「何かあればすぐ死にたい」という友人へのお便り
今回のエピソードで読まれたのは、ラジオネーム「実家のカルピスが薄い」さんからのお便りです。少し嫌なことがあるたびに「もう死にたい、消えたい」と口にする友人について、どう接するべきか悩んでいるという内容でした。
お便りによると、友人は仕事で上司に注意された夜に「全部嫌になった、もう死にたい」とメッセージを送ってきたそうです。相談者は心配して電話をかけ、1時間ほど話を聞いたといいます。
ところが翌日、友人は何事もなかったように遊びに出かけ、その写真をSNSに投稿していました。安心する一方で、自分が寝不足になるほど心配したことには触れられず、複雑な気持ちになったと書かれています。
最初は毎回すぐ電話していたけど、最近は「またか」と思ってしまう自分もいる、と。でも軽く扱うのも怖い。
お便りは、死にたいと頻繁に言う人にどこまで寄り添うべきか、そして自分を守るために距離を置くのは冷たいことなのか、という2つの問いで締めくくられていました。
距離を置くのは早すぎる、でも「死にたい」はなぜ出てくるのか
相談への最初の反応として、稲見さんは、いま自分の周りにこうした友人はいないと話します。ただ、それは似た関係をすでに切ってきた結果でもあると振り返ります。
一方でパーソナリティは「切っていいということか」と問い直しますが、稲見さんは距離を置くのは早すぎると答えます。もう少し向き合いたい、という立場です。
いやまあそれは早すぎるんじゃない? もうちょっと(この友人と)向き合いたいよね。
二人は、自分たちも過去に「めんどくさい」「死にたい」に近い言葉を口にしていたと認めます。パーソナリティは学生の頃に言っていたと話し、稲見さんも自分にも似た口癖があると振り返ります。
ここから話は、なぜ人はこうした言葉を発するのか、という掘り下げに入っていきます。
「暑い」「寒い」と同じ?出来事を小さくするおまじない
稲見さんは、ストレスがかかった瞬間に出る口癖がいくつかあると自己分析します。上司に注意されたような負荷のかかる場面で、「死にたい」と言うことには出来事を矮小化する力がある、という見立てです。
(死にたいという言葉には)その出来事自体を矮小化するパワーがあるなっていう感覚は、個人的にするんだよね。
これを受けてパーソナリティは、「暑い」「寒い」と口に出すのと役割は同じではないかと提案します。暑い日に「うわ、めっちゃ暑いな」と言うと、暑さが少し軽減される感覚があるという例えです。
めっちゃ暑い時に「うわ、めっちゃ暑いな今日」みたいな、言ったらちょっと暑さ軽減されません?
さらにパーソナリティは、その言葉には誰かと共有したい気持ちも含まれていると指摘します。「この暑さは自分だけじゃないよな」と確認し、共感されることで、その話題から先へ進める、という流れです。
稲見さんも、我に返って考えると、暑い寒いを口にするのは一人のときより誰かとの関係性ありきだと気づきます。事象を一緒に共感する効果があるのではないか、と話します。
丁寧な人ほど「死ぬ」を言葉通りに受け取ってしまう
パーソナリティは、この相談者はおそらく言葉を丁寧に扱う人ではないかと分析します。「死ぬ」「消える」を文字通り受け取るため、その言葉と、翌日遊びに行く態度とのギャップに違和感を覚えている、という構造の読み解きです。
(相談者は)言葉を丁寧にしてるんやと思うんすよ。だから「死ぬ」とか「消える」を文字通り受け取って、この態度とのギャップに違和感を覚えてる。
一方で発言する側からすると、「死ぬ」「消える」はそれほど重要な事象ではなく、あくまで言葉として出ているだけではないか、と二人は考えます。
ただし稲見さんは、ここで一つ横道に逸れます。もし相手が本当に危うい状態なら、話は変わってくるという視点です。
本当に危うい人だったら?寄り添う側が抱える切迫感
稲見さんは、相手に本当に自殺願望があり、頼り先が自分しかいない場合を想定します。その関係を切ったら本当にまずいかもしれない、という切迫感が寄り添う側に生じる、と話します。
区別として、稲見さんは軽く言う「死にてえ」ではなく、ダウナー系の「めっちゃ死にたい」を挙げます。自傷行為をすでにしていて、一線を超えそうなハラハラ感がある場合です。
本当に一歩放置してたら、もうマジで(この人が)やるんちゃうか、みたいな。
これに対しパーソナリティは、リストカットはむしろ生きたいことの証明ではないか、と逆説的な見方を示します。
