退官後の西田は、なぜ「穏やかな顔」になったのか
西田幾多郎編は4部構成で、今回は第4部「濁流」の2話目にあたります。前回は、京都大学教授を退官した西田が哲学に打ち込む時間を増やし、絶対矛盾的自己同一 ── 対立し合うものが、対立したまま一つであるという西田哲学の中心概念。個と世界の関係を捉えるために晩年の西田が展開しましたや行為的直観といったキーワードを打ち出した話が紹介されました。
しながわさんによれば、西田が本格的に時代の「濁流」に飲み込まれていくのは次回からです。今回はその前の「嵐の前の静けさ」として、退官後の私生活、とくに再婚の話を中心に扱います。
今日のエピソードは割と、穏やかな気持ちで。西田の人生、京都大学の教授を辞めた後の人生でどんなことがあったか。
再婚と聞いたタッシーさんは、当時60歳前後での婚活がどれほど一般的だったのかに強く興味を示します。しながわさんは、純粋経験などの話よりもここに一番食いついていると笑いつつ、再婚の話は後半に回すと予告しました。
退官後の西田の変化について、弟子たちは、もともと鋭くきつい表情だった西田が大学を退いてから一変し、穏やかで温かみのある人になったと書き残しています。晩年の西田は澄み切った美しい顔をしていた、という証言もあるそうです。
やっぱね、あの大学の先生ってのはそれはそれは大変だったんでしょうね。
タッシーさんは、かつて授業中に「わからん」と言って突然いなくなるような激しさがあった西田を思い出し、その変化に驚きます。
3人の娘を「片付ける」父の奔走
穏やかになった一方で、西田の哲学は悲哀から始まるとされるように、退官後の西田の生活にも悲しみや苦労がありました。その一つが、退職の前後に婚期を迎えていた3人ほどの娘たちの結婚です。
しながわさんは、ぶっきらぼうで哲学一筋に見える西田が、実は世話焼きで面倒見がよく、手紙もまめに書く人だった点を面白がります。妻の琴美さんが亡くなって4年ほど経つと、娘たちの縁談は西田自身が取り仕切るしかなくなりました。
西田は弟子への手紙で、年頃を過ぎた3人の娘がいて最も頭を悩ませている、早く真ん中の娘を片付けねばならない、と書いています。「片付ける」という言葉は、父親が娘を嫁がせるのが当然だった当時の価値観を表しているとしながわさんは説明します。
さらに友人への手紙では、娘の生涯を決めるのは親なのだからできるだけ親切を尽くしたい、と書いたうえで、焦ったり迷ったりする自分を「自分で自分を笑うほかありません」と振り返っています。
だからやっぱ哲学者らしいですよね、そこが。自分は提唱している超深い思想と全然違うことやってるじゃん、俺みたいな。
持参金4万円を「ほのめかしてくれたまえ」
縁談の苦労がとくに偲ばれるのが、三女の静子さんの話です。静子さんは体が弱いものの、油絵を学んで絵画の道を歩もうとしていた人でした。
静子さんの縁談を仲介した森本さんが、後年のエッセイに西田の言葉を残しています。西田は森本さんを呼び、著書が売れて印税が入ってきたので、4万円ほど静子に持たせてやりたいと打ち明けたといいます。
大学を出たての若い人は生活が苦しいだろうから、若い人の感情を傷つけるかもしれないが親としてはこうしたくなる、そこを先方に「ほのめかしてくれたまえ」と西田は頼みました。つまり、持参金がたくさんあると伝えてほしいという依頼です。
僕もこれわかんない。(でも)多分このためにお金を貯め続けていたから貧しかったかもしれないなって思いました。逆にね。
当時の4万円の価値について、しながわさんはネットで調べた不確かな情報としたうえで、1円が今の600〜800円ほどとすると2000万〜3000万円くらいになるかもしれない、と話しています。
ただ、静子さんは結局、生涯結婚しませんでした。西田は亡くなる半年ほど前にも、静子さんの体を案じる手紙を書き送っています。
「父の書いたものは見ただけで頭が痛くなる」娘たち
西田の娘たちは天真爛漫でユーモラスなところがあり、親の言うことを素直に聞くタイプばかりではなかったそうです。しながわさんはその例として、六女の梅子さんのエッセイを紹介します。
