「濁流」の幕開けで、西田哲学はどこへ向かう?
西田幾多郎編は4部構成で、第2部が「透角」、第3部が「躍進」でした。タッシーさんは、ポジティブな言葉が続いた後に第4部が「濁流」であることに、戦争へ突入する時代背景も重ねてドキドキしていると話します。
第二部が透角、第三部が躍進で、なんかいい感じのポジティブなワードだったじゃないですか。
濁流ですからね、ここから。
しながわさんはまず、前回までの流れをおさらいします。純粋経験、自覚、場所と進んできた「本当の私とは何か」という問いは、「絶対無から来る私という場所」という感覚で一旦完成したといいます。
これまでの西田哲学は、本当の私を探し続けてきたため、「私」という一人称の話が中心でした。しながわさんによれば、場所の思想でやっと他者や歴史や世界とつながれる入り口に立ったにすぎません。
そこで「濁流」のステージでは、他者・世界・歴史といった「私以外のものとの関係性」が大きくフィーチャーされていきます。しながわさんは、ここからギアが変わり、ここにこそ面白さがあると話します。
ステージ変わります。ギアが変わります。結構。
タッシーさんは、主客未分の考えでは私とそれ以外は完全には分かれていないが、とはいえ私はある、と整理します。しながわさんも同意し、西田は東洋思想一本ではなく、あくまでヘーゲル ── 19世紀ドイツの哲学者。対立するものがぶつかり合いより高い段階へ発展するという弁証法で、歴史や社会の発展を体系的に論じましたなど西洋哲学にのっとって論を進めると補足します。
西田は、究極には私は絶対無とつながっていると考えつつも、現実には社会や世界、個人が存在することを認めます。そのある意味で矛盾する二つをどうつなげるかに、焦点が移っていくのです。
なぜ西田哲学は「神秘主義」と批判されたのか?
西田の議論が発展した背景には、日本の歴史の移り変わりに加え、弟子たちからの批判がありました。代表的なのが、一番弟子とされる田辺元からの批判です。
しながわさんによれば、絶対無の話はどこか神秘的で、宗教のようにも聞こえます。そのため「それは本当に哲学なのか」という疑問が向けられました。
田辺の批判の一つは、以前の中世シリーズで扱った新プラトン主義 ── 3世紀のプロティノスに始まる思想。万物の根源である「一者」から世界が段階的に流れ出るように生まれるとしましたとの類似です。一者という神のようなものから全てが流れ出るという構図と、上下が逆なだけで同じことを言っているのではないか、という指摘でした。
まあなんかそういう、ちょっと神秘主義っぽくて哲学じゃないよねみたいな感じの批判とかもあったりしたので、それに対してどう答えていくかっていう歴史ですね。
「見る私」から「行為する私」へ
しながわさんは、世界や社会の話に入る前に、西田が純粋経験・自覚・場所・絶対無から一歩踏み出した思想として「行為」への着目を紹介します。
これまでの純粋経験や自覚は、私が観察する、私が場所の中の出来事を見る、というイメージでした。しかし西田は、私が私であることは、もっと行為によって基礎づけられていくと言い始めます。
歴史的な世界では、個人としての私と環境としての社会が、私の行為を通して相互に影響し合い、限定し合うと西田は論じます。タッシーさんも「全然違いますね、切り口が」と反応します。
しながわさんによれば、この転換の背景には、西田がこの時期にヘーゲル哲学を熱心に吸収していたことがあります。ヘーゲルは、社会と個は対立するものの、その対立が弁証法 ── 対立する二つの立場がぶつかり合い、その矛盾を乗り越えてより高い次元の考えが生まれるという思考法。ヘーゲル哲学の中心概念ですによってより強いものへ発展すると考えました。
社会が個人を作る
環境としての社会が、個人としての私を限定し形作る
個人が行為する
私は行為・行動を通して社会に働きかける
個人が社会を作る
個人の行為が社会を形作り、再び個人に返ってくる
上の図のように、社会が個人を作り、個人が社会を作るという循環するプロセスが強調されます。私という存在は、純粋経験や自覚、絶対無とのつながりだけでは説明しきれない、というのがこのフェーズの問題意識です。
「私と汝」は絶対に違うのに、どこかでつながっている
同じ時期、西田は論文「私と汝」で他者との関係を考察します。これまで私の周りのことしか出てこなかった西田哲学に、「汝」つまり「あなた」が登場するのも新しい点です。
論文「私と汝」での西田は、私と汝は絶対に他、つまり違うものであり、互いに限定し合う相対する関係だと述べます。一方で、私は汝を一個の人格として認め、汝も私を同様に認めるといいます。
