なぜ国語の授業で絵を15分も見せるのか?
笠原さんは高校で「論理国語」を担当し、今は随筆を書く単元を進めています。その単元で、随筆を書く前の段階として、1枚の絵を15分ほどじっくり観察させています。
使っているのは、黒と茶色ばかりの抽象的な絵です。生徒は黙って眺め、見たものを言葉にしてノートに書いていきます。笠原さんによると、やってみると生徒は、事実として見ていたものに自分の解釈が混ざっていたと気づき始めるといいます。
黒と茶色ばかりの抽象的な絵を1枚ただ黙って眺めてもらうんですけど、やってみると、自分が事実として見ていたものにもう自分の解釈が混ざっていたと生徒の方が気づき始めるんですよ。
笠原さんは、この回を「国語の授業は教科書を読んで解説を聞く時間だ」と思っている人にこそ聞いてほしいと話しています。収録時期は勤務校の文化祭直後で、行事で慌ただしい中での授業だといいます。
50分授業のうち15分を観察に使う理由
笠原さんにとって、50分授業の15分はおよそ3分の1にあたる長さです。普段なら1つの活動が丸ごと終わる時間を、ただ見て書くだけに使うのは「授業としては結構むちゃくちゃな時間の使い方」だと笠原さん自身も認めています。
授業の中で一番高くつくものって時間なので、(授業の)進度の話を出されると結構腹が痛いところがありますね。
それでも観察の時間を取るのは、書けない生徒のつまずきはだいたい書く前にあるというのが笠原さんの考えだからです。そのうえで、授業の成否は絵の選び方に大きく左右されると話しています。
選んでいるのは、パッと見ただけでは何が描かれているかわからない抽象画です。色がほとんど黒と茶色なので、普通に眺めると真っ黒な画面に見えます。
ところが、じっくり見ると絵には濃淡が隠れています。隣の友達に「ここが濃くなってるよ」と言われて「ああ、本当だ」と気づくように、言われた瞬間に見えるようになる体験がよく起きるそうです。
さらにこの絵には、小さな字でドイツ語のタイトルが書かれています。笠原さんによれば、200人ほどに見てもらって気づけたのは1人くらいでした。見ようとしても見ていないものが多いことの、いい証拠になったといいます。
同じものが「人間」「女の子」「人形」に分かれる瞬間
絵選びのもう1つの仕掛けは、描かれたものが一つ一つ抽象的であることです。同じものを見ても人によって違うものに見える絵を選び、15分の観察後に、見たものと考えたことを生徒同士で対話させています。
笠原さんが一番面白いと感じるのは、絵の中の人の形らしきものの呼び方の差です。同じ一つを指して、ある生徒は「人間」、ある生徒は「女の人」、別の生徒は「女の子」や「人形」と呼びます。
ただ、生徒同士の話し合いでは、この呼び方の違いがきれいにスルーされていきます。互いに同じものの話をしているつもりなので、見方がずれていることに気づかないのです。
そこで笠原さんは、話し合いに割り込みます。「今女の子って言ったけど、隣の人は人形って言ってたよね」と指摘すると、生徒は「あ、本当だ」となるそうです。
(割り込むのを)何度か繰り返していると、生徒同士の間に話し合ってる時に、「え?それってそういうことなの?」というふうに自分たちで気づけるようになる瞬間ができてきますね。
笠原さんは、自分の当たり前が隣の人には違って見えていたとわかる瞬間こそ、授業で見ていたいものだと話します。見立てが揺さぶられる知的な刺激を一度味わうことは、国語に限らず大事だと考えています。
事実を書いたつもりが、もう解釈だった
笠原さんは、呼び方がばらけるのは語彙力の差ではないと指摘します。「人形」と書いた瞬間に作り物だという解釈が入り、「女の子」と書けば性別や年齢の解釈が入り込んでいるからです。
最初の一語の違いは、その後の文章の筋まで変えていきます。人間として見た生徒は人物の気持ちや事情へ、人形として見た生徒は「誰が動かしているのか」へと考えが向かいます。
同じ絵を見る
出発点はみな同じ人の形らしきもの
一語を選ぶ
「人間」か「人形」かで解釈がすでに入る
筆の向きが変わる
人間なら気持ちや事情、人形なら誰が動かしているか
別の文章になる
文章全体の筋が分かれていく
笠原さんは、SNSでは国語の授業が「作者の気持ちを答えるもの」と思われがちだとしたうえで、この授業はむしろ逆だと話します。作者の主観ではなく、自分がどう見たかを言葉にし、その言葉がすでに解釈を含んでいると気づくことが狙いです。
絵を1枚15分も眺めてもらっているのは、その(自分という)フィルターの存在に気づいてもらうような授業をしたかったからなんですね。
