行き着く先はみんな「角」?ハイボール談義から
今回の晩酌で夫が選んだのは、自作の角ハイボール。海外で知多や宮城峡などの高級ウイスキーを飲んでも、結局はここに帰ってくると話します。
結局ね、行き着く先はみんな角なのよ。
妻が「何が違うの?」と聞くと、夫は飲みやすさ、バランス、食事への合わせやすさを挙げ、オールマイティーさが魅力だと語ります。
その癖も美味しいは美味しいんだけど、結局帰ってくるんだよ、角に。
ところがここで妻が素朴な疑問を投げかけます。瓶のどこにも「角」とは書いておらず、「サントリー」としか書いていないというのです。
どこに角って書いてあるの?
カクカクしてんだよ、瓶が。
正式名称は「角瓶」で、店でも「角ハイ」と呼ばれているものの、メーカー自身は「角」と一言も言っていない。ふたりとも「なんで角って言うんだろう」と首をかしげたまま、本題へ移ります。
どこでも使われる「寄り添う」への違和感
今回のトークテーマは「寄り添うとは何か」。夫が長く温めてきた、かなりガチめのテーマです。
このネタはですね、結構ずっと温めてるというか、何回も。
夫はまず、対人支援職において「寄り添う」がとても美しく、理想的な姿勢とされていることに異論はないと確認します。そのうえで、この言葉が「それさえ言っておけばいい」くらい多用されている点を問題にします。
患者に寄り添った医療、生徒に寄り添える教師、市民に寄り添った政治家、お客さんに寄り添った接客。夫はありとあらゆる場面で「寄り添っときゃいい説」があると指摘します。
もうありとあらゆる場面で寄り添っときゃいい説あるじゃないですか。
そんな漠然とした言葉を使っておけばいい、という風潮に対して、夫は強い違和感を持っていると打ち明けます。
両方に寄り添うことはできるのか
違和感の出所として、夫は自身の産業医という仕事を挙げます。事業者と従業員のウィンウィンを目指す、両方に寄り添う、といった言われ方をよくするそうです。
ただ、夫は「両方に同じように寄り添うことはできない」と言います。事業者と従業員の利害が相反するとき、寄り添いつつなんとかする、という矛盾した感覚が気持ち悪いのだと話します。
両方に寄り添うことはできないわけですよね。寄り添い寄り添うなんてことは。
さらに夫が気にするのは、何をもって「寄り添った」とするのかがあいまいな点です。自分が寄り添ったつもりでも、相手はそう感じていないかもしれない、と。
寄り添うはそもそも「一方通行」なのでは
妻はここで、「寄り添う」という言葉自体がそもそも一方通行なのではないか、と応じます。一方通行だという自覚があれば、使ってもいいのではという立場です。
寄り添うということ自体がそもそも一方通行であるっていう自覚があれば、別に使ってもいいんじゃない?
一方で妻は、寄り添う=ウィンウィンや対等、お互いのためになっている、と思い込んでしまうと危険だと注意します。こっちが寄り添ったつもりでも、相手はそう思わない可能性があるからです。
夫はここで論点を絞ります。複数の関係者がいる話は一旦置いて、対個人の場面に限定しようと提案します。
夫の見立てでは、「寄り添う」には権力や情報の非対称性が前提にあります。対等というより、情報やサービスを持つ側が相手の立場に寄せていく、というニュアンスです。
対等感っていうよりは、なんか言い方悪いけど、寄り添ってあげるじゃないけど、ちょっと相手側の立場に寄せるみたいな。
「寄り添われた」と感じるのはどんな時か
夫はクエスチョンを立てます。服を買いに行ったとき、生徒だったとき、「寄り添ってもらえた」と感じることはあるだろうか、と。
寄り添われた接客や、寄り添った指導を感じる時ってあるんだろうか?
