最晩年の西田は、なぜ「思想が熟した」と書いたのか?
西田幾多郎編の第15話は、太平洋戦争の開戦後、国から利用される著名な思想家となった西田が、終戦に近づいていく時期の話から始まります。タッシーさんは前回の流れとして、西田の書簡に表れた揺れを振り返りました。
西田は戦争に対して、最初は「これはまずいことになった」と受け止め、途中では余計なことを言えない空気の中で耐え忍ぼうとし、最後には日本が世界にどう存在感を示すかを語らなければならないと考えるようになっていきます。
しながわさんによれば、この回で西田の人生と思想の本編は終わりになります。次回は二人で感想や意見を交わす振り返り回にする予定で、今回は前半で思想、後半で人生の終わりを扱います。
晩年の西田は、リウマチで体が動きにくく、強い痛みもありました。それでも最後まで書き続けようとしていたことが、亡くなる3か月前の1945年3月の書簡に残っています。
その書簡で西田は「私ももう老年になり、いつともわかりませぬが、この頃になりて思想が熟したとでも言うべきか、いろいろの考えが浮かんできます」と書いています。さらに「従来解決のできなかったいろいろの問題が、私の立場から解決できるように思うのです」とも述べています。
ほんとラスト1年とか、どんどん仕事の量も増えて、いろいろ言いたいこと、書き残したいことは重なって、それをいかに説明していくかっていう。
最後の論文で、哲学と宗教は融合したのか
西田の最後の論文は『場所的論理と宗教的世界観』とされています。しながわさんは、シリーズのかなり前に学んだ「場所」の概念と、宗教的世界観が一つのタイトルでつながっていることが面白いと話します。
初期の『善の研究』でも、純粋経験を軸にした4部構成の中に宗教や道徳のパートはありました。ただ当時は、宗教も道徳も「全部純粋経験」という形で混然一体としていたと、しながわさんは振り返ります。
一方で西田には、哲学と宗教は違うものだという強い軸がありました。自分がやっているのはあくまで哲学であり、宗教のことを知りたければ宗教者に聞けと怒ることもあったといいます。
キレてるな。いろいろキレてるな。
しながわさんは、最後の論文について自分なりの見方を示します。タイトルの「場所的論理」が哲学の話、「宗教的世界観」が宗教の話だとすれば、西田の中で両者が最後に融合してきたのかもしれない、という解釈です。
最後融合してきたのかもしれないなと。これは自分の見方、僕の見方ですけど。
ここで西田が強調するのは、人間が最終的に到達すべき宗教的意識は「我々の生命の根本的事実」であり、学問や道徳の基礎でなければならない、という考えです。
同時に西田は、宗教心は特殊な人の専有ではなく、すべての人の心の底に潜むものでなければならないとも書いています。しながわさんは、この「すべての人の心の底に潜む生命の根本的事実」が、これまで学んできた絶対無 ── 西田哲学の中心概念の一つ。あらゆる有るものを成り立たせながら、それ自体は対象として捉えられない究極の場所を指すとされますや「統一的なるもの」を指しているのではないかと解釈しています。
悟りの境地ではなく「みんなにあるもの」という宗教心
西田は親交の深かった鈴木大拙 ── 仏教学者で、禅を英語で欧米に紹介したことで知られる人物。西田とは同郷・同年代の親友でしたの影響もあり、禅の思想と西洋哲学を融合させた人物として語られることが多いといいます。
一般的に禅といえば、修行を積んで悟りを開く達人のイメージがあります。しながわさんは、それこそが宗教の世界の典型だと話します。
ところが西田が最後に語る宗教心は、修行の末に一部の人だけが手に入れるものではなく、あらゆる人に共通するものです。しながわさんは、そこに西田が自分の営みを「哲学」と呼んだ理由があると見ています。
一方から見ると宗教心っぽく、ある人だけが到達できる悟りの境地みたいな感じにも見えちゃうんだけど、そうじゃないんだと。
修行や信仰を重ねた特定の人が、悟りなどの境地に到達する
すべての人の心の底に潜む生命の根本的事実で、誰にでも共通する
タッシーさんは、ここでいう宗教心とは特定の神様を敬う心のことなのか、と質問します。
しながわさんの答えは、キリスト教の人格的な唯一神ヤハウェでも、仏教の阿弥陀仏や毘盧遮那仏 ── 華厳経などで説かれる、宇宙そのものを体現するとされる仏。奈良・東大寺の大仏として知られますでもない、というものでした。
自分の全人格として、こういうふうに生きていこうとか、こういうふうに世界ってものはあるんだっていうことが、頭だけではなくて、人格として腑に落ちてる状態。
しながわさんは例として、アウグスティヌス ── 4〜5世紀のキリスト教神学者。『告白』で、自らがキリスト教に改心するまでの経緯を綴りましたの回心を挙げます。庭で子どもたちが「取って読め」と歌うのを聞き、聖書を開いたところ、人生も世界の見え方もがらりと変わったという体験です。
仏教でいえば、禅宗の座禅によって悟りが開けてくる体験がそれにあたります。特定の宗教に限らず、こうした「心から、こう生きていこうと思える変化」をひっくるめて宗教心と呼んでいる、というのがしながわさんの解釈です。
神を敬う気持ちとかっていう限定的なことじゃなくて、自分の生き方、人生が人格的に、回心だったり、悟りを開いたみたいな感じで、自分の人格に染みついてる。
なぜ最後の論文に親鸞が登場するのか?