書く前に何を書くかを見つける段階を、国語科では「想」と呼んだり、昔のレトリックの言葉でインベンション ── 古典的な修辞学(レトリック)で、論じる内容や論拠を見つけ出す段階を指す用語。日本語では「発想」「構想」などと訳されますと呼んだりするそうです。笠原さんは、書き出す手前で実はかなりのことが決まっているという感覚を持っておきたいと話しています。
論理国語に「ミロのヴィーナス」が載る事情
ここで笠原さんは寄り道として教科書の話に触れます。今回の単元で学習材にしているのは、教科書に載る随筆「ミロのヴィーナス」です。国語の定番教材なので、昔の教科書で読んだ人もいるかもしれません。
笠原さんは、論理国語という科目と随筆の相性の悪さを感じているといいます。論理国語が求めるのはレポートや学術論文に近い、筋道を立てて読み書きする力だからです。
なぜ随筆が論理国語に載っているのかについて、笠原さんの見立ては「長く読まれてきた定番だから」というものです。一番ふさわしいから積極的に選ばれたのかは怪しいとしつつ、検定を通っている以上、何かしらの論理は学べるという理屈にはなると話しています。
定番教材が載り続ける事情として、笠原さんは日本経済新聞の記事を紹介します。必修科目「現代の国語」について、文部科学省は当時、小説が入る余地はないという立場でした。
ところが最初の検定では、小説を載せた教科書を出した出版社が合格し、シェア1位になりました。その小説は芥川龍之介の作品のような定番中の定番で、方針に従って小説を外した会社からは「正直者がバカを見た」という声が出ていたと記事は伝えています。
笠原さんはこの一件から、教科書に何が載るかは教材としての適切さだけで決まるわけではないと見ています。そのため、掲載されたものに文句を言うより、随筆を論理国語でどう扱うかを考えるほうが建設的だと考え、レトリックの技術を切り口にしています。
二郎系ラーメンのパロディ随筆に込めた仕掛け
笠原さんは単元の最初に、自分で書いた随筆を生徒に読ませています。「ミロのヴィーナス」のパロディで、題材は二郎系ラーメンです。
この随筆では、二郎系のやたら多いローカルルールを事細かに説明し、登山家ジョージ・マロリーの言葉をもじって「そこに野菜の山があるから食べる」と野菜マシマシの話に持っていきます。締めの一文は次のようなものです。
あらゆる困難を乗り越え、苦悶すらも飲み干す一杯として、二郎系ラーメンは野菜、ニンニク、油、カラメ、マシマシの夢を奏でるのである。
この一文は「ミロのヴィーナス」の最後の一文のパロディになっているため、生徒にウケるそうです。ただし笠原さんは、ウケ狙いに見えて仕込みはあると話します。
仕込みの1つは、学習材と同じ「知識によって相手を説得する」レトリックの形にしていることです。もう1つは、視覚だけに頼らず五感で書くお手本です。匂いも味も触覚もあるからこそ、題材はラーメンなのだといいます。
単元の最初は笑って終わりでも、自分で随筆を書き始めてから読み直すと、技術のお手本として読めるはずだと笠原さんは考えています。
自作を渡すのには、この課題が書けるものだと示し、授業者自身も楽しんでいると見せる意味もあります。「ラーメンの話でいいんだ」「こんなにふざけてもいいんだ」とわかるだけで、題材選びや遊び心のハードルが下がるといいます。
型を渡すと、なぜ作文は金太郎飴になるのか?
笠原さんにはまだ悩みがあります。ワークシートで一つずつ穴を埋める形にすると生徒は書きやすくなりますが、同じ手順を指定すると、出てくる文章も大体同じところに収まってしまうのです。
ただ、観察をしっかりやれた生徒は型に振り回されにくいといいます。自分のこだわりが見えてくると「こういう順番で書きたい」という形が立ち上がり、ワークシートが足場として骨格を通す役に立つからです。
逆に型に振り回される生徒は、書くことが見つからないまま穴埋めから作文を始めてしまいます。記入例が効きすぎて、お手本どおりの金太郎飴のような文章になるのだといいます。
書きたい順番が先にあり、型が足場となって文章に骨格が通る
穴埋めから始め、型に考えが引きずられてお手本どおりの文章になる
笠原さんは原因を生徒ではなく、観察や構想を練る時間を十分に取れていないことにあると見ています。クラスによって授業回数が違い、観察と下書きに時間を割けないクラスが出てしまっているそうです。
手応えを持たせることと、苦しんで自分の表現を探すことは綱引きだと思ってるんですけど、多分順序の問題でもあるんですよね。
型は書きたいことがある生徒には整理の道具になりますが、ない生徒には書きたいことの代わりになってしまうことがあります。一方で、穴埋めが「自分も書けるかもしれない」という手応えにつながる面もあり、示す順番は悩ましいと笠原さんは話しています。
生成AIは言葉探しの道具になるのか?