梅子さんは、偉い父親のことを周りから言われるのは圧迫を感じてあまり好きではない、『善の研究 ── 1911年刊行の西田幾多郎の処女作。「純粋経験」を出発点に独自の哲学を打ち立て、日本の近代哲学を代表する一冊とされます』を読んだかと気持ちも知らずに責めてくる人もいる、と書いています。そのうえ、父の書いたものは見ただけで頭が痛くなる、とまで綴っています。
やっぱりね、有名人のいわゆる2世の方のあるあるですよね。
縁談の結果は、うまく結婚した娘もいれば、結婚させたもののうまくいかなかった娘もいたそうです。奔走の末、西田は「持つまじきものの多かる世の中に、持つまじきもの女子にこそ」と詠んでいます。
持たないほうがよいものは世の中に多いが、娘ほど持ってはいけないものはない、という意味です。現代の感覚では引っかかる言葉ですが、二人はそれだけ娘を心配していたことの裏返しだと受け止めています。
この娘、この子たちがどうか幸せになってほしいっていう気持ちの裏返しなんでしょうね。
しながわさんは、裏返しであると同時に、明治・大正・昭和の父親としての義務感もあったのかもしれない、と付け加えます。
父と同じことをしていた西田 次男の結婚騒動
厳しさの一方で、西田には孫をかわいがる優しい一面もありました。その孫の両親である次男・外彦さんの結婚にも、ひと悶着がありました。
外彦さんの妻となる朝子さんは、もともと家庭教師や家事の担い手として西田家に入った人です。哲学者の家庭に憧れて来たものの、家の乱脈さに戸惑い、家庭を整え娘たちに勉強を教えるうちに外彦さんと親しくなりました。
ところが、男女の間柄に潔癖な西田の怒りを買い、朝子さんは一時、家を出て寺の僧房に住まなければならなくなります。西田は結婚にも反対しましたが、病床の妻・琴美さんの強い願いと、弟子で哲学者の田辺元 ── 京都学派を代表する哲学者。西田の後継者として京都大学で教え、のちに西田哲学を批判して独自の哲学を展開しましたの進言を受けて、ようやく同意したといいます。
二人がここで気づくのは、西田自身も若い頃、琴美さんとの仲を父親に一度引き裂かれた経験があることです。
でもまたお母さんなんかなんとかよりを戻して結婚できたのに、息子に全く同じことやってるんですね。
まあ若干西田の方がマシだと思いますけどね、僕はね。
ややマイルド。中辛くらいな感じですね。
タッシーさんも、父親のこういうところは嫌だと思っていたのに、年を取るほど似てくるものだと共感していました。
琴美さんとの仲を父に一度引き裂かれたが、母の取りなしもあって結婚にこぎつけた
次男・外彦さんと朝子さんの仲に怒って朝子さんを家から出し、結婚にも当初反対した
孫をかわいがる「よきおじいちゃま」
外彦さん夫婦には孫が生まれ、喜久彦と名づけられました。しながわさんは、「喜」の字が幾多郎の「幾」に通じ、父と自分の名前から取ったような名前だと読み解きます。
西田は孫を「坊主、坊主」と呼んでかわいがり、寝そべって話を聞かせたり勉強を教えたりしたそうです。梅子さんも、戦争末期に家を焼かれて傷心だった自分に慈愛の眼を注ぎ、子どもたちのままごとにも加わる「良きおじいちゃま」だったと回想しています。
これ全部ひっくるめて西田な気がしてて。
しながわさんは、西田は人徳者とも言い切れないが強い信念を持った人で、家族から見れば厄介な面もあった、そうした多角的な姿を知ってほしかったと語ります。タッシーさんも、近代の人物だからこそこれだけの証言が残っているのだと応じました。
早期教育と鉄拳 息子たちへの厳しさ
再婚の話の前に、しながわさんはもう一つ、西田の教育熱心さを紹介します。長女の弥生さんによれば、西田は早期教育に信念を持ち、幼稚園時代にアルファベットを、小学校4、5年頃には竹取物語や古今集を読ませたそうです。末娘の梅子さんも、数学が得意だった西田から代数や幾何を教わっています。
一方で、次男の外彦さんは、勉強を怠るとひどく叱られ、怒るとすぐ手が出た、それをかばう母と夫婦喧嘩になった、と回想しています。学校の運動選手になることでも、息子たちはよく父の逆鱗に触れたそうです。
朝子さんも、西田が時々爆発して外彦さんを激しく打ったり引きずったりし、そのあと書斎にこもってしまったと孫に語っています。再起不能の妻や娘たちの病気など、激するだけの理由も家の中にはあったといいます。