夫 さんから
これに対して妻は、逆に「寄り添われていない」と感じた経験をまず思い出します。あるディーラーで、若い男性ばかりのオフィスに妊娠中に行ったときのことです。
ちょっとした一言にせよそうだし、椅子の準備だったりもそうだし、そういうのが全然こっちに寄り添った言葉みたいなのが全くないし。
反対に「寄り添われた」と感じたのも、妊娠中の経験でした。頼んでもいないのに、店側が配慮してくれた場面です。
妊娠中に、例えばなんか「クッション使いますか?」とか「毛布使いますか?」とか、「デカフェもありますよ」みたいな感じで。
ポイントは、自分から「配慮してほしい」と言ったわけではないのに、相手のほうから歩み寄ってくれたと感じられたことでした。妻はここでも、寄り添うはあくまで一方通行なのだと確認します。
だからあくまでも一方通行なのよ。こっちが何かを頼んだとかじゃないんだけど。
自分のスタンスを一旦置いて相手に沿う
妻は、寄り添うの中身をより具体的に言葉にしていきます。たとえばコーヒー屋なら「これが売り」「今の推しはこれ」という自分の立場が必ずあるはずです。
それを一旦差し引いて、妊婦でもコーヒーを飲みたい人、ゆっくりしたい人に合わせた一言や選択肢を出す。それが寄り添いの一つではないか、と妻は言います。
自分の一番こうしたいっていうのを一旦置いて、相手に少し合わせたような一言を言ったりとか、何かを選択肢として提示したりとか。
ただし妻は、それは完全に相手の味方をすることでも、ただ共感を示すことでもないと補足します。自分のスタンスは持ったまま、一旦それを置いて相手が今欲しい言葉や選択肢を示す、という整理です。
自分の立場は持ちつつ、一旦置いて、相手が今欲しい言葉や選択肢を示す
完全に相手側につく、あるいはただ気持ちに同意するだけの状態
「寄り添いつつ」というキーワード
話は精神科の現場でよく使う言い回しに及びます。妻は「本人の意思に寄り添いつつ、こちらの選択肢としても提案していく」という言い方を、自分もよく使うと話します。
本人の意思に寄り添いつつ、こちらの選択肢としても提案していくみたいな。
夫はこの「寄り添いつつ」という表現に強く反応します。「寄り添ったけれど」でも「寄り添いながら」でもない、独特のニュアンスがあると気づきます。
寄り添いつつって面白いね。寄り添ったけれどとか寄り添うがでもないもんね。
ここで夫の中に一つの理解が生まれます。寄り添うことが全てじゃないんだという気づきです。
完全に寄り添いたいわけでもないし。完全にそっちに味方したいわけじゃないから。
妻は、「寄り添いつつ」の次に来るのは、こちらが「こうした方がいい」と考える道や方向性だと説明します。相手の意向と自分の方針が一致していないときにこそ、この言葉を使うのだと言います。
精神科的には、相手のペースやタイミングを尊重することが前提です。何歩か先が見えていても、今は言うべきタイミングではないと判断し、本人のタイミングに合わせて後から提案していく、という姿勢です。
「寄り添う」はゴールではなく手段
夫が英語での表現を調べると、stand by someone、be supportive、empathize with someone の3つが出てきます。妻は、自分がさっき言ったニュアンスがそこに分解されていると受け止めます。
そのうえで妻は、大事な整理を口にします。寄り添うことは、そもそもゴールではないという見方です。
寄り添うっていうのはゴールではないのよ。多分。
寄り添うために何かをしているわけでも、寄り添うこと自体が目的でもない。何かのために妥協して寄り添っているわけでもない、と妻は言います。
夫は「寄り添いつつ」の感覚をこう言い換えます。寄り添うことはメインではなく、その姿勢を取りつつ本来やるべきことがある、という構図です。
寄り添うことはメインじゃないから、そのことをしつつ本来やるべきことがあるみたいな感じ。
「寄る」と「添う」に分けて考える
妻は言葉そのものを分解します。妊娠中の一過性のちょっとした対応は、途中段階でもなく、それ自体が思いやりや配慮だと整理します。
そして「寄り添う」の「寄る」に注目します。一回寄り道して、本人のほうに寄って、そのうえで添ってみる、というイメージです。
寄るんだよ寄る。一回寄り道すんの。
夫はここで腑に落ちます。寄り添うとは、その人の行動――購買行動や、患者なら受療行動――に沿い、近くに寄って、サポーティブな姿勢を取ることだと言葉にします。