リストカットする人って結局あれって、生きたいことの証明な気がしてるんですよ。
リストカットはマイナスをゼロに戻す行為
パーソナリティは、リストカットで起きている現象を、脳内の快楽物質が出てダウンした気持ちがゼロくらいに戻ることだと理解していると説明します。実際にやっている人の話を聞いたり動画で見たりした上での理解だといいます。
重要なのは、それが「終わらせたい」欲求とは違うという点です。マイナスをゼロに戻すための行為であり、体すら道具にして自分のメンタルを保とうとしている、という解釈です。
リストカットって頑張って生きようとしてる証やと思うんすよ、僕は。
この見方を「死にたい」「消えたい」という言葉にも当てはめ、ダウナー状態からゼロに戻すためのフレーズではないか、と二人は整理していきます。
言葉にして人に伝える時点で、実行には向かわない
パーソナリティは、誰かに「◯◯したい」と欲求を伝えることを、わがままを伝える感覚に近いと表現します。本気で一人旅に行こうと覚悟した人は、「この国行きたい」とわざわざ言わず、勝手にチケットを取って行くのではないか、という例えです。
これ(死にたいと)言ってるうちは、そんな、何も起こらへん気もするんすよね。
理由として、言葉にした瞬間に「そうしたい時」と「そうしない時」が切り分けられると話します。否定と肯定が生まれることで、かえって実行に至らないのではないか、という考えです。
稲見さんは、これをエベレスト登頂に例えようとしますが、パーソナリティは「死にたい」はもっと解像度が粗い言葉だと指摘します。エベレストなら手段を逆算できるが、この言葉は「山登りたい」に近いアバウトさだ、という違いです。
(死にたい消えたいは)言ってるより、何も喋ってないのに近い気するんすよね。
同じ言葉でも、人によって指している感情は違う
パーソナリティは、「死にたい」「消えたい」は、この人の中で他に代わる言葉がないから出ているだけで、別の人からすればまったく別の感情かもしれない、と話します。
例えとして、川に入って「気持ちいい」という人もいれば「冷たくて入りたくない」という人もいる、と挙げます。同じ一つの事象でも、それを形作る言葉は人によって違う、という視点です。
(死にたい消えたいという語彙でしか)今この経験を表現できないだけかもしれへんから。
稲見さんはこれを受け、語彙によって感情の表し方が変わり、それが受け取る側の感情も揺さぶるのだと整理します。相談者は直接的な「死にたい」にザワザワさせられている、という構造です。
だからこそ、自分の感情に合う言葉の選択肢を持っておくことは、自分だけでなく相手にとってもよいことではないか、と稲見さんは話します。
理性が育つ前の反応と、自分を疑う姿勢
パーソナリティは、こうした言葉を口にしがちなのは、理性がまだ十分に働いていない中高生の頃と重なると指摘します。出来事の解像度が粗く、フィルターを通さず瞬発的に反応してしまう状態だという見立てです。
稲見さんはこれを、負荷の重い処理でパソコンが落ちる状態に例えます。対処法がわからない場面でパニックになり、瞬発力で反応してしまうが、経験を積んで整理できれば「死にたい」以外の言葉が出てくる、と話します。
さらにパーソナリティは、別の要因として、自分が間違っているかもしれないという前提を挙げます。「死にたい」「消えたい」は結局、自分の否定だからです。
他人の答えを99%正解やって思って生きる人と、50%ぐらいで「まあ俺はこうやしな」って思う人やったら、後者はあんまり口にしない気がしてて。
「自分、ゴミ拾いしてるしな」小さな自己信頼の作り方
パーソナリティは、自分の生き方に「間違っているかもしれない」と怯えていることが原因なら、ゴミ拾いのような「よく生きること」を一つ持つとよいかもしれない、と提案します。
稲見さんもこれに共感し、以前パーソナリティに話した「自信を持つのが大事」という考えと同じだと振り返ります。ゴミを拾った、トイレを掃除した、服を丁寧に畳んだ、何でもいい、と話します。
「自分ゴミ拾いしてるしな」みたいな、この領域は頑張ってるっていう領域を作っとくのが、結果的にいろんなところが歯車カチッといくっぽい気がする。
さらに稲見さんは、すでに習慣になっている行為に意味を上乗せしてもいいと言います。歯磨きや朝ごはん、駅まで歩くことに誇りを持つ、というように、ロジックを無理やり付け加えてもかまわない、という考えです。