朝子さんは同時に、怒ったあと必ず反省していたこと、一人で賛美歌を歌っているとそっと部屋の外で様子をうかがっていたことも書き残し、西田を「一面激しく、一面優しい性格だった」とまとめています。
「哲学は千人に一人も成功しない」 息子の進路に反対
しながわさんは、息子たちへの厳しさの背景に、立身出世の時代でありながら西田自身がエリート街道を歩めなかったことがあるのでは、と見ています。
京大理学部で物理化学を学んでいた外彦さんが、哲学か文学に進路を変えたいと相談したとき、西田は思いとどまるよう説得しました。哲学には非常な努力を要するので、100人に1人、1000人に1人も真に成功する者はない、という理由です。
外彦さんは転学をやめ、神戸製鋼に勤めたあと甲南高校の教授になりました。反対を押し切って哲学に進んだ若き日の西田とは、対照的な選択です。
逆にね、そこまで言ってどうかっていうのを見たのかもしれないですけどね。
一方、弥生さんの長男とみられる孫は、同じく西田に難色を示されながらも京大文学部に進み、田辺元のもとで哲学を学びました。しながわさんは、男の子と女の子とで期待の持ち方は違っても、西田がどちらのこともとても気にかけていたことが垣間見える、とまとめます。
| 人物 | 西田の反応 | その後 |
|---|---|---|
| 若き日の西田 | 父の反対 | 押し切って哲学の道へ |
| 次男・外彦さん | 哲学への転向に反対 | 転学をやめ神戸製鋼を経て甲南高校教授に |
| 孫 | 哲学志望に難色 | 京大文学部で田辺元に学ぶ |
「今度は初めて真面目に考えるのだ」 西田の婚活
いよいよ再婚の話です。タッシーさんは、感情の起伏が激しい西田に良い相手が見つかるのかと心配します。
西田は、第四高等中学校の頃からの親友・山本良吉さんに手紙を送り続けていました。西田が受け取った手紙は捨てていたため残っていませんが、西田が送った手紙は多く残っており、そこから婚活の経緯がわかります。
妻の死から4〜5年後、西田は山本さんに、しみじみ人生の孤独を感じるようになったと書き、続く手紙では常識や理性の人よりも温かい感情のある人がいい、と伝えています。
2ヶ月後の手紙では、5年間子どものことに心を奪われてきたが、子どもの身の上が定まりかけるとともに深い孤独に堪えない、10年張りつめた心が反逆的に慰安を求めるのかもしれない、と打ち明けます。これまで勧められた縁談は一蹴してきたが、「今度は初めて真面目に考えるのだ」と結んでいます。
そこだけ急になんかデスマス調でずっと語ってたのに。考えるのだ。
「ヒューマンウィークネス」と最初の破談
その年の年末には、再婚相手にと思う女性が現れます。女子英学塾を出て高等女学校で英語を教えていた人で、和辻哲郎 ── 『風土』『倫理学』などで知られる哲学者・倫理学者。京都大学で教え、西田とも交流がありましたの夫人の後輩にあたり、朝子さんとも面識がありました。
ところが、理由はわからないものの、外彦さん・朝子さん夫妻はこの縁談に反対だったようです。それでも西田は二人に、深い孤独に打たれる、温かく静かな生涯を送ってみたい、と手紙で思いをぶつけます。
手紙には括弧書きで「私はそういうヒューマンウィークネスを多量に持った人間なのです」とまで書かれていました。しかしこの話は、伝記によれば相手の都合で実を結ばず、破談になります。
ね、息子に、いやちょっと俺、父ちゃん再婚したいんだよ、寂しいからみたいな。そんななんか悩み打ち明ける、ねぇ。
しながわさんも、本音をあらゆる手紙で吐露する西田は当時としては珍しいタイプかもしれない、と同意しています。
「着物をだらしなく着たおじいさん」との出会い
そして1931年、西田は山田琴さんと出会います。再婚を勧めてくれる人がいて、西田は岩波茂雄 ── 岩波書店の創業者。夏目漱石や西田幾多郎らの著作を刊行し、岩波文庫を創刊して日本の出版文化に大きな影響を与えましたにも相手の人柄を探ったといいます。何人もが山田さんを推薦していたそうです。
結婚時、西田は60歳過ぎ、琴さんは47歳ほどで、13〜14歳の年齢差がありました。二人は別荘で引き合わされますが、琴さんはそのときの西田の印象をこう回想しています。玄関に来た岩波さんの後ろに着物をだらしなく着たおじいさんが突っ立っていて、それが西田だった、と。
