幸せな晩年から「濁流」へ、何が変わったのか
西田幾多郎編の第14話は、シリーズの第4部「濁流」に入る回です。前回までは、京都大学を退官した後の西田が、娘の嫁ぎ先を気にかけたり、山田琴さんと再婚したりする、比較的穏やかな晩年が語られていました。
西田幾多郎は1945年6月、終戦のおよそ1か月前に亡くなっています。しながわさんは、この回と次回で、亡くなるまでに何が起きたのかをさかのぼって話すと説明します。
しながわさんは前提として、西田が講演や文章の中で、戦時下の軍部や政府と関わるような言葉、戦争を推進するとも取れる言葉を残しているのは事実だと述べます。その真意を番組で検証するのは難しいものの、残された言葉と当時の空気感は共有できる、という立場です。
しながわさんによれば、1931年の満州事変のころから、哲学や思想の世界でも自由にものを言いにくくなっていきました。社会主義や共産主義の思想への弾圧も厳しくなり始めた時期です。
法学を学ぶとよく出てくる滝川事件 ── 1933年、京都帝国大学の滝川幸辰教授の刑法学説が問題視され、休職処分となった事件。大学の自治や学問の自由をめぐる事件として知られていますや天皇機関説 ── 憲法学者・美濃部達吉らが唱えた、天皇を国家の最高機関と位置づける学説。1935年に政治問題化し、排撃されましたの問題も、大学の思想に国家が介入した例として挙げられています。
西田自身も1937年ごろの文章で、書物を壁に塗り込めるべき時代が来た、という趣旨の言葉を残しています。しながわさんは、秦の始皇帝の焚書坑儒 ── 秦の始皇帝が思想統制のために書物を焼き、儒者を生き埋めにしたとされる出来事。書物を壁に隠して守ったという伝承もありますで人々が書物を壁に隠した故事を踏まえ、日本精神を称揚する主張しか認められなくなった状況を憂えた言葉だと解説します。
1930年代の西田は、なぜ公には黙っていたのか
1930年代の西田の態度を知る手がかりは、たくさん残された書簡です。親友の山本良順さんに宛てた、満州国成立や血盟団事件のころの手紙では、政治が堕落して暗黒な力が沸き起こっており、国の行く末が心配だという趣旨の言葉を書いています。
えー結構それもなんか怖いんですが、それ(国を憂う言葉)を公の文章でとか残してるなんですか?
この時はまだね、プライベートの書簡で残してるくらいですね。
しながわさんによると、1930年代の西田は公の場で、政府や軍部を強く礼賛することも、強く批判することもしないという態度をとっていました。
1935年の手紙では、西田は現在を「ファッショ」、つまりファシズムの時代だと率直に書いています。そのうえで、本当に日本の将来を思う者は、性急に衝突するよりも、今は耐え忍ぶよう努めるべきだという趣旨を述べています。
もうやべえぞと。今は耐え忍ぶ。なんか言って、バーってなんかこう逮捕されたり、殺されちゃうから、なんとか耐え忍んで国が良くなるのを待とうみたいな。
しながわさんは、西田の弟子筋にあたる京都学派 ── 西田幾多郎や田辺元を中心に、京都大学で形成された哲学者の集団。戦時中の言動についてはのちに議論の対象となりましたの中から、社会主義思想を理由に検挙される人も出ていたと補足します。西田もそれと無関係ではいられず、1930年代後半までは「耐え忍ぶ」態度だった、という整理です。
断り切れなくなった協力要請とは
西田幾多郎はすでに重要な思想家として知られていたため、政府は自分たちの主張を根拠づけるために、西田に協力してほしいという要請を次々に出すようになります。西田は初め、どうせ無駄で結果も決まっていると嫌がっていました。
だってファシズムって言ってますもんね、もう。
1935年、西田は文部大臣の諮問機関である教学刷新評議会の委員を、やむなく引き受けます。会には極端な日本主義者や国粋主義者が多く参加しており、西田は和辻哲郎宛ての手紙で「とてもあんな連中の中へ出て、我々の意見が通るはずもなし」と書きました。実際、1回目の総会に出たあとは出席していません。
それでも、1940年が近づくと西田は断り切れなくなり、講演もするようになります。1939年には京都大学で「君民一体の世界」という演題の講演をし、「学問的方法」という講演では、日本は皇室を中心として自己同一を保ってきた、そこに日本精神がある、という趣旨を語っています。
西田幾多郎が協力要請に応じていくまでの流れは、次のように整理できます。
