学校に行かなくなった娘に「世界は広いぜ」と伝えたい
この夜のリクエストは、少し切実なものでした。理由は話さないけれど、最近学校に行かなくなった娘さんに、「気にすんな。世界は広いぜ。あなたは大丈夫」と伝えられる本が読みたい、という内容です。
娘さんは高校生で、顔出ししない配信で活動するアイドルが大好きな、推し活に忙しい明るい子だと紹介されています。
バタやんは、不登校の子どもや、今学校に行っていない本人からのメッセージをこれまでもいくつか受け取ってきたと話します。
ただ、しっくりくる本を選ぶのは簡単ではないとも語ります。不登校といっても、心境やコンディションは人それぞれ違うからです。
不登校だからっていって、心境やコンディションはみんな一緒じゃないですから。
そこでバタやんは、「世界は広いぜ」という言葉と、歌い手さんが好きというキーワードから、一冊を選びました。
日本語で創作する小説家、グレゴリー・ケズナジャットさん
選ばれたのは、グレゴリー・ケズナジャットさんのエッセイ集『言葉のトランジット』です。2025年8月に講談社から刊行されました。
アメリカのサウスカロライナ州に生まれ、高校生のときに日本語に興味を持ち、留学も経験。2007年に日本へ移り、今は法政大学の准教授を務めながら小説を書いているといいます。
『言葉のトランジット』は、そんなグレゴリーさんの初めてのエッセイ集です。英語と日本語という二つの言葉のレンズを通して見える景色や、言葉がアイデンティティにどう影響するのかを綴った一冊だと紹介されます。
ただし、堅い教養書ではないとバタやんは言います。ふわっとした断片の積み重ねのような読み物だそうです。
英語で見える世界と日本語で見える世界は、はっきり二つに分かれているわけではありません。帯には「二つのレンズ」とありますが、掛け替える眼鏡ではないと表現します。
眼鏡を掛け替えてるわけじゃなくて、言うなれば遠近両用みたいな、その境目は曖昧で、でも確実に違いはある、見え方に違いはあるっていう感じでしょうかね。
どっちにも「どっぷり」ではない、独特の距離感
バタやんがこの本に強く惹かれたのは、グレゴリーさんの独特の視点、客観性、距離感だといいます。
英語はグレゴリーさんの母語で、日本語は習得した言語です。だからこそ、その境界線の中で、言葉や文化のどちらにも冷静な距離感を持っているところが面白いと語ります。
日本語で創作していると聞くと、日本カルチャーを偏愛している人を想像しがちです。けれど、そういう感じではないといいます。
もうちょっとなんか引いた目で見ているっていうところが面白いなと思いました。
その距離感を示す具体例として、本には「マイジャパン症候群」という言葉が紹介されています。
日本の生活に慣れた英語話者が、新しく来た人に対して日本語や日本文学、日本のカルチャーのうんちくを語ったり、「日本ではこうした方がいい」とマウントを取り出す。それを本ではそう呼ぶそうです。
どこの国にもありそうだと、バタやんは笑います。「マイニューヨーク症候群」や「マイ京都症候群」もあるかもしれない、と。
面白いのは、グレゴリーさん自身の姿勢です。その症候群にかかった人たちに痛々しさを感じたり少し笑ったりしながら、同時に自分も発症していることを自覚していると書かれているのです。
たとえば、あまりメジャーではなかった温泉地に久しぶりに行ったら、外国人人気の観光地になっていて、温泉の入り方を書いた英語のパンフレットを渡されてしまう。すっかりメジャー化したことに、マイジャパンを脅かされたような不快感を覚えるくだりがあるといいます。
なぜ、わざわざ乗り継ぎの長い便を選ぶのか
ここからが、この本をリクエストの娘さんに選んだ理由につながります。タイトルにもなっている「トランジット」をめぐる話です。
本の中で、グレゴリーさんは「旅程に余裕があれば、なるべく乗り継ぎの長い旅程を選ぶ」と書いているそうです。
