「ゲームは好きじゃない」プロデューサーが自腹で数千万課金する理由
岡本さんは45年ゲームを作ってきた65歳。名刺には肩書きをつけず、相手が『ストリートファイターII』や『モンスターストライク』を知っている前提で「岡本吉起です」とだけ名乗るといいます。
これあんまり堂々と言えないけど、ゲームプレイそのものは好きじゃないんですよ、僕。
だけどやってる量は誰も負けないと思います。
好きだからではなく、バランス調整のために遊ぶ。特に運営型のスマホゲームでは、複数のアカウントを持って、無課金からフル課金までを自分で試すといいます。
もっと課金する人がいるから。(課金する人の気持ちを)わかろうと思ったら、そのくらいは課金せんと失礼じゃないですか。
トップ課金者が9000万円使うなら、自分も5000万、6000万は使わないと気持ちがわからない。チームの中で課金できる人は俺だけだから自分がやる、という徹底ぶりです。
コナミを知らずに入社、1年半でゲームの作り方を覚えて卒業
岡本さんのキャリアは、ゲームセンター用のシューティングゲーム『タイムパイロット』から始まります。デビューは、まだ社員80人ほどで上場前だったコナミでのことでした。
ゲームあんま好きじゃないとかプレイしてなかったので、(コナミは)一回も聞いたことがない会社だったんですよ。
大阪のデザイン専門学校の学生時代にインターンとして入り、昼間に働くため夜間部へ編入。もともとはイラストレーター募集で、ポスターやロゴを描いていました。
絵を描くうちに「これもできるんじゃないか」と次々仕事を振られ、気づけば企画マン(プランナー)になっていたといいます。
気がついたらプランナーになってるやないか(という状態になっていた)。
コナミにいたのはインターン込みで2年ほど。フルで関わったタイトルは2本。ゲームの作り方がわかった時点で、次のステージへ移ることになります。
コナミ出禁の真相、帰省中の電話で知った「懲戒免職」
コナミ在籍中、岡本さんはヒット作に恵まれて他社からの引き抜きオファーを多く受けていました。転機は、愛媛への帰省中にかかってきた1本の電話でした。
お前昨日クビになったぞって言われたんですよ。
先輩の有馬さんがオーナー社長と喧嘩して辞める際、「岡本も連れていく」と勝手に宣言。本人に相談もないまま、朝礼で2人の懲戒免職が発表されていたのです。
俺の感想はパードンミーですよね。
岡本さんは悪いことをしたわけではないため、履歴に傷が残る懲戒免職を拒否し、自主退職に切り替えてもらいました。この時点では出禁ではなく、むしろ自分は犠牲者だったと振り返ります。
開発2番目でカプコンへ、エース級を引き抜いて「出禁」に
岡本さんが移籍したカプコンは、当時まだ販売会社として立ち上がったばかりで、開発部門は実質存在しませんでした。社員番号は9番、開発では2番目という創業期メンバーです。
開発を立ち上げるには人が必要ですが、岡本さんにはコナミ時代のつながりしかありませんでした。そこでコナミからエース級の人材を引き抜くことになります。
自分たちが会社(開発)を立ち上げる時に、中途半端でできるいいやつとか悪いやつとかっていらないじゃないですか。
エースだけを狙い撃ちで引き抜いた結果、見事に出禁になってしまいます。10年ほど前に当時のオーナーから「仲直りしよう」と言われたものの、いまだにコナミには入れてもらえないと語ります。
お前辞め方が汚かったからなって先輩にも言われて。もう無理よみたいな。
1942、ファイナルファイト、そしてストリートファイターII誕生の裏側
カプコンでの岡本さんは、『1942』『ファイナルファイト』などクリーンヒットを連発しました。中でも爆発的だったのが『ファイナルファイト』です。
『ファイナルファイト』は、実は『ストリートファイターII』を作るための布石でした。ストリートファイターの開発チームが全員SNKへ移籍したため、続編制作を任されたのが始まりです。
