洗い場は2つまで?高専の寮で決められていた「暗黙の区切り」
この回は、神輝興産の社長である中さんの過去をたどるシリーズの2回目です。前回は中さんが高校に入ったところまでで、今回は5年制の高専 ── 高等専門学校の略称。中学卒業後に入学し、5年間かけて工学などの専門教育を受ける学校です。卒業生は就職のほか、大学の3年次へ編入する道もありますでの生活から話が始まります。
中さんは尼崎から明石の高専に通っていました。通えない距離ではなかったものの、近いほうがいいと考えて寮に入ったところ、そこは縦社会が非常に厳しい場所だったといいます。
縦社会が厳しすぎて、寮が。
寮の1年生は、食堂やお風呂に入るときに「失礼します、こんばんは」、出るときに「失礼しました」と必ず言わなければなりませんでした。さらに、お風呂で使える場所まで学年ごとに決められていたそうです。
(お風呂の)洗い場が20個あったとしても、1年生は2個しか使ったらあかん。
暗黙の了解で、1年は3個目は2年おらんかったら3個目使ってもええぞみたいな。
湯船にも暗黙の区切りがあり、1年生は縦に2人並んで入れる範囲までしか使えませんでした。空いていなければ、湯船に入れるまで立って待ち続ける必要があったといいます。
永瀬さんが「誰もいなければ使ってもいいのでは」と尋ねると、中さんの答えは否定でした。誰かが入ってきて見られたら、ひどく怒られるからです。
ダメ。おらなくてももうそこしか入っちゃダメ。誰か入ってくるかもしれないですから。
何もしていないのに怒られる「点呼回り」とは
高専の寮には「点呼回り」という行事がありました。中さんによると、1年生がただ並べられて、理由もわからないまま上級生に怒られ続けるというものです。
何もしてない。立たれて、お前らこらみたいな。なんで俺ら怒られてんだよ。
寮はA寮・B寮・C寮に分かれていて、A寮が1・2年生の寮でした。1年生は同級生ではなく2年生と同じ部屋に入るため、入学直後から先輩と同室で暮らすことになります。点呼回りでは、C寮の5年生がやって来て1年生を部屋から出し、立たせて怒鳴っていたそうです。
何で謝ってるかもわからんけど、謝っておかな。やられてまうから。
お風呂に入ると「一芸しないと入れない」と言われることもありました。バレー部だった中さんは、スライディングレシーブのような動きを風呂場でやって見せたといいます。
永瀬さんが指摘したように、高専は5歳差の学生が同じ寮で暮らす環境です。中さんによれば、上級生は20歳でお酒を飲んでおり、中学を出たばかりの1年生とはまったく立場が違いました。
バレー部だったから守られた?寮の権力関係
厳しい寮生活の中で中さんが助けられたのは、バレー部に所属していたことでした。4・5年生のバレー部に力の強い先輩がいて、後輩をかばってくれたそうです。
(先輩が)こいつはバレーやからええねみたいなことを言ってくれるんですよ。お前らあんまやめとけ、バレー部だからこいつみたいな。
あ、助かったみたいな。バレー部で良かったのはそこですね。
永瀬さんは、中さんが「風の流れを読むのが得意」で、いつもいいところにはまると評します。中さんは「たまたま」としつつ、高専のバレー部はチームとしては弱かったものの、権力のある先輩がいたことで守られていたと振り返ります。
それでも毎週、朝にパンを先輩の部屋へ運ぶなど、基本的には虐げられる立場でした。中さんはその縦社会で「結構鍛えられた」と話しています。
寮生と通学生の温度差、そして夏休み明けに消える同級生
高専には寮に入らない通学生もいました。中さんによると、通学生は普通の高校に通う感覚なのに対し、寮は軍隊のような雰囲気で、両者には大きな温度差があったといいます。寮が学校の敷地内にあるため、寮生は学校から出ずに生活できたそうです。
中さん自身も、一度ホームシックになったことがあります。寮を休める機会に1ヶ月だけ家から通ってみたものの、通学のほうがしんどく感じて寮へ戻りました。
結構ホームシックになって、家帰りたいってなって。
一方で、1年生の夏休みに帰省したまま戻ってこない学生も多かったといいます。中さんの同級生の友人の1人も、夏休みを境に別の進路を考え出したそうです。
1年生のころは、理由もわからないまま点呼回りで上級生に怒られ続けた
上級生になった中さんたちの代は、理不尽だと感じて点呼回りをやらなかった
永瀬さんが、上級生になってから下の学年に点呼回りをしたのかと尋ねると、中さんは「やらなかった」と答えました。何に怒っているのかもわからないものを、無理に続けることはできないと考えたからです。