相手の行動がある
購買行動、受療行動など、相手には相手のスタンスがある
一歩寄り道する
自分の言うべきことを一旦置いて、相手のほうに寄る
沿ってサポートする
相手の行動に沿い、理解や共感を含めた対応をする
能動的に「寄り添う」側のエゴ
夫はさらに気づきます。寄り添う側には本来したいことがあって、あえて寄り道をしている。だから「寄り添う」は能動的な言葉で、受動的に「寄り添われた」と感じることは基本的にないのだ、と。
寄り添うっていうのは、その能動的な話で、受動的に寄り添われたってことは普通ないよね。
夫はこの構造を、少し辛口に言い換えます。寄り添うという言葉には、ケアする側の目論見やエゴが含まれているのではないか、というのです。
寄り添うってなんか恩着せがましいっていうか、ケアする側のエゴに近いね。
妻はエゴというより「目論見」だと受けつつ、大事な点を付け加えます。寄り添うは相手に直接使う言葉ではなく、あくまでこちら側の状況を説明する言葉だ、ということです。
相手に対して直接的に使う言葉ではないよね。あくまでこっちの手法じゃないけど。
夫はこの説明で、違和感の正体はこっち側のエゴ感にあったと腹落ちします。寄り添うは、こちら側の行きたい方向性を前提にした言葉なのだと納得します。
「寄り添った医療」という理念は綺麗なのか
夫は、病院のホームページにある「患者さんに寄り添ったケアを提供します」という一文を例に出します。綺麗に聞こえるが、なぜだろうと問いかけます。
妻は、自分が寄り添われる側になったら、そう綺麗には思わないだろうと答えます。それを思いやりや共感、優しさと置き換えられるなら別だが、実際の現場はそうではないのでは、というのです。
それをイコール思いやりとか共感とか優しいとか、そういう言葉で置き換えれるんだったらそうだけど、実際の現場はそうじゃないんじゃない。
夫は、日本語としていい言葉に聞こえるからこそ、受け手は「いい理念の病院なんだな」と変換してしまうのかもしれない、と考えます。
化粧品売り場で考える「本当の寄り添い」
最後に夫は、デパート1階の化粧品売り場を例に出します。似合わない商品を選んでいる客に対して、寄り添った接客はどちらなのか、という問いです。
妻は、相手の好みに迎合するのでも、人気商品を押しつけるのでもないと答えます。相手の潜在的なニーズを引き出したうえで、これがいいのではと提示していく、その入口が寄り添うだと整理します。
夫が「自社ブランド以外もおすすめするくらいのことも含めて?」と確認すると、妻はそれこそ自分が受けた接客だと語ります。眉毛を書く商品を探していたとき、自店になければ隣のブランドを紹介してくれた経験です。
お隣の何々さんとかのブランドだったら確かいいのがありますよみたいな。ちょっとそっちの販売員の方にも今聞いてきてみますねみたいな感じで言ってくれて。
この対応に妻は「寄り添ってもらえたな」と感じたと言います。押し付けでも迎合でもなく、こちらのニーズを聞きながら、相手の意思を持って提示してくれたからです。
押し付けでもなく、勝手にこっちに迎合されたわけでもなく、ちゃんとこっちのニーズとかを聞きながらも、だったらこれがいいのではっていうのを提示してくれたりすると、寄り添われたなって感じがする。
夫はこの説明で、しっかり腹落ちしたと満足します。これからは「寄り添う」という言葉に敏感に反応してしまいそうだと笑います。
何のために寄り添ってるんですか?あなたはどうしたいんですか?って多分本当はあるでしょ?っていう。
まとめ
「寄り添う」は綺麗な言葉として気軽に使われますが、この回では夫婦がその違和感を丁寧に分解していきました。行き着いたのは、寄り添うは相手が感じるものというより、こちら側が自分のスタンスを一旦置いて相手に沿う、能動的な姿勢だという整理でした。
- 「寄り添う」は対人支援やサービスで多用されるが、何をもって寄り添ったとするかはあいまい
- 寄り添うは基本的に一方通行で、受動的に「寄り添われた」と感じることは少ない
- 「寄り添いつつ」の次には、こちらが本来伝えたい方向性や正論が控えている
- 寄り添うはゴールや目的ではなく、相手の行動に一歩寄り道して沿う手段である
- 相手のニーズを引き出し、自社の枠を超えて提案されたとき、人は「寄り添われた」と感じやすい


