお礼として奉納したものです。
鳥居は神様の世界への入り口とされます。そこで、願いが通るように、また願いが通ったお礼にと鳥居を奉納する習わしが広まったと言われています。
1万基の朱色のトンネルはどう生まれたのか
商売をしている人たちが商売繁盛を願い、一つまた一つと鳥居を奉納していきました。その積み重ねが、1万基を超える鳥居のトンネルになったといいます。
伏見稲荷大社では、鳥居の奉納を今でも受け付けていて、金額は鳥居の大きさによって変わります。つまり千本鳥居は、今も少しずつ形を変えながら続いています。
| 時代 | 担い手 | 奉納・出来事 |
|---|---|---|
| 711年 | 秦氏 | お米の神様として創建 |
| 1589年 | 豊臣秀吉 | 母の病気平癒を願い楼門を寄進 |
| 江戸時代 | 町の人たち | 商売繁盛を願い鳥居を奉納 |
新井さんは、千本鳥居の正体を、お米の神様が商売の神様になり、商売をする人たちの願いが朱色のトンネルになったものだとまとめます。
狐は神様ではない?口にくわえた4つのモノ
伏見稲荷大社には、鳥居のほかにもあちこちで目につくものがあります。狐の像です。
よくある勘違いが、稲荷の神様は狐だというものです。新井さんによれば、狐は神様そのものではなく、神様の使いです。
伏見稲荷大社の狐の像をよく見ると、口に何かをくわえています。代表的なものは4つあります。
お米を蓄える倉の鍵を表すと言われる
神様の力を表す宝珠だと言われる
そのままお米の実りを表す
知恵を表すと言われる
こうして見ると、狐の像がくわえているモノにも、お米や豊かさとのつながりが見えてきます。
いなり寿司やきつねうどんという名前も、狐の好物とされた油揚げに由来すると言われています。伏見稲荷大社の参道にはこれらを出すお店が並んでいて、新井さんは参拝の後にぜひ食べてみてほしいと勧めています。
伏見稲荷を歩くなら押さえたい3つのコツ
新井さんは最後に、伏見稲荷大社を訪れるときのコツを3つ、楼門から千本鳥居、そして山へと歩く順番で紹介しています。
1つ目は、千本鳥居を歩いたら一度振り返ってみることです。鳥居の裏側には、奉納した会社や個人の名前と日付が書かれています。
今回の話を思い出しながら(鳥居の裏側を)見てみると、ただの朱色のトンネルが人々の願いの列に見えていきます。
2つ目は、千本鳥居を抜けた先の奥社奉拝所で、おもかる石を持ち上げてみることです。灯籠の前で願い事を思い浮かべながら石を持ち上げ、思っていたより軽ければ願いが叶いやすく、重ければ叶いにくいと言われています。
ここ(おもかる石)でもやっぱり願いが主役です。
3つ目は、稲荷山の上まで行くなら時間に余裕を持つことです。稲荷山は標高およそ233メートルで、山をぐるっと回るとおよそ4キロ、2時間ほどかかります。
稲荷山の途中にある展望台からは、京都の街を見下ろせます。新井さんは、その展望台で引き返すのもおすすめだと話しています。
願いと感謝が積み重なった千本鳥居
新井さんは伏見稲荷大社の話を振り返ります。711年にお米の神様として始まり、戦国時代の終わりには秀吉が門を奉納し、江戸時代には商売の神様として町の人たちが鳥居を奉納していきました。
千本鳥居はこうして積み重なってきた人々の願いと感謝の形となっていく。そして狐は神様の使いです。
次回は京都の東、東山にある、「清水の舞台から飛び降りる」でおなじみの清水寺が取り上げられる予定です。
まとめ
伏見稲荷大社の千本鳥居は、神社が建てたものではなく、お参りに来た人々が願いとお礼を込めて奉納した鳥居の積み重ねです。お米の神様から商売の神様への変化をたどると、1万基を超える理由が見えてきます。
- 伏見稲荷大社は711年に秦氏が創建したとされ、全国約3万社の稲荷神社の総本宮にあたる
- 秀吉が母の病気平癒を願って寄進した楼門は、1973年の解体修理で見つかった1589年の墨書で裏付けられた
- 江戸時代に稲荷のご利益が商売繁盛と結びつき、町の人々が鳥居を奉納して1万基を超えるトンネルになった
- 狐は神様ではなく神様の使いで、くわえている鍵・玉・稲穂・巻物にもお米や豊かさとのつながりがある
- 訪れるときは鳥居の裏側を振り返り、おもかる石を試し、稲荷山を歩くなら時間に余裕を持つとよい


