コンテンツ消費オタクが気づいた「そのもの性」
話の出発点は、ポーキーが自分について気づいたことでした。小説からゲーム、映画、漫画、アニメまで、フォーマットを問わず異常な量のコンテンツを消費しているといいます。
ほんとね、小説からゲームから映画から漫画からアニメからフォーマット問わないのよ。
そして、消費するコンテンツの傾向と、自分が理想とするものづくりが近いことに気づいたと話します。
自分が理想としてるものづくりみたいなのもあって。好きなコンテンツとか、自分の理想としてるものづくりが結構近いなっていう感覚があって。
その理想の中心にあるのが「そのもの性」という概念です。ポーキーはこれを「基盤の代替不可能性の高さ」と説明しますが、みっこはすぐには飲み込めません。
難しい、難しい、難しい、難しい。
そのもの性が高いものこそ理想のコンテンツである。これがこの回を貫くテーマになります。
仕組みとしての「そのもの性」
ポーキーによると、そのもの性には2つの種類があります。1つ目が「仕組みとしてのそのもの性」、つまりそのフォーマットでしか成立しない表現があることです。
ゲームにはゲームでしかできない物語表現があり、小説には小説でしか書けない物語がある、とポーキーは説明します。
ゲームでしかできない物語表現っていうのが存在するのよ。小説でしか書けない物語というのが存在するのよ。
わかりやすい例として挙げられたのが、小説の叙述トリックです。読者が思い描いていたストーリーと真実がまるで違う仕掛けは、小説という形式だからこそ成立します。
漫画についても、コマ割りや見開き、ページをめくる動作、何十巻も続く前提など、その形式ならではの要素がそのもの性を高めると話されています。
一方で、小説でもゲームでも映画でも成立するような作品には、あまり魅力を感じないとポーキーは言います。話の流れで、みっこは漫画から派生してアニメ・映画・ゲームになったコナンを例に出しました。
だから逆に小説でもゲームでも映画でも何でもいいですみたいなのにあんまり魅力を感じない。そのもの性があんまり高くないと思ってるから。
セーブデータを物語に組み込む衝撃
ゲームにおけるそのもの性の具体例として、ポーキーはセーブデータという概念を物語に取り込む表現を挙げました。
セーブデータという概念を物語の中に使うとかは、もうゲームじゃないと絶対無理じゃん。
映画にはセーブデータという仕組みがありません。だからこそ、それを物語装置として使う演出はゲームでしか成立しないとポーキーは語ります。
みっこも「やってみたい」と反応し、その形式でしか生み出せない表現が心を強く動かすことが伝わります。
来歴としての「そのもの性」とオタクの文脈
もう1つのそのもの性は「来歴」、つまり作品が作られるまでの経緯や文脈にあるとポーキーは説明します。同じことができても、その人やその会社がやることで特別な意味が生まれるケースです。
その会社がやることでしか意味が生まれないとか、その人がやることでしか意味が生まれないとか。
例として挙がったのが、Netflixの『超かぐや姫』です。日本のアニメオタク文化が発酵した末の出力であり、ハリウッド的に整えられていない物語のかたちにそのもの性を感じたと話します。
対比として語られたのが、K-POPアイドルを題材にしたNetflix作品『K-POP デーモンハンターズ』です。みっこはK-POP文化がしっかり作品に取り込まれている点を評価しました。
モッパンとか、アイドルが食事するシーンの動画のクローズアップが入ってたり、カムバックとかっていう概念があったり、韓国アイドルの文化もしっかり取り入れて、「すごいわかる」みたいな。
ポーキーは『K-POP デーモンハンターズ』を面白いと認めつつも、アイドルや歌って戦う設定など日本が長く扱ってきた要素が海外で作品化された点に、複雑な思いを口にします。
ガラパゴス化しすぎた結果、こういうの作れないんだよなみたいな。そういう絶望感があったけど、『超かぐや姫』がその絶望感を乗り越えさせてくれた。
ただし『K-POP デーモンハンターズ』は、ポーキーにとって最高の作品にはなり得ないといいます。理由は、代替した結果生まれたものであり、代替不可能性が低いからです。
代替不可能じゃないと思って。代替した結果生まれたものじゃん。