しながわさんは、たのてつでまだ仏教の話をほとんどしていないことに触れ、今年から来年にかけて仏教を扱いたいと明かします。西田編を先にしたのは、その足がかりにする意図もあったようです。
あ、なるほど。ついに来るんですね。
西田は最後の論文の中で、例として親鸞の話をしています。親鸞は鎌倉時代に生まれた新しい仏教の担い手の一人で、浄土真宗を開いた人物とされています。
親鸞の教えは、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀仏にすべてをすがるというものです。自分の力では救われないので、阿弥陀仏の無限の慈悲によって救われる、という他力本願 ── 自分の修行の力(自力)ではなく、阿弥陀仏の本願の力(他力)によって救われるという浄土教の考え方。日常語の「人任せ」とは意味が異なりますの思想です。
とにかく禅を開いて悟り開いた人だけが救われるんじゃなくて、一般市民も、とにかく唱えれば、阿弥陀様にすがれば救われるよって、そういう意識かね。
しながわさんが今回のポイントとして挙げるのが、悪人正機 ── 「悪人こそが阿弥陀仏の救いの本当の対象である」という浄土真宗の教え。『歎異抄』の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」で知られますという言葉です。親鸞や、その師である法然の教えで、シンプルに言えば「悪人こそ救われる」という意味になります。
ただし悪人正機は、悪いことをするほど救われるという意味ではありません。自分の中の愚かさ、欲に負ける心、煩悩や弱さを本当の意味で直視している人ほど、阿弥陀仏の慈悲に救われる、という教えです。
悪いことをすればするほど救われる
自分の愚かさや煩悩、弱さを直視している人ほど、阿弥陀仏の慈悲に救われる
要するに自分自身の愚かさとか、煩悩を抱えてることを理解できてる人ほど救われるっていうこと。
親鸞自身も、修行ができず煩悩を抑えられない自分を罪深いと感じ、そこから阿弥陀仏の教えにすがる回心を体験した一人だったと、しながわさんは説明します。
第1話の母のエピソードが、ここでつながる
しながわさんは、このシリーズで一度だけ親鸞に触れたことを覚えているか、とタッシーさんに尋ねます。タッシーさんは全く覚えていませんでした。
答えは、序盤に紹介した西田の母・寅三さんのエピソードです。5歳くらいになっても乳を欲しがる西田に、母は浄土真宗の大事な言葉である「御文様」を覚えさせ、それを唱えられたら乳をあげたという話でした。
母は浄土真宗の熱心な信者でした。最後の論文で親鸞が言及されることで、遠い昔のこの場面が西田の思想につながってくる、としながわさんは話します。
ありました。確かに。あの時が浄土真宗で、そうか、親鸞の教えだったのか。
しながわさんの見立てでは、西田は禅のイメージが強く、最後の言葉にも禅らしさがあります。それでも最後に、母から受け継いだ浄土真宗への信仰心のようなものが表れてくるのが面白い、ということです。
西田は良くも悪くもお父さんの教育熱心なところも、ちょっとキレちゃうところも受け継いでいるのと同じように、お母さんの浄土真宗への熱い信仰心みたいなものが最後出てくる。
逆対応と平常底。徹底的な自己否定の先にある日常
西田が最後の論文で語る宗教心の中身は、特定の宗教の話ではありません。人間は弱く、醜く、ダメな存在であると徹底的に自分を否定する。西田はこれを「永遠の死」の自覚と呼んでいます。
しながわさんの説明では、その自覚を持ち続けると、結果として阿弥陀仏に救われる方向へくるっと回転します。だからこそ人間として生きていけるのだという転回を、西田は「逆対応」と呼びました。
永遠の死の自覚
自分は弱く、ダメで、何者でもないと徹底的に否定する
回転
否定し続けるからこそ、救われるという方向へくるっと一回転する
生きていていい
