葉山の名店の店名、実は正しく呼ばれていない
MC種市暁さんが「ずっと行きたいと思ってた」という葉山を訪ね、この回のゲストは名店「SUNSHINE+CLOUD」の代表・高須勇人さんです。
番組冒頭、種市さんも小畑翔悟さんも店名を「サンシャインクラウド」と呼びかけますが、高須さんがすかさず訂正します。
サンシャインプラスね。
結構みんなね、飛ばすんだけど。
高須さんは種市さんの高校の先輩でもあります。まず小畑さんが、AIで集めたというプロフィールを読み上げて紹介を始めます。
紹介文の内容そのものは合っていたものの、出典はwebから集めたAI情報で、本人への確認はしていなかったことが明かされ、種市さんは苦笑します。
西麻布の「地中海通り」で育った少年時代
話は高須さんの生まれた場所へと遡ります。港区、それも西麻布の甲州坂の生まれで、アメリカへ渡るまでずっとその街で育ったといいます。
高須さんが語る当時の西麻布は、今の姿とはまるで違います。外苑西通りはかつて「地中海通り」と呼ばれ、地中海料理の店が立ち並んでいたそうです。
昔はね、地中海料理屋さんがいっぱいあって。ビギがやってた店とかいろいろあって。あれ地中海通りって言われてて。
小説『なんとなくクリスタル』に出てくる店の名も飛び出し、種市さんは「本物の港区だ」と唸ります。
通っていたのは麹町小学校、麹町中学、そして九段高校という都心の学校です。種市さんの後輩筋にあたるルートでもあります。
高須さんの世代のファッションはDCブランド全盛で、そこにアメカジが入ってきた頃だったといいます。BEAMSやSHIPS、その前身のMIURA&SONSといった店名が次々と挙がります。
家がアパレル、だから「服を買うな」と言われて育った
実家は祖父の代から繊維を扱うアパレルの会社でした。西麻布に住むお金持ちの家、という小畑さんのイメージとは少し違う背景です。
父親からは意外な言葉をかけられていたと高須さんは振り返ります。
親父には服買うなってよく言われてて。
家にはいろいろなブランドの服があり、父が海外出張の土産に買ってきたものを着ていた。だから自分でわざわざ服を買う必要がなかったのです。
そして父は、息子の進路についても早くから独特の考えを持っていました。
元々父がお前日本じゃないよねっていう話をしてくれてて。
中学のときにも渡米の話が出ましたが、九段高校に受かったため、高校は日本で通うことになったといいます。
北の丸公園でマガジンを読む、ドロップアウト寸前の高校時代
名門ルートを歩んできた高須さんですが、高校時代はほとんどドロップアウトに近い状態だったと明かします。きっかけは高1のときの怪我でした。
体育祭で足を骨折し、入院も長引きました。学校へ向かおうとするものの、たどり着けない日が続いたそうです。
頑張って行くんだけど、九段下まで行くんだけど、学校行かないで北の丸公園行っちゃうんだよ。北の丸公園行ってマガジン買って読んじゃうんだよ。
同じ高校に通っていた小畑さんも「あそこめちゃくちゃ居心地いい」と共感します。出席日数も成績も足りない状況でした。
卒業できたのは、父が学校に掛け合ったからでした。体育祭での怪我が原因で通えなくなったのだから労災のようなものだ、という主張が通り、ぎりぎりで卒業証書を手にします。
日本の大学に進む道はなく、アメリカ行きが現実味を帯びていきます。
ノーチョイスで送られた、木こりの家でのホームステイ
最初に渡ったのはアメリカ中西部のアイダホ州でした。3週間の英語研修が、アメリカ生活の始まりだったといいます。
当時のアメリカは、今とは物の姿もまるで違いました。
その頃ってほんとまだNIKE MADE IN USAだもんね。普通に売ってんのが。コルテッツのレザーとか普通に売ってるからね。
研修のあとは新聞社が募集した交換留学でワシントン州へ。ここでのホームステイ先が、木こりの家でした。留学先に自分の選択肢はなく、行き先はすべて決められていたそうです。
木こりの家に。そのお父さんも木こりで、まあ木を切り出して、それを積んで運ぶ仕事をしてる家に行った。すんげーつらかったけどね。
生活は自給自足に近いものでした。朝起きて釣りに行けばそれが夕食、ウサギを取ればそれが夕食、たまに鹿を取りに行く、という日々です。英語もほとんど話せないまま、現地の高校に通いました。
雲が低い街から、眩しいカリフォルニアへ
ワシントン州は、高須さんにとって過酷な土地でした。全米で自殺率が高いと言われる理由を、天候に見ています。
っていうのは雲がすごい低く。天気がずっと悪い。ロンドンよりも雲が低いの。雨が多いし、圧迫感があるの。空が低いから。
1年をどうにか耐えたあと、友人がいたカリフォルニアへ向かいます。雲の低い木こりの家からの落差は大きく、もう戻れないと感じたといいます。
もう俺はもうカリフォルニアしかないなっていうのが始まり。
当時の情報源は雑誌『POPEYE』でした。西海岸特集を通じてカリフォルニアの眩しさに触れており、インターネットもない時代に憧れを膨らませていったのです。
テニス推薦とコミュニティカレッジ、そして猛勉強の日々
カリフォルニアではまず2年制のコミュニティカレッジに入り、単位を取って4年制大学へ編入する道を選びます。トータルで4年半をカリフォルニアで過ごしました。