一方でパーソナリティは、それは簡単ではないと指摘します。「歯磨きくらいできて普通」と思う瞬間もあるからです。自分が当然とする基準を選び取る力が必要になる、と話します。
そこで挙がるのが基準値の置き方です。5歳の基準で見れば歯磨きができるだけですごいし、継続の本質を掴めば歯磨きも立派な行為に見える、という見方が示されます。
距離を置くのは冷たい?自分の限界まで向き合ってから決める
話は相談の核心である「距離を置くのは冷たいことか」に戻ります。稲見さんは、まず冷たくはないと答えます。その上で、重く受け止めすぎずベクトルを合わせるか、出来事に寄り添うか、友人との今後の関わり方から逆算して決めればいいと話します。
一方でパーソナリティは、そもそも冷たいとはどういう状態かを考え始めます。一人の人が温かく接せられる人数には限りがあり、選択的に温かくする相手にこの友人を選ぶのか、という問いを立てます。
同時に、連絡を断った数か月後に友人が自殺していたら、大きな責任感を抱えることになるとも指摘します。稲見さんも、それは一生十字架を背負う可能性があり、天秤にかけられない重さだと同意します。
離れれば自分のザワザワは軽減できるかもしれない。でも本当に自殺しちゃったら、その責任が自分にあるかも、と一生十字架を背負う可能性がある。
そこでパーソナリティは、この問題も「暑い」「寒い」の理論につながると話します。ここで「熱い」と言いたいから、自分なりに向き合いきる、という立場です。
(この友人に)自分なりに向き合いきるかなと思うんですね。
限界を知るために、まず深く向き合ってみる
パーソナリティが提案するのは、「なんでそんなこと言うの?」と理由を掘りに行き、友人が明るくなる方法を自分なりに探ってみることです。話を聞き、説得し、やれるだけやってみて「もう無理」となるまで向き合う、という進め方です。
熱さをもう感じきるがごとく、この友達を感じきって。
稲見さんは、深く向き合ってみた結果、「思ったより重くなかった」と気づくこともあれば、「やっぱりしんどい」となることもある、と応じます。どちらに転んでも、状況次第でその後を決めればいい、という結論です。
この提案の背景には、相談者がまだ自分の限界を知らない、という見立てがあります。どこまで向き合えるか、自分のキャパがわからないから判断できない、というのがパーソナリティの読みです。
この人、自分の限界がわかってないもん。キャパがわからんから、判断しかねてる。
仕事も全体像が見えないと進め方がわからないのと同じで、自分がどこまで深く行けるかの塩梅を探りに行くのが一番きれいだ、とパーソナリティはまとめます。もちろん、本人が向き合いたいならば、という前提付きです。
実家のカルピスは薄く、おばあちゃん家のカルピスは濃い
相談への答えが出たあと、話はラジオネームの由来へと流れます。稲見さんも自分の家のカルピスが薄かったと共感し、雑談モードに切り替わります。
稲見さんによれば、薄める系の飲み物は「もっと薄めなさい」と教育される家庭で育ったといいます。ポカリなら適量の倍の水を入れるような濃さで飲んでいた、という思い出です。
一方で、おばあちゃん家のカルピスは適切な濃さで飲めたと二人は盛り上がります。親も祖母には強く出られないため、原液に近い濃さが許されていた、という共通体験です。
おばあちゃんちのカルピスは、あの、天国なのよ。
最後は、この回のタイトルを「おばあちゃん家のカルピスは濃い」にしようという軽い掛け合いで締めくくられ、お便り募集の案内で終わります。
まとめ
「死にたい」「消えたい」という言葉を、暑い寒いのように出来事を小さくするフレーズとして捉え直しつつ、本当に危うい場合の重さも見据えた相談回でした。距離を置くのは冷たくないと前置きした上で、まず自分の限界まで向き合ってみて、その塩梅から関わり方を決めるという答えに着地しています。
- 「死にたい」は出来事を矮小化したり、ダウナーな気持ちをゼロに戻したりするための言葉として使われている場合がある
- 同じ言葉でも、その人が持つ語彙によって指している感情は違い、受け取る側との間にザワつきが生まれる
- 自分の否定につながる言葉が出る背景には、自分が間違っているかもしれないという不安があり、小さな自己信頼を積むことが助けになりうる
- 距離を置くのは冷たいことではないが、まず自分の限界まで向き合ってみて、そのキャパを知ってから関わり方を決めるのが一つの答え