要請の増加
政府が主張の根拠づけのため西田に協力を求める
拒否と嫌悪
評議会は1回出たきりで「無駄」と手紙に書く
断り切れない状況
1940年近くになり要請を断れなくなる
講演
皇室や日本精神に触れる講演をする
タッシーさんは、初期の西田哲学とは違い、自分の思想や言葉を天皇と結びつける強引さが感じられると話します。
しながわさんが読んでいる本の多くは西田の研究者によるもので、西田は戦争を肯定したのではなく、本当の日本精神を語ることで時代に抗おうとした、と擁護する論調のものもあるといいます。ただしながわさん自身は、評価は人によって分かれるとしたうえで、言葉だけ見れば戦争協力と取られかねない言葉が残っているのは事実だと述べています。
手紙が明かした西田の本音
しながわさんの所感では、残された手紙を読む限り、西田の気持ちは「大変なことになっているのは嫌だ」というものだったようです。1937年の和辻哲郎宛ての手紙で、西田は大きなアンダーカレント、つまり底流がぐんぐん流れており、いずれ押し流されるだろうと書いています。
同じ手紙で西田は、初めから出ないのは賢明だが、戦場に出て敗れてからやめるのも義務かと思う、という趣旨を記しています。しながわさんは、この「戦場」は議論の場のことで、出ていかなければ時代の流れを押しとどめられないと考え始めたのだと解釈します。
2年前の1935年と1937年とで、西田幾多郎の構えは次のように変わっています。
1935年: 性急に衝突せず、今は耐え忍ぶべきだ
1937年: 押し流されるとしても、議論の場に出るのが義務かもしれない
西田はこの時期、真の国家は他の民族とともに自己を形成する立場で統合するものであり、単に排他的な民族主義からは侵略主義や帝国主義が出てくる、という趣旨も述べています。しながわさんは、そうした考えには反対する立場が西田の正直な気持ちだったのではないかと感じつつ、「微妙、絶妙ですけどね」と付け加えます。
タッシーさんは、和辻さんたちが手紙を当局に漏らさなかったこと、そして周囲の人々が西田の手紙を残していたことに注目します。
西田が公に残していた講演の言葉とか、その当時残していた公の刊行物とかだけだったら、西田の本当のね、本音というか、思想が僕らもわからなかったかもしれないですね。
一方で、西田自身は自分宛ての手紙を全部捨ててしまっていた、という点も二人の話題にのぼります。
晩年の思想は、時代とどう出会ったのか
しながわさんは、西田の思想が純粋経験から始まり、自覚や場所を経て、行為的直観 ── 自分が世界に働きかけ、同時に世界が自分に働きかけるという関係の中で物を見る、という西田後期の考え方ですや創造的世界へとつながってきたと振り返ります。純粋経験を考えられていた時代は平和だった、とも話します。
タッシーさんは、『善の研究』を出版できた時代でよかったと言います。しながわさんも、晩年の西田は論文を出したくても出せず、死後に出版されたものや、原稿が空襲で焼けてしまったものもあると補足します。
あんなベストセラーには少なくともなってないですよね。このちょっと時代がね、10年、15年、20年ずれてたらね。
晩年の数年で、世界とは何か、本当の自己とは何かという普遍的で抽象的な問いが、時代そのものと出会っていきます。西田は「今日では世界が具体的となった」と述べ、日本も世界を肌身で感じざるを得ない時代になったと捉えていました。
この時期から西田は、東洋文化と西洋文化という言葉をはっきり使って語るようになります。論文では、西洋文化の根に深く入って把握するとともに、さらに深く東洋文化の根底に入ることで、人類文化そのものの本質を明らかにできるのではないか、と書いています。
西田はさらに、どちらかでどちらかを否定したり包み込んだりするのではなく、より深い根底を見出すことで両者が新しい光に照らされるのだと述べています。この考え方の組み立ては次のようになります。
タッシーさんは、これまで西洋哲学のアプローチでやってきた西田が、東洋の思想に深く触れることを自覚して打ち出した態度の変化だと受け止めます。しながわさんは、東洋文化が西洋に新しい見方を提供するという発想を「僕が今まさにしたいこと」と重ね、戦争の時代にそれを言い切っていた点をすごいと評価しています。
大東亜共栄圏の論理は、どこで危うくなるのか
