なぜ桓武天皇は奈良を離れたのか
日本の多くの街では、道が川や山に沿ってくねくねと曲がっています。一方で京都の中心部は、縦と横の道がまっすぐに交わり、まるで碁盤の目のように見えます。
新井さんは、京都の碁盤の目の答えが、およそ1200年前にある天皇が描いた壮大な都市計画にあると話します。京都編の入り口として、この碁盤の目の謎を解くところから話が始まります。
鳴くよ、ウグイス。平安京。
794年、桓武天皇 ── 奈良時代末から平安時代初めの天皇。長岡京、平安京への遷都を行い、律令国家の立て直しを進めたことで知られますは今の京都に新しい都・平安京を作りました。それまでの都は、奈良の平城京でした。
桓武天皇が奈良を離れた理由として新井さんが挙げるのは、奈良で大きなお寺の力が強くなり、仏教の勢力が政治にまで口を出すようになっていたことです。
そのきっかけを作ったのが、奈良時代の聖武天皇です。聖武天皇の時代には疫病が大流行し、反乱や災害も相次いでいました。
聖武天皇は仏教の力で国を守ろうと考え、全国に国分寺 ── 聖武天皇の命で、国ごとに建てられた官立の寺院。国の平安を祈る役割を担いましたを建て、奈良の東大寺に巨大な大仏を作らせました。752年には、大仏の完成を祝う開眼供養が行われています。
こうして仏教は国に大切にされ、お寺は大きな力を持つようになります。やがて道鏡 ── 奈良時代の僧。称徳天皇に重用されて政治の中心に立ち、皇位をうかがったとされる事件で知られますというお坊さんが天皇に重んじられて政治の中心に立ち、天皇の位まで狙ったと言われる事件まで起きました。
その後に天皇になったのが桓武天皇で、781年から806年まで、およそ25年間在位しました。お寺の力が強い奈良から距離を置いて新しい時代を始めたいと、桓武天皇は考えたと言われています。
京都という土地には、川を使って大阪湾とつながりやすく、交通の便が良いという利点もありました。
実は桓武天皇は、平安京の10年前にも長岡京という都を作っています。しかし長岡京は工事がなかなか進まず、洪水の被害にも見舞われました。
長岡京では都造りの責任者が暗殺される事件まで起き、その後に続いた不吉な出来事は祟り ── 恨みを残して亡くなった人の霊などが、災いをもたらすとする考え方。平安時代の政治や都づくりにも大きな影響を与えましたではないかと恐れられたと言われています。そこで桓武天皇は、もう一度一から都を作り直すことにしました。
平安京の手本は唐の都・長安
桓武天皇が新しい都の手本にしたのは、中国の唐の都・長安です。長安は今の西安にあたり、当時は世界でも指折りの大都市でした。
長安は都の真ん中を太い大通りが南北に貫き、そこに縦と横の道がきっちりと交わる作りでした。この都市の作り方を条坊制 ── 南北の大通りを軸に、東西の「条」と南北の「坊」で区画を碁盤の目状に区切る都市計画。中国の都城にならって日本の都に取り入れられましたと言います。
つまり、京都の碁盤の目は、もともと中国からやってきた都市計画ということになります。
わざわざ中国の都を真似した理由について、新井さんは、当時の日本にとって唐が政治も文化も最先端の国だったことを挙げます。唐と同じような整った都を持つことは、日本も唐に負けない整った国家だと示すことでもありました。
実際、平安京以前の710年にできた平城京も、同じように碁盤の目の都でした。
平安京の大きさは、東西がおよそ4.5キロ、南北がおよそ5.3キロ。縦に少し長い、大きな長方形の都でした。
平安京の真ん中を南北に貫く朱雀大路は、道幅がなんと約85メートルあります。新井さんによると、今の大きな幹線道路と比べても倍ほどの広さです。
平安京では朱雀大路を境に、東側を左京、西側を右京と呼びました。ここで新井さんはクイズを出します。
地図上では東が右なのに、なぜ東側が左京と呼ばれているのでしょうか。
左京の名前の答えは、天皇の目線です。天皇は都の北の端にある宮殿から、南を向いて都を見下ろしていました。南を向いて立つと東は左手になるため、東側が左京と呼ばれるようになりました。
碁盤の目は1200年でどう変わったのか
平安京の中は、横に9つ、縦に8つに区切られていました。横の帯は「条」と呼び、北から一条、二条と数えて九条まであります。縦の帯は「坊」と呼び、朱雀大路から外側へ一坊、二坊と四坊まで数えていきます。
平安京の条と坊は、行と列を使って場所がわかる、地図の座標のような仕組みでした。今の京都にある四条通りや五条通りは、この「条」の名残です。一方、縦の通りは烏丸通りや河原町通りのように、別の名前で呼ばれるようになりました。
ところが、平安京の整った都は計画通りには進みませんでした。西側の右京はもともと湿地が多く、人が住みにくい土地だったからです。
人々はやがて東側の左京へ移り、街の中心はどんどん東へずれていきました。都の真ん中だった朱雀大路は、今の千本通のあたりです。しかし今の京都で一番にぎやかなのは、東の四条河原町や祇園です。
