聞く側だった社長が、ついに深掘りされる番に
神輝興産のPodcast「3 shine talk!」のこの回は、メンバーのひがみさんとかややんさんが、社長のなかけんさんを深掘りする回です。
なかけんさんは、これまでは聞く側ばかりで、自分の深掘り回がいつ来るのかと待っていたといいます。この日は「完全に受けの姿勢」で臨みました。
いつになったら僕の深掘りがやってくるんだろうかと待ってたんですけれどもね。
最初のテーマは過去から、ということで、かややんさんがどんな子ども時代だったのかを尋ねるところから話が始まります。
スーパー人見知りと、人気者の姉
なかけんさんの幼少期は、本人いわく「スーパー人見知り」でした。親戚が集まる家のドアを開けて靴がたくさん並んでいると、中に入れずに走って帰ってきてしまうほどだったそうです。
人がいっぱいおるってなって、ドア開けて、靴がいっぱいあったら走って逃げて帰ってくるみたいな。
対照的だったのが、5歳上のお姉さんです。みんなの真ん中で踊るような人気者で、弟のなかけんさんは「全然出てこんやんけ」と言われるような存在でした。
お姉さんは現在、神輝興産で働いています。かややんさんによると、テーマパークが好きで、ワクワクすることを楽しむ明るい人柄は今も変わらないといいます。
人見知りで、人が集まる場から逃げ帰る。冷めた子ども
みんなの真ん中で踊る人気者。明るく楽しむのが好き
小一でサンタを信じない「冷めたガキ」
なかけんさんは自分のことを「冷めたガキ」だったと振り返ります。姉が小学6年生、自分が小学1年生の頃には、すでにサンタクロースはいないとわかっていたそうです。
一方のお姉さんは、小学6年生になってもサンタクロースを信じていました。なかけんさんはそんな姉を見て、年の差がありながらも立場が逆転したと感じたといいます。
小一でも完全にこいつ、こいつとは逆転したなと思いましたね。こいつはまだサンタクロース信じてんのかと。
かややんさん自身も5歳下の弟がいて、完全に自分が強かったそうです。そのため、5歳離れていても弟のなかけんさんが姉に強く出ていた話に驚いていました。
友達にも「おらんぞ。あれは親やぞ」と言っていたかもしれない、となかけんさんは話します。ひがみさんは、小6で信じている子も、小1で信じていないところにたどり着いている子も少なめだと、姉弟の「逆の逆転」を面白がっていました。
卒業式後に先生から謝られた小学時代
斜に構えたところもあったのかと聞かれたなかけんさんは、「ませガキ」だったのではないかと答えます。象徴的なのが、小学6年生の卒業式の後の出来事です。
なかけんさんは卒業式の後に先生から呼び出され、「ほんまにすまんかった」と謝られました。先生はなかけんさんへの対応や評価を、意図的に良くないものにしていたようだといいます。
後で卒業式の後に呼ばれてすまんかったみたいなこと言われて。いや、知らんがなってなったんですけど。
さらに数年前、中学の同窓会で当時の担任の先生に会ったとき、小学校から中学校への申し送りで「気をつけろ」と言われていたメンバーの一人だったと知らされたそうです。
本人には自覚がまったくなく、勉強はそれなりにできた方だったといいます。ただ、いじめっ子気質は間違いなくあり、いじめていなかったとは言えない、と率直に認めていました。
やってないとは言えないですね。多分僕のことを多分恨んでる人もいるかもしれないですね。
40歳ぐらいになって知った過去に、かややんさんは「やっぱジャックナイフやったんですね」と返し、なかけんさんも「そうかもしれないね」と受け止めていました。
バスケ好きがバレー部を選んだ理由は髪型
なかけんさんは小学校でミニバスケットボールをずっと続けていました。ところが中学のバスケ部は、スポーツ刈りにしなければならないという決まりがありました。
見学に行くと、スポーツ刈りなんて「ちょっと蹴るだけやんけ」と言われ、反発を覚えたそうです。そこで隣でダラダラと練習していたバレー部を見て、バレー部に入ることを決めました。
スポーツ刈り縛りじゃなかったらバスケ部に入ったと思います。また人生変わったかなと。
女の子にモテたいと思う多感な時期だったこともあり、スポーツ刈りへの嫌悪がバスケへの思いを上回ったといいます。ひがみさんの指摘に、本人も「ほんまそうやわ」と笑っていました。
ミニバス
小学校でバスケを続け、スラムダンク世代でバスケをやりたかった
スポーツ刈りの縛り
中学のバスケ部は髪型の決まりがあり、見学で反発した
バレー部へ
隣でダラダラしていたバレー部に入り、以後ずっとバレーを続ける
球技が得意な人と苦手な人の見える世界