どう見ても無理。このタイミングで(格闘ゲームを)売るべきものじゃない。
当時、格闘ゲームというジャンルはまだ存在せず、岡本さんはベルトスクロールアクションで市場を作ろうと考えます。それが大ヒットした『ファイナルファイト』でした。
営業から「ファイナルファイト2を作れ」と言われた岡本さんは、あまのじゃくを発揮。市場が育ったと見て、本命の『ストリートファイターII』の制作に舵を切りました。
今日は売れるよと。でもこれ(今作るもの)1年後売れへんやろがって僕は思ったりするわけですよ。
当時のゲーム会社の「営業」は、ゲームセンターに筐体を売り込む金型商売の担い手でした。開発現場との温度差が、岡本さんのものづくりの原動力にもなっていたようです。
1日6万5000円を叩き出した『ストII』のビジネスモデル
『ストリートファイターII』は、最初から爆売れしたわけではありませんでした。1台あたりの1日の売上は1万円弱。客はついているのに、伸び悩んでいたのです。
(売上が少ないのは)対戦しないからなんですよ。
当時のゲームセンターでは、赤の他人の対戦に割って入って100円を奪うという文化がなく、コンピューター戦が中心でした。日本の市場には10年早すぎたと岡本さんは言います。
流れを変えたのは、あるゲームセンターの店員でした。1台の映像を2台のモニターに分岐させ、向き合って対戦できるようにしたのです。
(対戦したいと)みんな思い始めてった中で、そういうゲーム機を作ってくれたゲームセンターの店員がおられたんですよ。
さらにアーケードゲーム雑誌が毎週特集を組み、対戦格闘というジャンルを盛り上げました。岡本さんは、これらがなければ格ゲー文化は生まれなかったかもしれないと振り返ります。
岡本さんのゲーム作りの根底には、ゲームセンターの経営者を助けるという発想があります。インベーダー時代から50年、1プレイ100円のまま人件費や家賃だけが上がる中で、いかに1時間あたりの売上を増やすかを考えていました。
うまくなる
プレイ時間が短くなり、回転が速くなる
負けても納得
師範代に教えを請う感覚で「ありがとうございました」と去る
勝てば続行
100円で勝った側はそのまま次の対戦へ
行列が絶えない
後ろに人が並び、100円が次々に投入される
結果、1台あたりの1日の売上は6万5000円ほどに。約20万円の筐体がすぐ回収できる水準で、みんながウィンウィンになるビジネスが完成しました。
ハメ技の危機を救った「紳士協定」と、格ゲーブームの終焉
岡本さんは対戦格闘のバランスを、1年間かけて技が極まっていく前提で設計していました。連打系・溜め系・コマンド系のキャラを用意し、人気の移り変わりまで読み切っていたといいます。
ところが、想定外の「ハメ技」が発生します。特定の順番で技を入れると相手が絶対に返せない、いわば調整ミスでした。
(ハメ技を出されたら)まあ頭真っ白になりますね。やっちゃったっていう。
これを救ったのは、ユーザー自身でした。恥ずかしい技として自主的に封印し、出してしまったら謝って自由に殴らせる、という紳士協定が生まれたのです。
対戦格闘する人たちのそのジェントルマンぶりに救われたんですよね。終わってますもん、ゲームとしては。
一方で、SNKとの新作の出し合いが格ゲーブームを終わらせていきます。互いに年2本ずつ出すと、1タイトルを極める時間がなくなり、負のスパイラルに陥りました。
うちが出さないと相手側が勝つだけなので、チキンレースみたいになって。
最終的にSNKは倒産しますが、カプコンも無傷ではいられませんでした。さらにプレステ1のRAM容量の制約が、大きなキャラを使う2D格闘ゲームの移植を難しくしていきます。
RAM倍積めば余裕でいったんですけど、それがないから、もうほんといつまで開発しても完成しないんですよ。
辞めるはずが残り、カプコンを救った『バイオハザード』
格ゲーブームが去り、カプコンが厳しかった時期に始まったのが『バイオハザード』でした。開発していた同期の藤原得郎さんが、完成間際に会社を辞めてしまいます。