大学選びの基準は、高須さんらしいものでした。
当時テニスやってたから、テニスの推薦で行ける大学を探してたわけよ。
テニスの試験でコーチに見てもらい、入学に加点してもらう仕組みです。テニスができて、なおかつ海が近い大学として選んだのが、別荘地サンタバーバラのウエストモント大学でした。
一方で、大学生活は決して楽ではありませんでした。午前中はテニスの練習、午後は勉強、試合もある過酷な日々です。
自分の中では体が震えが来るぐらいにやってたのね。
クリスチャンの大学だったため宗教学も必修でした。幼い頃から教会に通う学生には前提知識がありますが、高須さんには馴染みがなく、毎週の小テストに苦しんだといいます。教科書を読んでも何が書いてあるか分からないまま、どうにか卒業にこぎつけました。
ガレージブランド黎明期を、オンタイムで生きた
80年代前半の西海岸は、のちに世界的になるブランドが「ガレージブランド」として生まれ始めていた時代でした。高須さんはそれをリアルタイムで目にしていたことになります。
その頃がガレージブランドって言われてて、ストゥーシーもそうだし、ジミーズもそうだし、西海岸でなんかお金持ちの子がガレージで商品作って売り始めてブランドになってったのが。
大学の周りのファッションは、短パンにTシャツというラフなものでした。ちょうどチャンピオンのリバースウィーブが流行り出し、カレッジロゴが入り始めた頃です。
種市さんは、その状況をあとから振り返ると年代物に見えるものが、当時は目の前の「今」だった点に驚きます。
オンタイム。その時に目の前にあったわけですよ。
高須さんの友人は、リバースウィーブを日本へ輸出していました。さらに、自分たちの大学でも「なんちゃってリバースウィーブ」のスウェットにカレッジロゴを入れて作っていたといいます。
その自作スウェットには後日談があります。
昔持ってたけど、ああ捨てちゃったよなと思ったら出てきて。
当時作った偽物のリバースウィーブを、後年、古着屋で見つけて買い直したのです。種市さんは「めちゃくちゃいい」とその巡り合わせを面白がります。
カルマンギアとBMW 2002、PCHを走った青春
大学卒業後、高須さんは解放感からアメリカを旅したいと考えていました。最後に思い描いていたのは、PCH(パシフィック・コースト・ハイウェイ)を走る自分の姿です。
ボブマーリーを絶叫しながら南カリフォルニア走ってた。
乗っていたのは自分の車でした。最初に買ったのは1964年のカルマンギアで、当時30万円ほど。ただし毎月のように故障して止まり、手放したといいます。
次に乗ったのが1974年のBMW 2002、コバルトブルーの車体です。周りの学生はブロンコやムスタングの古い型、ピックアップトラックなどに乗っていました。マッスルカーやヴィンテージ車が普通に走っていた時代です。
種市さんは、ハードだったという高須さんの話の端々から、自由で楽しげな空気が漏れていることを見逃しません。
なんかハードだったっていうフィルターをかけてますけど、漏れてますよ。なんか自由ですごい楽しんでた感じが。
いや、楽しかったよ、もちろん。それはもちろん。
卒業直後の「強制送還」、そして家業へ
卒業の高揚のなか、旅に出るはずだった計画は突然断ち切られます。父が病気になり、日本へ帰るよう告げられたのです。
旅行、旅しようと思ってたのに強制送還。
ここで種市さんは、日米の進路のあり方の違いに話を向けます。日本のように卒業前に就職先が決まり、4月に一斉に入社式がある、という感覚がアメリカにはないのではないか、という問いです。
日本のように大学卒業のタイミングで就職先を決める感覚は、アメリカにもあったのか
高須さんは、周りに就職活動をしていた友人はいなかったと答えます。アメリカには4月一斉の入社式のような仕組みもなく、大学卒業後に少しモラトリアムの期間を過ごしてから就職するのが自然だった、という話に落ち着きます。高須さん自身は「目の前のことしか考えていなかった」と振り返ります。
学費を払ってもらい、迷惑もかけてきた以上、帰らないという選択はできませんでした。日本に戻った高須さんは、そのまま父親のアパレルの会社に入ることになります。
帰ったらそのまま父親の会社に強制就業。
末っ子だった高須さんの上には、CAだった姉と、別のアパレルで働いていた兄がいました。結果的に、兄も同じ会社に加わっていったといいます。
まとめ
西麻布のアパレル一家に生まれた高須勇人さんが、木こりの家でのホームステイからカリフォルニアの大学、そして家業への「強制就業」へと辿り着くまでの回想でした。ネットもスマホもない時代に、身体感覚だけで西海岸カルチャーの黎明期を吸収していった青春の熱量が伝わる回です。
- 家業がアパレルだったからこそ「服を買うな」と言われて育った、独特の生い立ち
- 留学先はノーチョイスで決められ、木こりの家での自給自足に近いホームステイを経験した
- ストゥーシーやジミーズなどのガレージブランドを、後追いではなくオンタイムで目にしていた
- カルマンギアやBMW 2002を乗り回した青春は、卒業直後の父の病気で突然日本へと切り替わった