似た作文が並ぶ場面はもう1つあり、それは生徒が安全策に置きに行くときだと笠原さんはいいます。形は整い難しい表現も並ぶのに、具体的な体験や観察がなく、名前を他の人に変えても通じてしまう文章です。
笠原さんは、生成AIがこの安全策をかなり加速させている側面があると見ています。随筆の指導では言い換え表現を多く探すことが語彙の指導として大切なので、AIに豊富な言い換えを出させることも試しましたが、いまいちだったそうです。
言い換えを探す時にAIに聞くと提案に引っ張られがちになるんですよ。
さらに、AIの出す言葉や生徒が選びがちな言葉には傾向があり、結果的に金太郎飴になるといいます。プロンプトで細かく指定すればましになるとしても、言葉を探す道具としては向きにくいかもしれない、と笠原さんは感じています。
代わりに笠原さんが良いと感じているのは、オンラインの類義語辞典を生徒に眺めてもらうことです。普通の辞書とは違う配列の一覧を「違う、これも違う」と探していく時間が、言葉と向き合う身体的な感覚として残るといいます。
提案に引っ張られやすく、選ぶ言葉に傾向が出て似た文章になりがち
遠回りして探す時間が、言葉と自分の実感をつなぐきっかけになる
笠原さんはこれを、記号接地 ── 記号(言葉)の意味が、身体感覚や実体験とどう結びつくかという問題。AIや認知科学の分野で「シンボルグラウンディング問題」として論じられてきましたと呼ばれる問題にも関わる話かもしれないとしています。記号接地
速く書ける時代だからこそ、書く手前に時間を割く
授業でAIを散々使っている笠原さんですが、言葉を探す場面では遠回りのほうが良い場合もあるというのが最近の実感だといいます。ICTや生成AIの授業活用自体は、これからも増やすべきことだと考えています。
早く形になる道具が増えるほど、書く手前で立ち止まって考える時間というのをわざわざ授業で作る必要があるんだろうなと思います。
笠原さんは、書く行為が速くなるなら、その手前に時間を割けるようになるとも話します。絵を15分見る時間を取ったのは半分は危機感からですが、AIで書くところが速くなったからこそ、読むことや見ることに時間を割けるようになった面もあると考えています。
手引きはバイキング式、本当に求めるのは往復
笠原さんは今ちょうど、最終課題の随筆を書くための手引きを生徒に渡したところです。手引きには、自分の知る書くことのコツを後出しせず全部入れています。
ただし、手引きの全部を使う必要はないという形式にしています。笠原さんはこれを「ホテルの朝食バイキングみたいな感じ」と表現し、目標に照らしてどれを選ぶかが本人の学びのポイントだと話します。
行事で授業が飛び石になっているため、笠原さんは休みの多い時期に生徒が自分でじっくり考えて書いてきてくれたら嬉しいと話しています。そのうえで本当に望んでいるのは、書くことと観察の往復です。
一つ一つの流れが短くなってもいいので、戻るという経験をまあしてほしいなと思ってます。
笠原さんは、うまくいくかはまだ全然わからないとし、結果はまた機会があれば話したいと締めくくりました。エンディングでは、10月の教育系ポッドキャストの日に企画を行う予定であることにも触れています。
まとめ
この回では、随筆を書く前に抽象画を15分観察させる授業を通して、事実のつもりの言葉に解釈が混ざっていると気づく大切さが語られました。型や生成AIで文章が似通う悩みを抱えつつ、笠原さんは書く手前の時間と、書くことと観察の往復を重視しています。
- 黒と茶色の抽象画を15分眺め、同じものの呼び方の違いから「事実のつもりが解釈だった」と気づかせる
- 最初に選んだ一語が、その後の文章全体の筋を変えていく
- 論理国語の随筆教材は、二郎系ラーメンのパロディでレトリックと五感の技術を示す切り口で扱う
- ワークシートの型は観察の後なら足場、書くことがないままだと金太郎飴の原因になる
- 言葉探しはAIより類義語辞典の遠回りが有効な場合もあり、書くことと観察の往復を望んでいる