実は岡本さん自身も辞める相談をしている最中でした。しかし先に藤原さんが辞めたことで、アーケードとコンシューマーの両方を見る開発本部長として残るしかなくなります。
先に辞められたら残るしかないんですよね。
残った岡本さんに、作りかけの『バイオハザード』が回ってきます。2週間ほど触り込んで、岡本さんは決定的な問題に気づきました。
これは、この館から脱出するゲームなのに、インクリボンを探すゲームになってると。
怖さゆえにセーブ用のインクリボンばかり探すゲームになっていたのです。岡本さんはインクリボン1個で複数回セーブできるよう変更し、恐怖を楽しむゲームへと調整していきました。
岡本さんは、あえて操作しづらいUIを残すという判断もしました。ゾンビをうまく避けられないもどかしさが、かえって恐怖を高めると考えたからです。
初めてこの小難しい操作をわざわざ生かしたわけですよ、僕の人生の中で。
岡本さんは、この怖さを吊り橋効果になぞらえます。プレイ中は嫌なのに、手を離すと「面白かった」と感じる。その心理を作品がうまく踏襲できていたといいます。
欠品気味の法則、ロングテールで100万本に届いたバイオ
発売直後の『バイオハザード』は、全く売れませんでした。爆発的なスタートではなく、毎週じわじわと売れ続ける形だったといいます。
地味に地味に地味に売れた。毎週。怖いぞ怖いぞつって。
鍵となったのが「欠品気味の法則」でした。初期ロットを小さくしたため店頭で売り切れが続き、その品薄感がかえって購買意欲を刺激したのです。
初期ロットが小さい
発売直後から店頭で売り切れが続く
品薄が噂を呼ぶ
「3軒回っても買えない」という状態が話題になる
小刻みに追加発注
店側が控えめに発注し、また売り切れる
尻尾が長く続く
山のあとも低く長く売れ続け、100万本に到達
結果、『バイオハザード』はプレイステーション1で初めての100万本タイトルとなり、間違いなくカプコンの救世主になったと岡本さんは断言します。
これがカプコンにとって本当に救世主だったですね。
新ハードは「地獄」、マーケットの先読みで勝負を決める
岡本さんは、コンシューマーの面倒も見るようになり、続編の『バイオハザード』シリーズや『ロックマン』など多数のタイトルを統括していきます。自身は下手だと言いつつ、下手な人でも楽しめるゲームこそ良いゲームだと語ります。
下手くそな人間が不満に思わないで遊べるゲームっていいゲームですよ。
岡本さんが繰り返し強調するのは、数年先の市場を想像する力です。開発に数年かかる以上、完成する頃の市場を読めるかどうかで勝負が決まると言います。
マーケットをかなりリアルに想像できるかどうかで勝負が決まります。
さらに難しいのが、新しいゲーム機の存在でした。前世代で勝ったメーカーが次も勝つとは限らず、ほぼ同時に各社の新ハードが登場するため、どこに注力するかが最初の地獄になります。
今任天堂が当たってるから次回任天堂が当たるじゃないんですよ。次はもう一回リセットされるんですよ。
2つ目の地獄は、当たるハードを引いても、普及台数が少ないうちは市場そのものが小さいことです。100万台しか出ていなければ、大ヒットしても100万本が上限になります。
岡本さんのカプコン時代は、この不確実性に対して、ソニー・任天堂・マイクロソフトへ3対2対1の比率でビッグタイトルを振り分けていたといいます。
17億円の借金地獄、久夛良木ショックとリーマンショック
20年近く在籍したカプコンから、岡本さんは独立を選びます。決め手は、新しいハードが出るタイミングでしか新規の開発会社に仕事が回ってこないという業界の構造でした。
独立するタイミングはそこしかない。(スクウェアの)坂口さんとかも同じタイミングで(独立して)受けてるんだけど、みんなそのタイミングで仕事が出るからですよ。
2003年ごろ、岡本さんはゲームリパブリックを設立。ソニーと組んで『源氏』などを作りますが、華々しいスタートではありませんでした。