バタやんは、これに驚いたと言います。乗り継ぎは短いほどいい、直行便があれば最高だと思っていたからです。
なぜ長い乗り継ぎ便を選ぶのか。そのきっかけは、グレゴリーさんが高校生のときの体験にありました。
日本にホームステイに向かう便が韓国で乗り継ぐ必要があり、6時間ほど時間を持て余したそうです。韓国語はわからず、どこにも所属していない場所にいる。ところが、その孤独感は不快なものではなかったといいます。
バタやんは、その場面を本から読み上げます。
孤独感といっても不快な気持ちではない。単に自分が知っている言葉と文化から断絶されただけだった。
後ろには故郷と母語がある。先にある別天地で新しい環境と言葉が待っている。その二点の間にいて、静かな身軽さがあった。
静かな身軽さという表現に、バタやんは深くうなずきます。目的地でも帰る場所でもない、その宙ぶらりんな空間で過ごす独特の時間を味わうために、わざわざ乗り継ぎの長い便を選ぶ、という話でした。
不登校は停滞ではなく「人生のトランジット」
この乗り継ぎの話を読んで、バタやんはあることに気づきます。学校に行っていないこと、会社を休んでいることも、ある種のトランジットの時間なのかもしれない、と。
学校や会社という枠組みから外れている時間は、世間的には停滞に見えるかもしれません。けれど、グレゴリーさんの視点はそこを大きくひっくり返します。
二つの境界のあいだ、いわば「あわい」にとどまること。それを、どこにも属さないまま世界を再発見するための、豊かで自由な時間としてとらえているのです。
さらにバタやんは、本の中の「轍」という言葉に注目します。
第二言語を持つと、第一言語の見え方が変わってくる。それまでのルーティンや思考の癖、つまり長年の繰り返しでできてしまった溝から外れて、自由になることができるというのです。
「一瞬でも方向を決める自由を得る」という神フレーズ
この「轍」の章から、バタやんは今夜の神フレーズを紹介します。
そう考えると、時にははっと周りに気づいて、馴染みの轍から出ることも十分魅力的に思える。
時間とエネルギーを消費するし、瞬発的な判断も難しくなるだろう。だが、その分、一瞬でも方向を決める自由を得る。
学校のルールやコミュニティの常識という轍から少し外れてしまったとしても、それは停滞ではない、とバタやんは受け取ります。
それはむしろ、次の新しい世界を目指すための自由な体験の始まりかもしれない。心もとないけれど、自由で豊かな時間なのかもしれない、と語ります。
そしてこの感覚は、娘さんが好きな、顔出しをしないアイドルの世界観とも通じると気づきます。
固定された名前や外見、年齢、国籍にとらわれず、言葉や声だけでアイデンティティを築いていく。そこにも、心もとなさと自由さが同居しているのではないか、という想像です。
最後にバタやんは、リクエストから時間が経ったことに触れます。娘さんはもう次のフライトに乗っているかもしれないし、まだトランジットの途中かもしれない、と。
今まさに乗り継ぎの途中にいる人も、あの時間も悪くなかったと振り返れる人も、よかったら読んでみてほしい。そう語りかけて、この夜の一冊を手渡しました。
まとめ
学校に行かなくなった娘さんへのリクエストに、バタやんが選んだのはグレゴリー・ケズナジャットさんの『言葉のトランジット』。乗り継ぎの時間を「静かな身軽さ」ととらえる視点から、枠組みの外にいる時間を停滞ではなく自由な「人生のトランジット」として照らし出す回でした。
- リクエストは、学校に行かなくなった高校生の娘さんに「気にすんな、世界は広いぜ」と伝えたいというもの
- グレゴリー・ケズナジャットさんは日本語で創作する作家で、本書は初のエッセイ集
- グレゴリーさんはあえて乗り継ぎの長い便を選び、そこに「静かな身軽さ」を見出す
- 学校や会社の枠組みから外れた時間も、どこにも属さない豊かなトランジットととらえられる
- 「馴染みの轍から出る」ことは、一瞬でも自分で方向を決める自由を得ることでもある





