誕生日会に呼ばれなかった小学生時代
番組では今回を「吉田さんの深掘り回」と銘打っています。前回の、吉田さんが今と未来にやりたいことの話に続き、今回は「エピソードゼロ」として吉田さんのこれまでを振り返ります。
吉田さんは西宮生まれで、中さんとは生まれが同郷です。吉田さんがまず明かしたのは、昔は今のような明るい雰囲気ではまったくなかったということでした。
でもまあなんかよく言われるのが、昔は全然なんかこんな感じじゃなかったんですよ。
なんか結構暗い人やった。めちゃめちゃ。
小学校低学年のころの吉田さんには、友達がほとんどいなかったそうです。誕生日会に呼ばれた記憶もほとんどないといいます。
うーん、なんか誕生日会とかに呼ばれた記憶がほとんどない。
さらに吉田さんは、不良だったわけでも何かをしていたわけでもないのに、周りから怖がられていたと振り返ります。話すこと自体はあったものの、いつも一緒に遊ぶような仲の良い友達はあまりいなかったそうです。
当時の地域は子ども会の活動が盛んで、祭りや町対抗の運動会などのイベントが多くありました。中さんも覚えているほどで、吉田さんはそうした行事で家から出ることはあっても、自分から友達とずっと遊ぶことはなかったといいます。
高3まで続いた「ほぼ一人」と帰宅部の日々
中さんが「その状態はいつぐらいまで続いたのか」と尋ねると、吉田さんの答えは「高3ぐらいまで」でした。小学校の話だと思っていた樋上さんと中さんは、その長さに驚きます。
吉田さんによると、低学年のころはもっと一人で、そこから少しずつ一人ではなくなっていったそうです。それでも基本は一人のまま、中学時代を迎えます。
だから中学の時もほとんど活動がないクラブに入ったろうと思って。
中学では部活に入る必要があったため、吉田さんは一番活動していない部として放送部を選びました。人数が少なすぎて日常の放送は広報委員会が代わりに担当しており、マイクが回ってくるのは運動会と音楽会のときだけだったそうです。
高校ではクラブに入らず帰宅部に。家にほぼ直帰し、帰宅後に誰かと遊ぶこともほとんどなかったといいます。中さんに何をしていたのか聞かれると、吉田さんは「再放送ドラマ見てた」と答えました。
ただ、吉田さんはクラスでまったく話さなかったわけではありません。当時から面白いことが好きで、みんながいる場で盛り上がって話すことはあったそうです。あまり何かに取り組んではいなかったというのが、吉田さん自身による当時のまとめです。
エレクトーンを高3まで続けた理由
習い事について聞かれた吉田さんは、エレクトーン ── ヤマハが製造する電子オルガンの商標名。上下2段の鍵盤に加えて足元にも鍵盤があり、伴奏やリズムを自動で鳴らす機能を持つだけを習っていたと答えます。小2ぐらいから高3まで続けていたそうです。
ピアノを習っていた中さんと、ヤマハでエレクトーンからピアノへ進む流れを知っている樋上さんは、エレクトーンのまま続けたことに驚きます。吉田さんは、ヤマハから紹介された個人の先生のもとに通っていたそうです。
吉田さんがエレクトーンを選んだのは、和音を押さえるだけで機械が伴奏を鳴らしてくれる点が楽しかったからです。
自分はこうやってジャンジャンジャンジャンって弾いてるだけやけど、エレクトーンの機械の力でボボボボボボボみたいになってるように聴こえるという。
それが楽しかった。だからピアノよりそっちの方がいいなって思って。
一方で吉田さんは、話を大学時代のバンドへと少し先に進めます。メンバーで担当を決めるとき、吉田さんは歌うこと以外で音楽に興味のあるものはないと、エレクトーンを習っていたころから気づいていたそうです。
だからそれぐらいの熱量の人やったんですよ、昔は。
興味がないのに長く続けていたことに、樋上さんは意外そうな反応を見せます。吉田さんは「私続けるの得意なんですよ」と答え、やめる理由がなく、ほかにやりたいこともなかったからエレクトーンだけをなんとなく続けていたと説明しました。
推薦合格後の暇つぶしで始めたガソリンスタンドのバイト
中さんに「大学デビューしたのか」と聞かれ、吉田さんは大きく言えばそうだと認めます。ただ、変化のきっかけはその一つ前、高3の年明けにありました。
吉田さんは大学が推薦で年内に決まっていたため、周りがセンター試験などで忙しい年明けに時間を持て余していました。公立高校でアルバイトは本来禁止でしたが、暇なのでアルバイトを探し始めます。
なんかあの、何て言うんですか、ハリーポッターを超絶暗くしたような感じです。