転機はプレイステーション3の不振です。開発責任者だった久夛良木健さんが責任を取る形になり、その息のかかったメンバーや下請けは仕事を失っていきました。
仕事を失って焦った岡本さんは、アメリカの映画ファンド系の大手企業に「全振り」します。ところが今度はリーマンショックが直撃し、その会社が倒産してしまいました。
卵を全部一つのカゴに入れたら、そのカゴがバーン転んだんですよ。
銀行から契約書をもとに借りていたつなぎ資金が、17億円分そのまま焦げ付きます。連帯保証付きの借金だけが、岡本さん個人に残りました。
返済しながら仕事を受ける、綺麗な負のスパイラル
岡本さんは終わりにせず、バンダイの宇野沢さんに頭を下げて仕事をもらいます。しかし、ここからが本当の地獄でした。
借金を凍結できないため、同じ金額の仕事でも、受け取ったお金から返済分と金利が引かれていきます。役員報酬をゼロにし、私財を会社に貸し付けても、元本はなかなか減りません。
経営者の失敗で十七億借金があるから、お前らも一緒に払えって言われてるわけですよ。
待遇が悪化すれば、優秀な社員から辞めていきます。空いた穴を埋める人材の質が下がり、作品のレベルが落ち、発注が減る。岡本さんはこれを「綺麗な負のスパイラル」と呼びます。
さらに労働基準法上、開発後半で無理をした社員ほど代休や有給が溜まります。休んでいる間も給料は発生し、収入がないのに支出が増える構造でした。
また借金をして、また払うわけですよ。
この苦境は4年ほど続き、最後はチームの仕事が終わるたびに全員をリストラ。最終的に社員は岡本さん一人になり、連帯保証17億円だけが残りました。
1日300円生活で3年、携帯アプリを研究し尽くす
一人になった岡本さんは、会社を畳まず、返す算段を考え続けます。ボードゲームや受託も検討しましたが、たどり着いたのは成長市場である携帯アプリでした。
これからマーケットが大きくなるのは携帯アプリだな(と考えた)。
当時はまだガラケーで『怪盗ロワイヤル』が流行り始めた頃。岡本さんはここから携帯アプリを寝る間も惜しんで研究する日々に入ります。
冒頭で語った自腹課金とは対照的に、この時期は無課金に近い状態でした。月3000〜6000円のなけなしのお金でガチャを回し、食費は1日300円以内と決めていたといいます。
食費代、僕は三百円の時代ですからね。
40代後半から50代前半での貧乏生活。それでも岡本さんは、しっくりこないままプレイすることが逆に勉強になったと振り返ります。
(ヒットしたゲームが)来たら自分のやったこと全部正しいと思うじゃないですか。でも来なかったらいっぱい間違えてんだってわかるじゃない。
結果として、携帯アプリの研究は3年ほど続きました。この間、元の会社に相談役として関わり、運営を手伝いながら肌感を磨いていったといいます。
娘名義の「箱」とmixiから、モンスターストライク始動
研究の末、東京の開発拠点をリストラで失った岡本さんは、たまたま娘が名前だけ持っていた「デラゲー」という会社を活用します。切られたメンバーを集め、もう一度勝負をかけることにしました。
切られたから、このメンバーを集めて、もう一回じゃあ勝負かけるかみたいなところで、営業行ったり無理やむやにやったのがそのミクシィですよ。
営業でミクシィに入り込み、生まれたのが『モンスターストライク』です。番組内では岡本さんが冗談で「モンスピ」と呼び、パーソナリティが言い間違えるやり取りが続きました。
開発期間はわずか6ヶ月と28日。ベンチマークはPSPの『モンハン』で、近くにいる4人をつなぐ仕組みを、Bluetoothから最終的にGPSへと変えていきました。
たった七ヶ月で作ってる。(近所の4人を確実につなぐことを)それをボスにしてますから、一回。
AppleとGoogleで通信仕様が異なり、当時多かったAppleに合わせてAndroidを切ることまで検討したといいます。GPS採用で位置情報の偽装という新たな課題も生まれました。