人間として生き、創造的世界の創造的要素として世界と影響を与え合う
平常底
その根底には、ご飯を食べる・お風呂に入るといった普通の日常がある
一回転した先で西田が強調するのは、ご飯を食べる、トイレに行く、子育てをするといった、ごく普通の日常の大切さです。西田はこれを「平常底」と呼びました。
絶対無の場所とか宗教心とかっていうとものすごく深い話で、わけわかんないことのように聞こえるんだけど、最後大事なことは何かというと。
しながわさんは、絶対無の場所や宗教心といった難解な話も、最後は普通の日常の生活へ戻ってくるところに西田の到達点があると整理します。純粋経験や絶対矛盾的自己同一とどうつながるかは、リスナー自身にも考えてみてほしいと呼びかけています。
若い頃の西田は、なぜ宗教との同一視に反発したのか
タッシーさんは、最後に宗教心へたどり着く流れは、これまでの西田哲学を聞いてくると腑に落ちると話します。
スターウォーズのフォースとかドラゴンボールの元気玉で例えてたじゃないですか。人って個別じゃなくて、統一された何かでどっか繋がってるみたいな話で、結局宗教につながりそうだなって思ってたんですよね。
だからこそタッシーさんには、若い頃の西田が宗教のことを自分に聞くなと反発していた理由が、逆に気になったといいます。
さらにタッシーさんは、濁流の時代に体も動かず日本を憂う晩年の西田が、自身も宗教心を持っていたからこそ、この結論に至ったのではないかと問いかけます。
しながわさんはその可能性を認めます。若い頃の西田は、座禅を重ねて師匠に認められても、しっくりこないまま哲学の道に入りました。その答えが、最後にようやく見つかったとも言えるかもしれない、という見方です。
なぜ当初は哲学と宗教は違うと言い張ったのかについては、しながわさんにも考えがあり、次回の振り返りで一緒に議論したいとしています。
U理論やソース原理にも通じる「潜って浮かび上がる」論理
しながわさんは、一番底まで行くからこそ、そこから展開して浮かび上がるという論理は、人や組織を扱う仕事をしている人には聞き覚えがあるかもしれないと話します。
挙げられたのは、U理論 ── オットー・シャーマーが提唱した、変革のプロセスを「U」の字に見立てる理論。深く内面へ降りていき、底で気づきを得てから新しい行動へ浮上するとされます、ソース原理 ── ピーター・カーニックが提唱した、事業やプロジェクトを最初に始めた個人(ソース)の存在を重視する組織の考え方、メンタルモデルといった理論です。しながわさんには、どれもとても西田っぽく、親鸞っぽく感じられるといいます。
潜って潜って潜って、一番底に本当は触れたくないんだけど、真髄みたいなものがあって、そこに勇気を出して入っていくと、そこからまた浮かび上がっていくと、世界がまた違って見えるみたいな感覚。
しながわさんは、こうした理論から入ると西田の話も理解しやすいかもしれないと勧めます。そのうえで、逆対応と平常底、そして人間が創造的世界の創造的要素として世界に限定されつつ世界を限定し、歴史的に世界を作っていくという考えを、純粋経験から始まった旅の最終的な結論としてまとめました。
哲学の話になると青年に戻る、晩年の西田
後半は晩年の西田の人生です。リウマチで手足が動きにくくなっていた西田ですが、弟子が訪ねたときの様子は学生時代とあまり変わらなかったようです。
雑談には不機嫌で興味を示さない一方、哲学の話になると、忽然として老年が消え、譲らぬ青年が現れたと伝えられています。噛みつくような激しい熱情が、弟子たちを圧倒したといいます。
しながわさんが紹介する西田と付き合うコツは、まず学問の話をすることです。学問的な議論が済むと、ようやく楽しそうに雑談に応じたと書き残されています。
品川さんと同じタイプってことですね。雑談、何話してるかわかんない、つまんないって先生言って、全く一緒じゃないですか。
本題の方が心ほぐれるみたいなありますね、確かに。
