英会話メタバース「fondi」とはどんなプロダクトか
冒頭で、野原さんは自身の会社fondiを簡潔に紹介します。世界196カ国にユーザーを抱えるグローバルプラットフォームで、ユーザーが自分の姿をアバターに変え、英会話の練習を音声コミュニケーションで楽しめる仕組みです。
一言で言うと英会話メタバースという感じですね。
主力ユーザーはインドネシアやインドで、日本発ながら足元の成長は海外が中心です。聞き手の森下さんは、このプロダクトを作るに至った生い立ちやグローバルとの結節点を掘り下げたいと切り出します。
つくばの学区と、父から与えられた英語漬けの幼少期
野原さんは茨城県つくば市で育ちました。両親は大阪出身で、父がIntelで研究系のエンジニアリングマネージャーとして働いていた縁で、つくばが拠点になったといいます。
当時のつくばは、まだつくばエクスプレスも開通しておらず、常磐線も車で30分ほど離れた不便な場所でした。一方で産総研やJAXAなどの研究機関が集まる学術都市で、研究者や大学教授の子どもが多い地域でもありました。
うちの小学校からね、多分(毎年)7人東大行ってるんですよ。
そんな環境で野原さんが際立って得意だったのが英語です。その背景には、外資で働くなかで英語に課題意識を持っていた父の教育方針がありました。
もう父親がすごい、英語だけはできるようになれみたいな意識が強くて。
幼稚園の頃から週に1回、アメリカ人の家庭教師が家に来て英語に触れる環境が用意されていました。中学以降は部活が忙しくなり頻度は減りましたが、生の英語を聞く機会は維持され続けたといいます。
母親も国際線のスチュワーデスで、英語を使う仕事でした。英語との接点は、意識的にベースを鍛えるように与えられ続けた環境だったのです。
サッカーに打ち込んだ中高と、発音が変わっていった話
中学からはサッカー部に入り、フォーカスはかなり部活へ移っていきます。小学校時代は教育レベルの高い学区で育ちましたが、中学で初めてヤンキーのような同級生と出会ったと振り返ります。
英語への苦手意識は一貫してなく、一番の得意科目であり続けました。ただし小学校までは慣れることが中心で、体系的に学ぶのは中学からだったといいます。
興味深いのは、発音の変化です。ネイティブ講師の耳に慣れていた小学校時代は発音もネイティブに近く、両親から驚かれるほどでした。
中学校から部活中心になり、教育も体系的なものになってから、みるみる発音の能力が落ちていき、今はもう普通にジャパニーズイングリッシュみたいな感じにはなってしまった。
土浦第一高校の英語教育と、留学を見送った理由
高校は県内で一番いいとされる土浦第一高校へ進学しました。この時点では、グローバルを意識した選び方はしていなかったといいます。
高校でもサッカー部を続けましたが、印象的なのは土浦第一高校のユニークな英語教育です。定期テストごとに「サイドリーダー」という英語の薄い本が1冊渡され、その内容から出題される形式でした。
問われるのは単語の意味ではなく、文脈です。主人公がなぜその感情になったか、あるフレーズが何を意味するかなど、本の内容と前後関係を全部理解しないと解けない問題でした。
本の内容を全部覚えて前後関係を理解しないと解けないんですよ。
真面目に取り組んだ人は点を取れる一方、読まない人は全く取れず、平均点が30点ほどになる厳しさでした。それでも野原さんは英語が好きで、熱心に勉強したといいます。
高2の時には、日本の高校を1年ダブらせて現地の高校に1年通う短期留学を、親から真剣に提案されました。しかし部活を続けたい思いから、この時は見送っています。
いつかは(海外に)行くだろうなと思ってたっていう感じではあったんですけど、やっぱ当時はね、部活があって。
なぜアメリカではなくイギリス・ウォーリック大だったのか
高3の夏まで部活中心だった野原さんは、東大をうっすら目指すか迷いつつ、明確なモチベーションを持てず無気力になっていた時期があったといいます。そこで親から「海外を考えてみたら」と言われ、進路を海外へ広げていきました。
検討対象はアメリカとイギリスに絞られました。両者の教育の考え方の違いが、意思決定の軸になります。
リベラルアーツ中心。広く多角的に学び、知性人として成長する。上位校は高校1年から準備が必要
高校1〜2年から学部を決めてフォーカスして学ぶ。私立で大学は3年制
野原さんは部活中心で学内成績が突出していたわけではなく、高校1年から準備が必要なアメリカの上位校は現実的ではありませんでした。将来は海外で使える人材になりたいという漠然としたイメージだったため、学部をフォーカスして目指せるイギリスが合っていたと語ります。
抜け穴だった「ファンデーションプログラム」という進学ルート
野原さんが取ったのは、直接ウォーリックへ入るのではなく、付属の「インターナショナルファンデーションプログラム」を経由するルートでした。イギリスの大学は3年制で、その前に単位互換レベルまで引き上げる1年間の準備タームがあるのです。
このプログラムに入ること自体はそれほど難しくなく、そこから勉強してウォーリックへ進む形でした。高3の夏まで何の準備もしていなかった野原さんにとって、都合のよい経路だったといいます。
直接入るよりもちょっと抜け穴感はあるんで、(英語力を上げつつ)いい大学に入れる、ちょっとした経路みたいな感じで。