当時の吉田さんは体重が85キロぐらいあり、メガネをかけた見た目のせいか、コンビニなどの接客のバイトにはことごとく落ちたといいます。そこで、新聞に挟まっていたアイデム ── 求人情報を扱う企業。かつては新聞折込の求人チラシで広く知られていたの求人に片っ端から応募し、近所のガソリンスタンドで「明日から来てくれ」と採用されました。
ところが、そのガソリンスタンドはヤンキーが多い職場で、吉田さんは「可愛い子入ってくるんじゃんかよ」などとボコボコに言われたそうです。中さんは「今やったら絶対許されへん」と、時代の違いを口にします。
それでも吉田さんは厳しい環境で社会勉強を重ね、1ヶ月で3キロぐらい痩せ、お金も入り、少しずつ社会に慣れていきました。その流れで大学に通い始め、性格も変わっていったといいます。樋上さんによると、結局そのバイトは4年続いたそうです。
85キロぐらいあり、接客のバイトはことごとく不採用。家でぬくぬく暮らし、遠征などの経験もなかった
1ヶ月で3キロぐらい痩せ、お金も入って社会に慣れた。大学に通い始め、性格が変わっていった
休むことを許さない家と、割れた体温計
温室育ちの子が急に厳しい職場に入ったら普通は辞めてしまう、という中さんの問いかけに、吉田さんは家の方針を挙げます。吉田さんの家では、まっとうな理由がない限り休むことは許されなかったそうです。
休むってことはもうテレビとか見れないレベルじゃないと休んだらあかんって言われてたんで。
だから(バイト先で)そんなこと言われても、家でテレビ見ようかなと思ってプチってリモコン押す元気あるから、明日も行かなあかんなと思ってずっと行ってた。
吉田さんは中学も高校も無遅刻無欠席でした。ただ、小学校のころは学校に行きたくなくて、保健室から何とか帰ろうとしたことがあったそうです。
吉田さんは熱があれば帰れると考えて体温計を温めすぎ、43度を超えてガラスの体温計を割ってしまいました。それ以来、保健室に入れなくなり、帰る方法がなくなったといいます。
中さんは、今の時代のように心のケアを重視されていたらどうなっていたのだろうと問いかけます。吉田さんは今なら絶対そうなっていたと認めつつ、いじめられていたわけではないことを先生は見透かしていたのかもしれないと話しました。
吉田さん自身は、集団生活が苦手だったのかもしれないと振り返ります。もともと一人でも平気な性格で、一人でいることがつらかったわけではなく、単に学校へ行くのが面倒で嫌だったそうです。
押されていなかったスイッチと、歌で開けた道
中さんが「もともとの強さなのか、時代が強くしたのか」と問うと、吉田さんは自分の変化を「スイッチ」にたとえます。
なんか急になんかガソリンスタンド行って、なんか押されてなかったスイッチがどんどん押されていって、今に至る至ったんかもしれない。
吉田さんの変化には歌も関わっていました。中学の音楽のテストで校歌を歌ったとき、吉田さんは自分の歌がうまいと気づきます。思ったように歌える歌に比べ、練習が必要なエレクトーンは面倒になっていったそうです。
そしてガソリンスタンドでボコボコに言われていたころ、歓迎会でカラオケに行ったことが転機になります。歌がうまいと認められたことで、吉田さんはそれ以降いじめられなくなったといいます。
厳しい職場
ヤンキーの多いバイト先でボコボコに言われる
歓迎会
先輩たちが歓迎会を開き、カラオケへ行く
歌の評価
「お前めっちゃ歌うまいやんけ」と言われる
変化
それ以降いじめられなくなり、社会での手応えを得る
吉田さんは、社会とはこういうものかと感じたそうです。中さんはそれを「一芸あればいいんだ」と言い表しました。
時間が来たため、今回は大学入学前後までで一区切りとなりました。次回は大学デビュー後から社会人になるまでの話を聞く予定で、樋上さんも「へーって知らんかったこともありました」と話しています。
まとめ
今回の深掘り回からは、小学校から高3まで「ほぼ一人」で過ごした吉田さんが、ガソリンスタンドの厳しいアルバイトと歌をきっかけに変わっていった過程が見えてきます。
- 吉田さんは小学校低学年のころ友達がほとんどおらず、その状態は少しずつ和らぎながらも高3ぐらいまで続いた
- エレクトーンは小2から高3まで続けたが、強い興味からではなく「やめる理由がない」から続けていた
- 推薦合格後に始めたガソリンスタンドのアルバイトで社会に揉まれ、性格が変わり始めた
- 休むことを許さない家の方針が、厳しい職場でも辞めずに4年続ける土台になった
- 歓迎会のカラオケで歌を認められたことが、吉田さんの言う「押されていなかったスイッチ」を押す一つになった