私は自己の中に絶対の他者を見るし、絶対の他者の中に私を見る。つまりつながってるってことですね。
タッシーさんは、ポッドキャストで聞いた松波龍源さんの仏教の話を思い出します。右や左はそれ自体で決まるのではなく、お互いの関係性で決まるという話が、私と汝が関わり合いの中で限定し合う話と近いと感じたのです。
東洋思想がなんか絶妙に西洋哲学のアプローチの中になんか混ざってそうだなみたいな。
しながわさんは「いい直感」と応じます。龍源さんの話は縁起 ── あらゆるものは他との関係によって成り立ち、それ単独で存在するものはないとする仏教の根本的な考え方ですにつながり、両方とも実在しないという結論に向かうはずだと推測します。
西田は縁起のように「実在はない」とは言いません。ただ、絶対的な私が他者を観察するというデカルト的な考えではない点で、両者は共通しているとしながわさんは整理します。
物事は関係性で決まり、結論として双方とも実在しない
関係の中で限定し合うが、私と汝はそれぞれ存在し人格として認め合う
しながわさんは「私と汝」のイメージとして、海岸の二つの大きな岩を挙げます。満潮時は別々の岩に見えますが、干潮で潮が引くと、実は海中でつながっていたとわかることがあります。
だからどっちも事実みたいな、そんな感じなのかなと思いましたね。
世界は「行動して初めて」わかる?行為的直観
しながわさんは、西田が論文の中で「真の現実の世界は我々を包む世界でなければならない。我々がこれにおいて働く世界、行動の世界でなければならない」と述べていることを紹介します。これを西田は「行為的直観」と呼びました。
デカルト的な見方では、絶対的な私が世界を観察し分析します。西田はそうではなく、私は世界という場所に置かれ、世界と互いに限定し合っていると考えます。
私が世界を外から観察し、見て分析すれば理解できる
行動することで初めて世界を直観し理解できる
つまり行為的直観とは、ただ見て直感するのではなく、行動することによって世界を直感できるという考え方です。
原典には、弁証法的一般者やその自己限定など、ヘーゲルの弁証法から取った難しい術語が多く出てきます。しながわさんは、用語は置いておいてイメージを持ってほしいと話します。
西田の中でぶつかり合う3つの力とは
しながわさんが示すイメージは、3つの力のぶつかり合いです。世界や社会、環境が個人を強い力で限定する力と、個人が自由に行動し自分を表していくという西田の西洋哲学的な人間観があります。
その個人の行動っていうものが、さっき言った世界とか社会とか環境を作っていくっていう方向性もあるんですよね。だからバッチバチにぶつかり合ってる感じ。
さらにこれまで8話ほどかけて話してきた、個は絶対無や場所とつながっているという東洋的な感覚も加わります。西田は東洋思想だから全て道や太極とつながっている、というだけでは話は済まないのです。
| 力 | 方向 | 由来 |
|---|---|---|
| 社会からの限定 | 世界・環境が個人を形作る | ヘーゲル的な社会観 |
| 個の自己表現 | 個人が自由に行動し社会を作る | 西洋哲学的な人間観 |
| 絶対無とのつながり | 個は絶対無・場所とつながる | 東洋的な感覚 |
しながわさんは、この3つの緊張感は自分の解釈だと断ったうえで、哲学史的には前人未到の領域だと話します。
タッシーさんはなぜ「理解できる」と感じたのか
ここまでの感想を聞かれたタッシーさんは、自分の世界観と近いと答えます。主客未分でつながっているのはわかるが、自分は自分で、他者は他人、社会は社会だという感覚もあるといいます。
タッシーさんは、社会からの強い作用という発想に、西田が家族との別れなど抗えない運命を多く経験した「悲哀の哲学」が表れていると感じます。
もう絶対なんか強い作用を受けちゃう。どう考えても。絶対この運命抗えないって。でもその中でも、いやでもそれでも考えてる自分がいるしっていうのは確かだし
なんかそういうなんか絶妙に自分別れてるんだけども、結局全部繋がってるけれども、絶妙に別れてて、それぞれが作用し合いながらこの世の中成り立ってるみたいな世界観なのかなと。
しながわさんは、研究者の解説を引き、西田の著作はアダム・スミスと真逆だと紹介します。スミスは本を2冊ほどしか書いていませんが、西田は直感を言葉にし、批判を受けては書き直す「取って出し」のスタイルでした。
しながわさんは、西田哲学を15分で紹介できない理由はここにあると話します。タッシーさんがさらっと「限定」という言葉を使ったことにも、それが西田の言葉そのものだと驚きます。
日本一むずかしい哲学用語「絶対矛盾的自己同一」とは?