留学エージェントとネットを使いながらこの仕組みを見つけ、ファンデーションでも第一希望はウォーリックだったため、大きく悩まず出願したそうです。仮にウォーリックに進めなくても、別の学校へ行ける安心感もありました。
ファンデーションの1年間は、ストラットフォード・アポン・エイボンにあるローカルカレッジを間借りしたプログラムで、寮生活を送りました。学ぶ内容は英語、数学、ビジネスエコノミクスなどの基礎でした。
印象的だったのは数学です。高校時代は数学が苦手で地獄のようだったといいますが、現地では神童のように扱われました。
なんか数学はタツトに聞けみたいな、あれだったんで、気分は良かったです。
多国籍のシェアキッチンで受けた留学のインパクト
野原さんが留学の手応えを最も体験したのは、寮の「フラット」という仕組みでした。シャワー付きの個室が7〜8部屋あり、シェアキッチンを複数人で共用する暮らし方です。
野原さんのフラットには、エジプト人、中国人、シンガポール人、香港人など、価値観の異なる5〜6人が集まっていました。運営側が意図的に人種をばらして割り振っていたといいます。
結構もう全然価値観が違う人たちだったんですけど、面白くて。
自分の部屋はあっても、生活の中心はいろいろな人が集まる場所になる。価値観の違う仲間と寝食をともにする日々が、留学の原体験になりました。
Slush Asiaと先輩起業家に受けた衝撃
学生起業のきっかけは、進学前のギャップターンにさかのぼります。2015年にお台場で初開催された「Slush Asia」に、友達に誘われてボランティア運営として参加したのです。
そこで野原さんは、20代後半から30歳手前の先輩起業家たちと初めて出会います。当時の彼らはボランティアの元締めとして運営を手伝っていました。
その時に出会った人がすごいかっこよくて、いつかはこうなりたいなみたいなのを思い始めていて。
この場では、留学予定の野原さんに対して起業家たちが投げかけた問いも、大きな衝撃になりました。イギリスに行くことをすごいと思って来た野原さんに、彼らは目的を尋ねたのです。
なんかイギリス行って何やんの?みたいな感じのことを言われた時に、留学して何したいの?みたいな、WhyとWhatみたいなのを聞かれて、俺全然そんなの具体がないわっていうので、結構衝撃を受けた。
クラブでのインターンと、事業づくりへの目覚め
留学1年目とその翌年の間にある3カ月の夏休みに、野原さんは日本へ帰国し、当時のクラブ株式会社(現在は表記に自信がないため要確認)でインターンをしました。社長の直下で、インターン生が新規事業立ち上げに挑戦するプログラムでした。
そのインターンは、友達がFacebookでシェアしていた情報から知ったといいます。海外大への正規進学者どうしの横のつながりが機能した形でした。
テーマは、当時流行していた「分散型メディア」でした。アプリではなく、XやFacebookで動画がバズるメディアを作り、広告で収益化するモデルです。
学生の人海戦術で動画コンテンツを作ってもらい、SNSアカウントを運営してメディアを立ち上げる、今でいうSNS運用に近い内容でした。この経験を通じて、事業づくりの面白さに火がついたと語ります。
休学して起業へ、崩壊したチームと「戻る戻る詐欺」
留学2年目には、海外大に進学した日本人の友達4人でチームを組み、日本から海外に出たい人と、実際に留学している学生をマッチングする相談プラットフォームに取り組み始めます。
なけなしの貯金を支払い、日本のエンジニアにウェブサービスの開発を依頼しました。しかしローンチ直前になっても開発が進まず、プロジェクトマネジメントが機能しないままチームは崩壊してしまいます。
それがめちゃくちゃ悔しくて、これをリリースするまでは大学卒業とか言ってらんないなと思って。
そこで野原さんは、そのプロジェクトだけにフォーカスするため休学を決め、日本へ戻ります。場所の問題ではなく、一つのことに打ち込んだらどうなるかを試したかったといいます。
親からはひどく怒られましたが、イギリスの大学は休学コストがかからず、いつでも戻れる仕組みでした。1年だけやらせてほしいと頼んで帰国したのです。
絶対戻るから1年だけやらせてくれっていうお願い(でした)。
その「1年」は結果的に8年に及んでいます。休学は2年まではフレキシブルに認められ、3年目も通りましたが、4年目の申請は却下されました。
野原さんはアドミニストレーションに、マネジメント学部の学生が起業に挑戦しているのだから応援すべきだと訴え、学部長への嘆願書を提出しました。その返事がまだ返ってきていないため、現在も「休学中」という扱いになっています。
学部長に嘆願書を出して返事が返ってきてないんで、一応まだ休学中ですね。
まとめ
野原樹斗さんの前編は、父の教育方針による英語漬けの幼少期から、サッカーに打ち込んだ中高、そして英国ウォーリック大を経て学生起業へ踏み出すまでの回想でした。恵まれた環境と偶然の出会いが、事業づくりへの一歩につながっていったことが伝わります。
- 父の教育方針で幼稚園から英語に親しみ、英語は一貫して得意科目だった
- 部活を優先し高2の留学は見送ったが、いつかは海外へという意識は持ち続けた
- アメリカの準備コストを避け、ファンデーション経由でイギリス・ウォーリック大へ進んだ
- Slush Asiaでの先輩起業家との出会いが、学生起業を志す原体験になった
- マッチングサービスの開発頓挫を機に休学し、その「1年」は8年に及んでいる