待ち時間問題を解いた「神の一手」ダメージトレジャー
開発の終盤、岡本さんは最後の大きな壁にぶつかります。4人プレイで自分のターン以外の3人が暇になり、継続率が下がってしまう問題でした。
待ってる三人は暇ですよね。イライラしますよね。イライラしてやめますよね、ゲーム。
1週間ほど解決できずにいたとき、ミクシィの楠井さんが「一定以上のダメージでお金などが落ちる」というアイデアを出します。これが「ダメージトレジャー」でした。
(ダメージトレジャーで)あれは落ちるの待ってるからここ見てるんですよね、ずっと。
このひとつの仕組みが、複数の問題を同時に解決しました。岡本さんはこれを、自分の中の最後のパズルが埋まった瞬間だったと語ります。
待ち時間の退屈
自分のターン以外も画面を見続ける理由になる
広告効果
電車内などで独特の操作がプレイの目印になる
マルチへの誘導
マルチ時だけ落とし、対戦を促せる
ガチャの緊張感
卵が落ちるタイミングが課金の高揚感につながる
岡本さんは、いいところまで来てるのにリリースできないかもという状態から救われたと振り返り、アイデアを出した楠井さんに深く感謝しています。
もうお前の一生分の身代(給料)俺が払うわって言ってます。
リリース前から「世界2位になる」と読み切っていた
岡本さんは、リリース前から手応えを確信していました。どれくらい売れるかと問われて、明確に「世界2位の売上になる」と答えていたといいます。
どれぐらい売れるんですか?って聞かれて、世界二位の売上になるよって言ってますから、ちゃんと。
1位はまだ配信されていなかった『クラッシュ・オブ・クラン』になると読み、それには勝てないと判断。触ればその理論値がわかると語ります。
これはこういう仕組みだから、こっちの方が理論値行く。
実際に『クラッシュ・オブ・クラン』が1位、『モンスターストライク』が2位となり、岡本さんの読み通りの市場になりました。
想定外だったのはサーバーでした。「世界になる」規模を岡本さん以外は想定しておらず、リリース直後からメンテナンスが続く事態になります。
だからもう一番落ちたゲームじゃないですか、初期で。
広告を打たなくても人が入り続け、パッチを当てても2日でサーバーが落ちる。当時のiPhone 3でも動かすなど、ぎりぎりの技術で作られていたことも明かされました。
ハングリーであり続けるため、月給15〜30万で働いた
大ヒット後も、岡本さんは自分を追い込みました。やりきったと思わないために、報酬をあえて受け取らなかったのです。
ならないようにするために給料取らなかったですよね。
ミクシィ入社直後、岡本さんの月給は15万から30万の間。リアルに貧乏でいなければハングリーさは出ないという信念からでした。
リアル貧乏にしておかないとハングリーさって出ないですよ。
この状態を続けたのは、成長のピークを2年4ヶ月後と想定していたからです。実際は予想を超えて伸び、貧乏生活は前の3年と合わせて5年半ほどに及びました。
岡本さんは、この時期を苦痛ではなかったと言います。当たるとわかっていて、報酬はいつでも受け取れるからこそ、あえて後回しにしていたのです。
月給1000倍、社員も毎月昇給させた「山賊システム」
番組の締めで語られたのは、給料の跳ね方でした。月給30万が翌月には3億に。倍率にしておよそ1000倍というインパクトです。
一気に千倍になったっていうのは、さすがにね、僕の中では(一番の伝説です)。
さらに岡本さんは、自分だけでなく社員の給料も毎月上げ続けました。頑張った分を分け合う「山賊システム」と呼び、会社にお金を残すことは考えなかったといいます。
みんなで(山)分けしようぜ。頑張った分だけ分けようぜみたいな話になって。
昇給の刻みは、100万台では5万、400万を超えると100万、2000万を超えると500万と大きくなり、中には年収20億円ほどに達した社員もいたといいます。