この「来歴の数だけオタクがつく」という感覚は、日本のコンテンツ文化を語る中でも共有されました。みっこは自身が好きだった『ラブライブ!』を例に挙げます。
『ラブライブ!』も元々は雑誌の企画から始まったじゃん。だからアニメになるまでのコンテキストがちゃんとあったもんね。
錦市場に見る「そのもの性」の難しさ
来歴としてのそのもの性には厄介さもある、とポーキーは続けます。何をもって「そのもの」と言えるのかが曖昧になるからです。
その例として挙がったのが、京都の錦市場の話でした。以前、土地の地域性はそこで人が実際に生活しているかどうかにあるのではないか、と二人で話したことがあるといいます。
錦通りは外国人にお店を全部塗り替えられて、観光客向けストリートになりましたって言った時に、僕から見たらそのものではないんだが、別にこれがそのものだと捉えられる人もいるから。
つまり、そのものであるかどうかを判断しているのは自分の主観にすぎない、という悩みです。みっこも、探せば必ず文脈は見つかると指摘します。
確かに探せば絶対あるよ、文脈。
そのもの性に出会うには、受け手が掘りにいく精度も問われます。二人は、インタビュー記事を読み込めば見えてくる文脈もあるのではないか、と話しました。
掘らないと、そのもの性自体に出会えないから。ここすごい受け取りづらいなっていうのが、まあやっぱ一個あるよね。
AI時代に何を持って作品を選ぶか
そもそもなぜこんなことを考えたのか。きっかけはAIでした。AIによって誰でも簡単にものづくりができるようになった時代を、ポーキーは想像します。
多くのサービスが機能的には横並びのコモディティになったとき、ユーザーは何を基準に選ぶのか。ポーキーの答えが「そのもの性」でした。
機能的にはどれでもいいものをどう選ぶか。「ああ、もうこの人の思想が乗っかってるやつがいいな」みたいな選び方以外、なんかしようがない。
推理小説が無数にある中で1冊を選ぶとき、最後に残るのは作風やその人らしさだ、という話につながっていきます。
これはセガにしか作れないなとか、これは東野圭吾にしか書けないなとかって思うと嬉しいじゃん。
この考えは、二人が続けるポッドキャストにも跳ね返ってきます。番組もまた数多くある中で、どこでも聞ける話をしても仕方がない、とポーキーは語りました。
「深人間」として、ぱんぴーに生きる
ここから話はぐっとくだけていきます。深いことを言いがちなポーキーを、みっこが「深人間」と名づけたことで、番組らしいやり取りに戻っていきました。
浅いところで動きたくないんだろうね、心が。深く揺れたいんだろうね。
一方で、『K-POP デーモンハンターズ』のように浅く心が揺れるコンテンツも悪くない、という受け止めも共有されました。
『デーモンハンター』みたいな浅く揺れるのも悪くはねえなってね。
番組名は『ちょーぱんぴーラジオ』ですが、深人間を名乗るのはパンピーらしくない、という自己ツッコミも飛び出します。ポーキーは、あえてパンピーが殴り込みに行く姿勢こそ番組の軸だと語りました。
究極的にパンピーであることを追い求めていかないと。でもパンピーにしか出せない味があるんだっていうのをさ、物語にしていかないと。
社会的地位のある人があえてアホなことを言うデメリットを引き受けるなら、自分たちが代弁していくしかない。そんな結論めいた冗談で、二人はこの回を締めていきます。
絶対にポッドキャストで上位のすごい人たちは深人間なんて言わないもん。
最後には、リスナーにも「そのもの性」を意識して作品を選んでほしい、というメッセージが添えられました。
そのもの性をね、感じてほしい。「あ、これはそのものだな」って。
まとめ
この回は、コンテンツを選ぶ基準を「そのもの性」という言葉で掘り下げた雑談でした。形式でしか成立しない表現と、その人・その会社でしか生まれない文脈という2つの軸から、AI時代に人が作品を選ぶ理由が語られています。
- そのもの性とは、その形式やその作り手でしか生み出せない代替不可能性の高さのこと。
- そのもの性には「仕組み」と「来歴」の2種類があり、セーブデータを使った物語などが仕組みの例。
- 『超かぐや姫』や『K-POP デーモンハンターズ』を対比し、日本のオタク文化の文脈が語られた。
- 来歴としてのそのもの性は主観に左右されやすく、受け手が掘りにいく精度も問われる。
- AIで作品がコモディティ化する時代には、作り手の思想やその人らしさが選ぶ基準として残る。