しながわさんは、3つの濁流が合流したこの状況をまとめる言葉として、「絶対矛盾的自己同一」を紹介します。タッシーさんも、最初に聞いたときは「なんやそれ」と思ったと振り返ります。
しながわさんの説明では、まず環境が個人を作り、自由意志はあまりないという考えが一つ成立します。一方で、西田は『善の研究』で、個人がその人らしさを発揮していくことこそが善だとも述べていました。
この2つがすでに矛盾しています。さらに純粋経験の話では、絶対的な個はなく、個をたどると絶対無とつながるとも述べていました。3つが全く違うことを言っているのです。
絶対に相反するものの自己同一なのである。つまり絶対的に矛盾するものが実は一つのものなんだっていう
しながわさんによれば、これこそが西田思想の核心です。純粋経験への心理主義という批判、世界を論じていないという批判、田辺の神秘主義という批判に対しても、自己限定や一般的限定という哲学の議論で応答できるようになりました。
ヘーゲルの弁証法と何が違うのか
しながわさんは、ヘーゲルとの対比でこの概念を説明します。ヘーゲルの弁証法は、対立するAとBがぶつかり合い、より高次のCが生まれ、その連続が歴史になるという考えでした。
矛盾が解消され、次、次とより高い段階へ進むプロセス
矛盾が解消されず、矛盾したまま世界という場所に残り続ける
西田はヘーゲルの弁証法を「過程的な弁証法」と呼び、絶対矛盾的自己同一を「場所的な弁証法」と呼びました。矛盾が矛盾したまま世界に残り続けることこそが世界の本当の在り方だ、というのが西田の行き着いた結論です。
しながわさんは、純粋経験に始まった西田の言葉は、このシリーズでは絶対矛盾的自己同一で終わり、ある意味で思想の集大成と言えるかもしれないと話します。
スター・ウォーズに見る「矛盾したまま生きる」感覚
タッシーさんは、順を追って説明されたことで、この世界は矛盾しているという感覚が腑に落ちたと話します。自分はいるけれど、一方で自分はいない、という感覚です。
タッシーさんは例として『スター・ウォーズ』を挙げます。主人公ルーク・スカイウォーカーはフォースに導かれてジェダイになりますが、敵を倒すのは自分の使命であり自由意志でもあるという点で、矛盾しています。
この世界のあり方も多分規定はできないし、矛盾してるだろうし、その中での自分のあり方も一方で個であり、一方でみんなと全部が繋がってる、もう無でありみたいな。
しながわさんは、純粋経験も絶対矛盾的自己同一も、一見荒唐無稽に聞こえるが、順を追えば「確かにそんな感じだよな」となると応じます。タッシーさんも、デカルト、カント、ヘーゲルに引けを取らない深みを感じたと話します。
戦時下の思想と、晩年の西田の意外な一面
しながわさんは、絶対矛盾的自己同一が1930年代後半から40年代の思想である点を強調します。西田の弟子が思想犯として検挙されるなど、社会からの限定が極めて強い時代でした。
社会からの限定、個からの限定、東洋とのつながり、そのいずれも否定しないところに行き着いたのがこの言葉です。思想の解説としては、この回で一番難しい部分を終えたといいます。
しながわさんは次回以降の予告として、西田の思想と日本の歴史とのつながりに加え、60歳前後の西田が再婚のために熱心に婚活した話も取り上げると明かします。タッシーさんは驚きつつ、人柄が伝わるいい話だと聞いて期待を寄せます。
まとめ
西田幾多郎の思想は、「本当の私」の探求を終えたあと、行為を通じて社会や他者と限定し合う関係へと展開しました。社会からの限定、個の自由、絶対無とのつながりという矛盾する3つの力を、矛盾したまま一つと捉えたのが「絶対矛盾的自己同一」です。
- 西田哲学は「私」の探求から、他者・社会・歴史との関係へとギアを変えた
- 行為的直観は、見るだけでなく行動することで世界を理解するという考え方
- 「私と汝」は絶対に違うのに、海中でつながった岩のようにどこかでつながっている
- 絶対矛盾的自己同一は、矛盾が解消されず場所に残り続ける「場所的弁証法」
- 戦時下の強い社会的限定の中で、西田はいずれの力も否定しない思想に行き着いた