岡本さんの根底にあるのは、オーナーでなくても活躍した分だけ受け取れるべきだという考えです。桜井政博さんや宮本茂さんのような天才には敵わないと認めつつ、才能がなくても諦めない姿勢を貫きます。
天才・桜井政博の「体力ゼロは変数」という発想
45年の中で岡本さんが「やばい」と感じた作り手として挙げたのが、スマブラの桜井政博さんです。才能と切り口、そして常人離れしたストイックさに舌を巻いたといいます。
桜井君違うんですよね。俺こんなに悪いことした?って聞くんですよ。コンボ決められてる時に。
体力ゲージがゼロになったら負け。誰もが定数と信じている前提を、桜井さんは「それは変数ですよ」と問い直したといいます。
体力ゼロになったからゲームオーバーって決める必要ないでしょっていう風に言うわけですよ。
この「定数を変数に変える」という発想は、パーソナリティが語る起業家の役割とも重なります。岡本さんは、思い込みをひっくり返せる人は強いと語ります。
桜井さんのストイックさも別格でした。運動不足を避けるため、自転車を漕ぎながら仕事をし、一人でスマブラの対戦テストをしていたといいます。
自転車漕ぎながら一人で対戦するんよ。
岡本さんは、桜井さんや宮本茂さんのような天才が集まる任天堂とは正面から戦わない戦略を取ってきました。強い相手のいない市場を選ぶという考え方です。
俺より才能がないやつしかいないところで勝負する。任天堂がいないところ、いないところを狙って勝負してますね。
ゲーム引退と建築家への転身、マレーシアでの新しい生き方
岡本さんは来年66歳で、しっかりしたゲーム開発からは引退すると語ります。次に選んだのは、少年時代からの夢だった建築の道でした。
俺のことは知らなくても、俺の建築物は残るから。
本当にやりたいのは街のデザイン。統一感のある街並みを作るため、古戸建てをアメリカンハウス風にリノベーションする「古戸建てリノベーション大阪株式会社」を立ち上げています。
現在の拠点はマレーシアのジョホールバル。部下に海外で戦えと言い続けた岡本さん自身が海外未経験だったことがきっかけで、約50人で移住したといいます。
お前ら海外出て戦えよって言ってた。よくよく考えたら俺出たことなくって。じゃあ俺も出るべって。
気候が安定し、飯が安くうまく、税率も交渉次第という点が魅力だと語ります。所得税は交渉で15%まで下げてもらったといいます。
岡本さんの家は東京ドームの敷地の3分の1ほどの広さで、常に来客が絶えません。かつてゲーム業界で助けられた恩を返すため、若手を居候させ、仕事や勉強を教えているといいます。
僕は今までゲーム業界で随分お世話になって助けられたから、育てられたから、今度お返しするタモに入ってて。
一方で、インディーゲームは趣味として続ける予定です。AIを駆使してコードを一行も書かずに作れると語り、著作権のグレーゾーンにも独自の見解を示しました。
その定数の部分を変数に変えるのが俺の仕事だから。桜井君みたいにひらめかないけど、僕なりにやってるよってことですよ。
まとめ
岡本吉起さんのキャリアは、コナミ出禁からカプコン創業、17億円の借金と1日300円生活を経て、モンスターストライクで世界2位を獲るまでの波乱に満ちたものでした。一貫していたのは、市場を先読みする力と、定数を変数として問い直す姿勢です。
- ゲームは好きではないが、バランス調整のために誰よりも遊び、自腹で数千万を課金してユーザー心理を理解する
- ストIIやバイオハザードのヒットは、対戦文化の芽生えや品薄感など、偶然と読みが噛み合った結果だった
- 17億円の借金を背負っても会社を畳まず、1日300円生活で携帯アプリを3年研究し、モンストで再起した
- モンストは開発7ヶ月で、待ち時間問題を解いた「ダメージトレジャー」が最後のピースとなり、世界2位を実現した
- 自分も社員も報酬を跳ね上げつつ、桜井政博らの天才には正面から挑まず、才能がなくても諦めずに定数を変数へ変え続けている