僕はそれがもう嫌やったんで、あの時めっちゃ理不尽やと思ったんで、僕らはやらなかったんですよね。
就職率100%の高専は「お得」なのか
高専の就職率は100%で、企業とのパイプもあるため、超大手企業にも何名かは入れたそうです。中さんのクラスでは40人のうち、およそ20人ずつが就職と大学3年次への編入に分かれていました。
企業に人気がある理由について、中さんは率直な見方を示します。高専卒は専門の勉強を5年間積んでいるのに、短大卒と同じ扱いで採用できるからです。
優秀かつ安く採用できるんで、給料上げなくていい。
でもめちゃくちゃ専門の勉強5年間やってきてるのに短大卒と同じ金額でとれて、結構できるぞみたいな。
また中さんは、進学ルートとしての高専もすすめます。普通の高校から一般入試で国公立大学を目指すより、高専から3年次に編入するほうが入りやすく、同じクラスから京大や神戸大学、大阪大学に何人も進んだそうです。
企業とのパイプがあり、就職率は100%。短大卒と同じ扱いで採用されるため企業に人気がある
3年次に編入でき、試験なしで入れることも多い。同じクラスから京大や阪大などに進学した人もいる
中さんは「早く働きたかった」「勉強に飽きた」という理由で就職を選びました。ただ今では、なんで大学に行かなかったのかと強く思うことがあるといいます。
そのルートはありやなみたいな。今思えばなんで俺大学行かんかったんやろってめっちゃ思いますね。
クラス10番から留年寸前へ。クローゼットに隠れたサボり生活
永瀬さんに高専での成績を聞かれた中さんは、クラス40人中10番ほどだったと答えます。しかしその後は授業に出ず、部活だけに行く生活を続けたため、成績はどんどん下がっていきました。
留年が見えてきたことと、就職が近づいたことから、中さんは4年生ごろから真面目に取り組み始めたそうです。それまでの期間は「ずっと遊んでいた」と振り返っています。
寮にいながらどうやって授業をサボったのか。中さんによると、先生の見回りが来るとクローゼットに隠れてやり過ごしていたといいます。
先生が開ける間はクローゼットに入っといて、先生がどっか行ったらバーっと出てきてまた寝るみたいな。
面接の切り札は震災経験とディベートの司会
高専を卒業した中さんは大手企業に就職します。親から言われていた「いい大学に行っていい会社に入りなさい」を、この時点までは守っていたと中さんは話します。家族や祖母も、孫が大手に入ったと周囲に自慢していたそうです。
すぐ辞めるんですけど。
就職活動で中さんが使ったのは、「得意の」震災を経験したという経歴でした。この会社を受けに来る人の中で、この経験を持つのは自分しかいないとアピールしたそうです。
面接以外にはグループ討論もありました。中さんは、ディベートが盛んなアメリカ帰りの先生に攻略法を聞き、「絶対に司会をやりなさい」と助言されます。
最初に司会やらせてくださいって手挙げて司会やるみたいなことをやったりして、なんとかこう通るみたいな感じでしたね。
JR西日本ではなくJR東海へ。進路は「ふわっと」決まった
中さんの就職先はJR東海です。もともとは、クラスから人が入れるパイプのあったJR西日本を考えていました。寮の1年生時代に同部屋だった2年生の先輩も、JR西日本に進んでいたからです。
ところが、JR西日本の枠3人に対して応募者は4人いました。そこで中さんは先生から「お前は西日本じゃなくても行けるだろう」と言われ、JR東海を勧められます。
ほな俺東海行くわって。東海行ってみるわって。
中さんによれば、当時の高専にはJR東海への実績があまりなく、「誰かを行かせるならお前が一番いける」という雰囲気だったのではないかといいます。結果的に中さんはJR東海に受かり、残りの3人も全員JR西日本に入れました。
自分の進路を適当に決めすぎやね。
中さんが道を開いたことで、その後もJR東海には後輩が続いているそうです。ただ、本人は2〜3年ほどで辞めているため、「全然良くない気がする」と笑っています。
箱根の山を歩いた新人研修と、本社への抜擢
永瀬さんに「自分に合わなかったのか」と聞かれ、中さんは当時のJR東海を「スーパーブラック」だったと表現します。あくまで当時の話で、今はわからないと断ったうえでのことです。
入社後は三島で新入社員研修がありました。高卒で入る運転士、大卒の総合職、高専卒の専門職がまとめて研修を受け、箱根の山を歩いて登り、早朝に出て夜までに戻ってくるといった体育会系の内容だったそうです。
がっつり叩き直され、僕もだからもう超甘えてたんで、学生やから。叩き直されました。