いや、よく結婚したな、ことさん。
しながわさんによれば、西田が着物をきちんと着ていないエピソードは伝記に昔から多いそうです。最悪とも言える初対面でしたが、そこから手紙のやりとりを重ねるうちに二人は惹かれ合いました。
9月7日に初めて会い、10月24日の西田の日記には「山田より手紙、問題決定」とだけ書かれています。結婚が決まったという意味のようです。12月7日には内輪の披露宴が開かれますが、琴さんは女子英学塾で教えていて忙しく、同居はもう少し後になりました。
弟子の高坂正顕 ── 京都学派の哲学者で西田の弟子。歴史哲学などを研究しましたが代表して再婚のお祝いを述べると、西田は「まだ実物は来ていないのだが」と答えたそうです。同居前であることを照れたこの一言が、微笑ましく耳に残ったと高坂は書いています。
「お父さんは日本の宝なのよ」 琴さんという人
琴さんは、一度離縁を経験したのち、津田梅子 ── 女子英学塾(現在の津田塾大学)の創設者。日本の女子高等教育の先駆者として知られますに勧められてアメリカに留学し、クリスチャンとして心理学などを学んだ人です。帰国後は女子英学塾で教え、塾長代理の星野あいさんを支えながら通訳や翻訳にも携わりました。
結婚後はそれに加えて西田の身辺の世話もしました。体を悪くしていた西田に琴さんがずっとマッサージをしているので、訪ねてきた親族がそんなにしなくてもいいのにと言うと、琴さんはこう答えたそうです。「お父さんは日本の宝なのよ。二人とない人なのよ」。
あのただのおじいちゃんじゃなかったと。
敬虔で真面目な琴さんは、やんちゃな西田の娘たちとうまくいかない面もありました。そこで西田は娘たちに、年に1回は便りをよこすよう求め、宛名は自分と琴さんの連名にするよう言っていたそうです。
夫婦仲はとても良く、気難しい西田に苦労したのではと聞かれても、琴さんは「とても優しくて叱られたことなんてありません」と答えていました。
隠れタバコを笑う妻と、星野さんへの最後の言葉
しながわさんが最後に紹介したのは、弟子が書き残したタバコのエピソードです。禁煙して間もない頃、琴さんが書斎に入ると、西田は吸いかけのタバコを慌てて揉み消して懐に押し込み、悪さを見つかった子どものような顔で振り向いたといいます。
琴さんは、吸いたければ誰も叱らないのだから、隠れて吸って着物に焼け穴を開けないでくれるほうがどれほどありがたいか、と言って笑っていたそうです。
奥さんとしても尊敬もしつつ、そういう可愛げもありつつ、割と物怖じせずに西田を転がせるタイプだったのかもしれない。
怒ると子に手を上げ、書斎にこもって後悔する激しい家長
妻に叱ったことは一度もなく、隠れタバコを見つかって決まり悪げにする夫
西田が先に亡くなった後も、琴さんはキリスト教の布教に力を尽くし、ヘレン・ケラー ── 視覚と聴覚の障害を乗り越えたアメリカの社会福祉活動家。来日して各地で講演しましたの講演通訳やベトナム戦争への抗議文の送付などを行い、1973年に89歳で亡くなりました。最期の言葉は「神様、早く連れて行ってちょうだい。星野さん、行くから待っててね」だったそうです。
なので最後は西田じゃないんだと思いました。
しながわさんは、女子英学塾をともに支えた星野あいさんの名を呼んで旅立った琴さんの生き方を、素敵だと語っています。
こうして穏やかな晩年を得た西田ですが、しながわさんは次回の予告として、このまま穏やかな余生を送ることを時代は許さなかった、と締めくくりました。タッシーさんはこれをNHKの歴史番組の名調子になぞらえて笑いつつ、濁流の始まりを楽しみにしています。
まとめ
京大退官後の西田幾多郎は、娘の縁談に奔走して自分を笑い、息子には父と同じような厳しさを見せ、孫をかわいがり、60歳を過ぎて琴さんという良き伴侶を得ました。全部ひっくるめて西田という見方が、この回の核心です。
- 退官後の西田は表情が穏やかになったと弟子たちが証言している
- 娘の縁談では持参金4万円をほのめかすよう仲介者に頼むほど奔走した
- 次男の結婚や進路への反対は、若き日の西田が父から受けた仕打ちと重なる
- 親友や息子夫妻への手紙で孤独を率直に吐露し、山田琴さんと再婚した
- 琴さんとの晩年は穏やかで、次回からは時代の「濁流」に巻き込まれていく