「死は清き月夜よりも美しい」と書いた最後の年
しながわさんは、晩年にようやく宗教を感じられたのではないかというタッシーさんの見立ては正しいかもしれない、と話を戻します。1944年11月、娘の静子さんに宛てた手紙がその手がかりです。
西田は戦争が進む中で静子さんを強く心配しながらも、自分の死については、何も恐ろしいことはない、人間は誰も死を免れない、長く生きてもそう良いこともない、と書きました。そして「死は清き月夜よりも美しい」と記しています。亡くなる半年ほど前の言葉です。
1945年には、長女の弥生さんが心臓麻痺で突然亡くなりました。しながわさんによれば、西田の子どもは8人ほどいて、その半分以上が西田より先に亡くなっています。
うわぁ、まさかの。また親父より前に。
西田は体調不良と交通事情のために、弥生さんの葬儀に参列できませんでした。その思いを綴った原稿は引き出しにしまわれ、珍しく残っています。
原稿には、次女・幽子さんの死で初めて我が子の死を経験したが、この年になって子に先立たれた老人の悲哀を再び経験した、と書かれていました。しながわさんは、悲哀の人生は最後まで続いていたと話します。
空襲のなかで守られた最後の原稿
最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』は、1945年2月に書き始められました。ほぼ同じ頃、鈴木大拙から著書『日本的霊性』が送られてきたといいます。
西田はこの論文を書き終えると、さらに自分の論理について新しい論文を書き始めましたが、そちらは未完に終わりました。書き終えた『場所的論理と宗教的世界観』の原稿は、岩波茂雄さんの岩波書店に送られます。
ところが印刷所が空襲を受けて焼失し、すぐには出版できませんでした。静岡の大空襲で焼けたこともあり、論文が出版されたのは、西田の死から半年ほど後の1946年2月でした。
西田の日記には、1944年11月頃から「空襲」の文字が繰り返されるようになります。1945年2月16日には、敵機が何百機と入れ代わり侵入し、終日砲声が絶えなかったと書かれています。
3月には野菜もなくなり、野草を食うほかないと記されました。そうした最後の数か月の中で論文が書かれていたことになります。
もう文字通りね、命をかけて原稿守ってるっていう感じだと思いますよ。
鎌倉で迎えた、終戦2か月前の死
家族は西田に疎開を勧めていましたが、なかなか実現しませんでした。5月30日にようやく疎開先を決め、その2日後の6月1日に西田は倒れます。
倒れた日も、西田は午前中まで執筆を続けていました。昼食後に痙攣を起こして昏睡状態に入り、一度は意識が戻ったものの、6日に再び昏睡し、翌7日の早朝4時に亡くなりました。
亡くなる数日前には、寸心という号で墓碑に刻む文字を書いています。その墓は、しながわさんが好きな京都の法然院にあります。
晩年の西田は鎌倉に住んでいました。火葬は9日に行われましたが、戦局の悪化で交通事情が悪く、娘たちや弟子が鎌倉に着いたのは葬儀が終わった後でした。
死因について、しながわさんは伝記で「尿毒症であろう」という診断を読んだと話します。正確な診断かはわからないとしながらも、リウマチが直接の原因ではなさそうだとしています。
明治・大正・昭和を生き切った人生に何を思うか
西田の死から2〜3か月後に戦争は終わります。しながわさんに感想を聞かれたタッシーさんは、2026年にも語られる人物として歴史に名を刻んだ素晴らしい人生だと認めつつ、別の思いも口にします。
せめてね、太平洋戦争が終わって、日本次進めるぞみたいな景色を見た時に何を感じたかとか、そういう人生であって欲しかったなみたいな。
しながわさんも、そのタイミングの重さに同意します。西田は明治維新の直後に生まれ、明治・大正・昭和を生き、終戦の約2か月前に亡くなりました。
激動です。そうそう、だからそう、これだけ説明したかったみたいなところもありますよね。