研修では、当時JRのテーマ曲になっていたTOKIOの曲をひたすら歌わされたこともありました。その研修の中で、中さんはインストラクターに見初められ、本社採用になります。
ちょっとまあなんか勉強してますみたいな。かじってますよ、僕みたいなアピールしてたんですよね。
入社1年目で5億円の工事。名古屋の夜景を見ながら食べたパン
中さんが配属されたのは、地上を走る線路を高架化 ── 線路を地面の上から橋のような構造物の上へ移す工事。踏切をなくし、渋滞や事故を減らす目的で行われますする部署でした。1ヶ月の研修を終えた入社1年目で、いきなり5億円ほどの工事を任されたといいます。
何が何やらわからんけど、隣の人見たら200億円ぐらいの工事やってはるから、全然もうなんていうか、忙しさの次元も違うし。
誰も教えてくれない中で、中さんは下請けの会社に聞きながら仕事を進めました。タクシーチケットや接待がまだあった時代ですが、毎日終電まで帰れない日々が続いたそうです。
夜中にお腹が空くと、休憩室の自動販売機でパンを買って食べていたといいます。中さんは、その場面を今も忘れられない記憶として語っています。
夜な夜な名古屋のセントラルタワーの26階から夜景見ながらパン食ってる時に、俺はマジで何してんねやろって思って。
同期は1ヶ月で離脱、東大卒が上に座る学歴社会
永瀬さんが同期について尋ねると、一緒に配属された同期は1ヶ月ほどで心身を崩し、会社に来なくなったと中さんは話します。隣の課の課長が急に奇声を上げて飛び出していくこともあったそうです。
上司にもキレられまくるし、怒鳴り散らされるとか当たり前やし。
一方で、当時のJR東海は学歴社会でもあったといいます。高専卒の席は端のほうで、東大卒の新卒が入ってくると、そのまま上司として上に座ることがありました。
なんであいつ何もわからんのに俺の上に入ってくんねんみたいな。
中さんによると、この不満を口にしていたのは、10年選手の高専卒の先輩たちでした。中さんはこの話を、約20年前の当時のこととして語っています。
「退職予定」と書いただけで話が進んだ退職劇
JR東海を辞めたきっかけは、年に1回ほどある調査でした。今後の予定の欄に「退職予定」と書いたところ、上司がすぐ飛んできて、そのまま退職の流れになったそうです。
これ書いたらそんないきなりそうなんねやみたいな。
引き止められはしたものの、中さんは流れに乗る形で辞めることにします。書いてから半年ほどは在籍し、次の仕事は決めないまま退職しました。
親からは「なんで辞めるの」と言われ、高専の友達からも「うちの会社はもっとひどい」「そんないい会社をなぜ辞めるのか」と何度も言われたといいます。
だらだら期間を経て、コンサルで小原さんと出会う
退職後の中さんは、2〜3年ほど「だらだら期間」を過ごします。東南アジアやアメリカに行ったり、友達に誘われた怪しいビジネスを少しかじってすぐやめたりしていたそうです。
やっぱ赤い奴やんけみたいな思いながら、でもこれは稼げるんだとか言われてやろうとして、あかんわつってすぐすぐ失敗してやめてとかね。
23〜24歳ごろ、お金もなくなり、さすがに真面目に働いたほうがいいと考えた中さんは仕事を探し始めます。以前アルバイトでCADのオペレーターをした経験から、CADのできる人を探していたコンサル会社に入りました。
ところがコンサル会社では、CADではなく点検の仕事を任されたといいます。そしてその会社にいたのが、のちに中さんの人生に深く関わる小原さんでした。
そのコンサルの中にいたのが小原さんやったんです。
永瀬さんは「ついに大物が出てきた」と受け、小原さんとの話は次回へ持ち越しとなりました。
まとめ
中さんの高専からJR東海時代までの歩みは、理不尽な縦社会や激務に揉まれながらも、流れに乗ってふわっと進路を決めてきた日々として語られました。寮で受けた理不尽を下の代に引き継がなかったことや、流れに乗って進路を決めてきた姿勢が、この回の中さんらしさとして浮かび上がります。
- 高専の寮は、洗い場の数まで学年で決まる厳しい縦社会で、中さんの代は点呼回りの慣習をやめた
- 高専卒は短大卒と同じ扱いで採用できるため企業に人気があり、大学3年次への編入ルートもある
- JR東海には、JR西日本の枠が埋まっていたことから先生に勧められて入社した
- 本社では1年目から5億円規模の工事を任され、激務と学歴社会に苦しんだ末、2年ほどで退職した
- 2〜3年のだらだら期間を経て入ったコンサル会社で、小原さんと出会うところで次回へ続く