運動については、なかけんさんは「そつなくはできる」と話します。ただし野球だけは経験がなく、飛んでくる硬い球を捕るのがとても怖いそうです。
かややんさんは反対に、運動全般が苦手だといいます。鍛えればできるスポーツはできても、センスが必要な球技はまったくできないと話していました。
バレーの時にトスとかってできる人ってポフっていうじゃないですか。私は多分あのポフって音を一生聞くことはないって。
ひがみさんは、球技ができる人のもとに来たボールは軽そうに見えるのに、できない人にとっては鉄の玉が来たようだとたとえ、なかけんさんも「重力が違うぐらい」と応じていました。
かややんさんは会社のスポーツ行事でなかけんさんの上手さを見たといいます。一方でなかけんさん本人は、手先は不器用だとよく言われると話していました。
先輩のいない男子バレー部で過ごした中学時代
なかけんさんが入ったバレー部は、その学年で初めてできた部でした。かややんさんによると、当時は男子バレーの人気がなく、サッカーや野球、スラムダンク全盛期のバスケに人が集まっていたそうです。
中学のバレー部では練習をほとんどせず、マットに寝転んで過ごしていたといいます。後輩に見張りをさせ、先生が来たら呼ぶように頼んでいたそうです。
後輩に先生来るまで下で見張っといて、先生来たら呼べとか言われて。その間ずっとボーッとマットに寝転んで終わらへんかなみたいなやってました。
結局そのやり方は先生にばれて、ひどく怒られたそうです。それでもバレーは高校以降も続け、なかけんさんは「バレーやってよかったな」と振り返っています。
教育熱心な母と、阪神大震災で変わった進路
高専に進んだ理由をひがみさんが尋ねると、話は小学校時代にさかのぼります。なかけんさんの母親は教育熱心で、いい中学、いい大学、いい会社へという指導をずっと受けていました。
小学校高学年からは塾に通い、中高大一貫校の受験を目指していました。ところが小学5年生のときに阪神大震災 ── 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災のこと。兵庫県南部を中心に甚大な被害が出ましたが起き、家が全壊して西宮から尼崎へ引っ越すことになります。
そのころから、母親は勉強しろと言わなくなりました。塾もやめ、なかけんさんは近くの公立中学に進みます。
そこでもうなんかその執着みたいなのが親からなくなったみたいな。あんだけ勉強せえって言われてたのに。
それでも、西宮で勉強した「財産」があったため、尼崎の中学では勉強しなくても学年で1位か2位だったそうです。
西宮で塾に通い、中高大一貫校の受験を目指す
尼崎へ引っ越し、塾をやめて公立中学へ。親も勉強を言わなくなる
高専進学のきっかけは友人の一言
高専を知ったのは、友達から「就職率100パーセントの学校がある」と聞いたのがきっかけでした。一緒に見学に行き、面白そうだと感じ、他の高校は見に行かずに高専一択になったといいます。
受験は推薦入試で、試験はなく面接だけでした。なかけんさんは震災で家が全壊し、足が挟まった実体験を話し、インフラを守る勉強がしたいと伝えたそうです。
志持った子供が来たら絶対通すやろと思って推薦で行ったら案の定通って。
内申点は十分と言われていたこともあり、なかけんさんは自信満々で面接に臨み、無事合格しました。
本当の悩みは「女子が多い学科かどうか」
学科選びでは、機械科は旋盤などが面白くなさそうで候補から外れ、建築学科と都市システム工学科で悩んだといいます。建築学科に心が傾いた理由は、女子が半分いることでした。
最終的に選んだのは都市システム工学科です。名前から土木ではないと思っていたものの、入ってみるとかなり土木だったそうです。
ひがみさんは、なかけんさんが運命や過去のつながりを信じるタイプなので進路もその流れかと思っていました。しかし本人は、当時はそんな気持ちはなく、紹介されてなんとなく行くことが多かったと話します。
一方で、大人になってから振り返ると「導かれてる感」があるとも語っていました。話は高校入学までで区切られ、続きは次回へ持ち越しになりました。
まとめ
なかけんさんの学生時代は、人見知りで冷めた少年が、震災や友人の誘いといった偶然に流されながら進路を選んでいく物語でした。今の姿からは意外なエピソードが次々と明かされています。
- 幼少期はスーパー人見知りで、5歳上の明るい姉とは対照的だった
- 小学生のころから冷めた「ませガキ」で、先生から謝られたり申し送りされたりしていた
- バスケ好きだったが、スポーツ刈りを嫌ってバレー部を選んだ
- 阪神大震災をきっかけに親の教育熱が冷め、友人の誘いで高専へ進んだ
- 進学理由として語った志は便宜上のもので、当時は「なんとなく」が多かった