妻・琴さんが回想した、裏山で寝転ぶ西田
エピソードの締めくくりに、しながわさんは西田の妻・琴さんと西田本人の言葉を1つずつ紹介します。琴さんは自分が亡くなるときに、前の夫の星野さんに「早くから行くから待っててね」と言った人でもあります。
西田さんじゃないんかいみたいな。
琴さんは西田の死から1年9か月後、鎌倉・極楽寺の山荘での思い出を語っています。故人の好んだ沈丁花が香り始め、裏山にはスミレやタンポポが咲いている、と春の情景から書き出されます。
琴さんの回想によれば、西田は裏山の上で子どものように寝転んで日光浴をし、思索に疲れた頭を微風に吹かせながら、タンポポやスミレを見つけて喜んでいたといいます。どの思い出も鮮やかで、いつまでも同じだろう、と結ばれています。
情景描写がすごく具体的なので、すごくイメージつきますね、裏山で。
タッシーさんは、戦争が終わり、貧しくても平穏が訪れた中での回想だからこそ、温かい雰囲気があると感じました。以前紹介された、西田のタバコの火を急いで消す琴さんの姿と重ね、夫を見守る母性のようなものを読み取っています。
「本当の日本はこれからと存じます」という未来へのメッセージ
最後に紹介されたのは、終戦の年の1945年4月8日、西田が信頼していた弟子の高坂正顕に宛てた手紙です。
手紙の中で西田は、武力のみに自信を持つ国は、ひとたび武力で不利になれば国民がすっかり自信を失い、失望落胆する、と憂えています。しながわさんは、これを日本の敗戦を予期した言葉だと読みます。
続けて西田は、高い立場をどこまでも失わなければ、一時は国家が不運に見舞われても、必ず再起し大いに発展する時が来ると書きました。そして、道義文化の立場において日本は東洋に大きな使命を持っているのではないかと述べ、本当の日本はこれからと存じますと結んでいます。
武力のみに自信を持つ国は、武力で不利になれば国民が自信を失い失望落胆する
高い立場を失わなければ、一時の不運があっても必ず再起し、大いに発展する
これをね、僕としては2026年(へ)のメッセージとして受け取るなみたいな、そんな感じですね。
本当に最後の一言がいいですね。日本ここから絶対良くなるからみたいな、本当の日本をここから出していくよっていう。すごいなぁ。
タッシーさんは、世界も驚いた戦後の復興を西田が見ていたらどう思ったか、と問いかけます。しながわさんは、経済的な豊かさは生まれたものの精神的にどうかという問題もあるとし、復興を見られなかったという意味でも、この時期に亡くなったことには意味がある、と話しました。
15話にわたった西田の思想と人生の紹介は、これで完結です。タッシーさんは、一人の人生を細かく追い、多くの概念に触れた、整理しきれないほど濃密な内容だったと振り返りました。
哲学者をね、知るというのは多分これくらいのことなのかなとも思うので。
印象に残った点の共有は、次回の振り返り回で行われる予定です。
まとめ
西田幾多郎編の第15話は、最後の論文『場所的論理と宗教的世界観』で、哲学と宗教が融合したようにも見える最晩年の思想と、空襲下での死までをたどる回でした。母から受け継いだ浄土真宗の信仰が親鸞への言及として表れ、徹底的な自己否定から日常へ戻る逆対応と平常底が、純粋経験から始まった旅の結論として示されています。
- 西田は最後の論文で、宗教心を特定の宗教ではなく「すべての人の心の底に潜む生命の根本的事実」と捉えた
- 親鸞の悪人正機を手がかりに、自己否定の先で救われる「逆対応」と、日常を大切にする「平常底」を語った
- しながわさんは、母の浄土真宗への信仰が最晩年の思想に表れていると見ている
- 最後の論文は空襲で印刷所が焼けるなか守られ、西田の死後の1946年2月に出版された
- 終戦4か月前の手紙の「本当の日本はこれからと存じます」を、しながわさんは現代へのメッセージとして受け取っている