平安京の中心は朱雀大路。今の千本通のあたりで、西側の右京は湿地が多く住みにくかった
人々が東側の左京へ移り、今は四条河原町や祇園が一番にぎやかな場所になった
京都の碁盤の目に大きな手を加えたのが、天下を統一した豊臣秀吉です。秀吉は京都を自分の拠点にするため、街の大改造を行いました。
秀吉は、正方形だった区画の真ん中に新しい道を通し、細長い短冊型の区画に作り替えました。さらに、街中に散らばっていたお寺を集めて寺町を作っています。
1591年には、秀吉が京都の街全体を御土居 ── 豊臣秀吉が京都の周囲に築いた土塁と堀。一部は今も史跡として残っていますという土の壁で囲みました。御土居は敵から街を守る壁であると同時に、鴨川の洪水を防ぐ堤防の役割も担っていました。
平安京の計画
唐の長安にならい、条坊制で碁盤の目の都を作る
東への移動
湿地の多い右京から人が離れ、街の中心が左京へ移る
秀吉の改造
正方形の区画を短冊型に作り替え、寺町や御土居を作る
新井さんは、ここまでの話を、平安時代の計画に秀吉の改造が重なってできたのが今の京都の碁盤の目だとまとめます。
まさにこの番組(名の)万華鏡のように、時代ごとの模様が重なり合っている、それが京都の街です。
京都駅から嵐山まで、エリアでつかむ京都
京都編の後半では、旅をするときに覚えておくと便利なエリアを、碁盤の目を真ん中に置いて紹介しています。
まず京都駅周辺は、碁盤の目の南の端にある京都の玄関口です。駅のすぐ近くには、平安京の頃から続く東寺もあります。
碁盤の目の中心部には、四条河原町の繁華街、京都御所、二条城などが集まり、街の心臓部になっています。
中心部から鴨川を渡って東へ行くと東山で、祇園、清水寺、銀閣寺など、山の麓に名所が並びます。反対に西の端まで行くと嵐山で、竹林の小径や渡月橋、天龍寺などで知られる自然豊かな場所です。
南東には伏見があり、千本鳥居のある伏見稲荷大社や日本酒の酒造がある街です。北の方には金閣寺などもあります。
| エリア | 位置 | 主な名所 |
|---|---|---|
| 京都駅周辺 | 碁盤の目の南の端 | 東寺 |
| 中心部 | 碁盤の目の中 | 四条河原町、京都御所、二条城 |
| 東山 | 鴨川を渡った東 | 祇園、清水寺、銀閣寺 |
| 嵐山 | 西の端 | 竹林の小径、渡月橋、天龍寺 |
| 伏見 | 南東 | 伏見稲荷大社、日本酒の酒造 |
こうして並べると、東山、嵐山、伏見はすべて碁盤の目の外側にあります。京都編では今後、これらのエリアを一つずつ訪ね、有名なお寺や神社を掘り下げていくそうです。
通り名の歌と「上ル・下ル」に残る碁盤の目
京都の碁盤の目は、今の暮らしにもしっかり残っています。その一つが、京都の子どもたちが親しみ、コナンの映画などにも出てきた、通りの名前を覚える歌です。
丸竹夷二押御池。
この通り名の歌は、丸太町通り、竹屋町通り、夷川通り、二条通り、押小路通り、御池通りと、東西に走る通りの名前を北から順番に歌っています。碁盤の目だからこそ、通りを順番に並べて覚えることができるわけです。
もう一つ、京都ならではなのが住所の書き方です。京都では北へ向かうことを「上ル」、南へ向かうことを「下ル」、東へは「東入ル」、西へは「西入ル」と言います。
北へ向かう
南へ向かう
東へ入る
西へ入る
たとえば「河原町通四条上ル」は、河原町通りと四条通りの交差点から北に入ったところという意味です。通りの名前と方角だけで場所がわかるこの仕組みは、1200年前の都市計画が今もそのまま住所として使われている例だと新井さんは話します。
お寺が碁盤の目の外にある理由
京都編第1回の締めくくりで、新井さんは唐の長安を手本にした平安京、東へ移っていった街の中心、秀吉の大改造を振り返り、京都を歩くときは通りの名前に注目してほしいと呼びかけます。
さらに新井さんは、平安京ができた当初、都の中に建てることが許されたお寺は東寺と西寺のたった2つだけだったと紹介します。そのため、京都の古いお寺や神社の多くは、碁盤の目の外の山の麓などにあります。
次回の京都編は碁盤の目の外側へ移り、千本鳥居で知られる伏見稲荷大社を取り上げます。平安京よりも前からそこにあったと伝わる、古い神社の物語だと予告されています。
まとめ
京都の碁盤の目は、奈良のお寺の力から距離を置こうとした桓武天皇が、唐の長安を手本に作った平安京に始まります。その後、街の中心は東へ移り、秀吉の大改造が重なって、今の京都の街並みや通り名、住所の書き方に受け継がれています。
- 794年、桓武天皇は奈良の仏教勢力から距離を置き、長岡京の失敗を経て平安京を作った
- 平安京は唐の長安にならった条坊制の都で、天皇が南を向く目線から東側を左京と呼んだ
- 湿地の多い右京から人が離れ、街の重心は朱雀大路から四条河原町や祇園へと東へ移った
- 秀吉は区画を短冊型に作り替え、寺町や御土居を作って碁盤の目を大きく改造した
- 通り名の歌や「上ル・下ル」の住所表記に、1200年前の都市計画が今も残っている