しながわさんは、東洋と西洋の話まではよいとしても、その先には「これは大丈夫か」と思う言葉が出てくると話します。西田の論は、だからこそ東亜共栄圏 ── 日本がアジアの諸民族を欧米の支配から解放し、共存共栄を図るとした構想。実際には日本の侵略を正当化する標語として使われましたが大事だ、という方向へ入っていきます。
西田は、東亜民族はヨーロッパの帝国主義に圧迫され、植民地化され、世界史的使命を奪われてきたと述べます。そのうえで、東亜の諸民族が自らの使命を自覚し、一つの特殊的世界を構成して使命を遂行することが「東亜共栄圏構成の原理」だ、という趣旨を語っています。
なるほど、ここからこじつけ感がやっぱりありますね。
しながわさんは、ここが本当にきわどいところだと言います。太平洋戦争の歴史を知らなければ、自分たちの文化を新しく創造していくという話として「確かに」と思える面もあり、すべてが悪いとは言えない気もするといいます。
言葉としては利用されうるよなとも思うし、西田が本当にどこまでそれを思ったか、本当に思ってたかもしれないし、思ってないかもしれないし、わからないけれども。
タッシーさんも、どちらにも取れる言葉であり、日本がアジアの盟主として統一するのだという国家の論理に利用されそうだと応じます。しながわさんは、京都学派の人々が実際にそうした方向に与していったのも事実だと述べます。
しながわさんは、西田の哲学は時代や歴史から離れた形而上学的な言葉だけではなく、晩年には歴史とクロスしていくので、そこは知っておく必要があるとまとめています。
太平洋戦争の開戦を、西田はどう受け止めたのか
そしていよいよ太平洋戦争が始まります。西田はリウマチで京都府立病院に入院しており、手足を自由に動かせない状態でした。日記を書き続けていた西田ですが、この時期の日記は残っていません。
開戦のニュースを西田に伝えた弟子の様子は、「先生によって予見せられた日本民族の運命」という文章に残っています。弟子は、号外の記事を伝えたときの先生の憂慮に満ちた顔、大変なことをしでかしてしまったという満面の憂いを忘れられない、と書いています。
しながわさんは、これが本当であれば、西田の第一印象は「大変なことになった」だったようだと話します。開戦後も西田は、日本は負けるだろうと書簡でずっと書いていました。
西田はあるべき日本の姿を文章にして出しても、東條英機らの演説には反映されず、とても悔しがったといいます。
終戦の約1年前、1944年7月の手紙では、書斎の老書生が最初から憂慮していたところへ情勢が切迫しており、痛心の至りに堪えないと書いています。学者も文学者も深く考えずに便乗するばかりで、「今日ほど国家の思想貧弱を感じたことはありません」とも記しています。
開戦から1944年までの西田の受け止めは、次のように推移しています。
敗戦の前に、西田は何を見ていたのか
終戦の数か月前、西田は「日本民族自信を失うな」という趣旨の言葉を手紙に残しています。タッシーさんは、負けを見越したうえで、落胆しすぎず負けた後の日本を憂えた発言だと受け止めます。
力で負けても、道義的に、そして文化的に日本という国の歴史的な使命があるんじゃないかみたいな、そういう感じなんですよね。
しながわさんは、憲法改正などが議論される今、日本がどうプレゼンスを出していくかを考えるうえで、戦争に負ける前に西田が語っていた視点は示唆的だと話します。
西田は亡くなる直前、力を振り絞って文章を書いていきます。次の第15話で本編として西田の最期と最後の世界観を扱い、第16話で考察や感想を共有する予定だと、しながわさんは予告しています。
まとめ
第14話では、1930年代から太平洋戦争期にかけて、西田幾多郎が公の場での言葉と私信の本音のあいだで揺れながら、時代の濁流に向き合った姿がたどられました。戦争協力とも取れる言葉と、手紙に残る憂いの両方を知ることが、晩年の西田哲学を理解する鍵になります。
- 1930年代の西田は私信で政治の堕落を憂えつつ、公には耐え忍ぶ態度をとっていた
- 協力要請を断り切れず講演し、言葉だけ見れば戦争協力と取られかねない発言も残った
- 東洋と西洋から新たな世界文化を創るという晩年の思想は、大東亜共栄圏の論理と紙一重だった
- 開戦を深く憂え、敗戦を予見しながら、負けた後の日本の文化的使命まで見据えていた
- 周囲の人が手紙を残したことで、公の言葉だけではわからない西田の本音が今に伝わっている




