絶対無の話から、なぜ人生の物語へ戻るのか
西田幾多郎編は、頭角、躍進、濁流という4部構成で進んできました。今回は第3部「躍進」の最終回にあたります。
前回までは、純粋経験から自覚、場所、そして絶対無へと、西田の思想が難しく展開する話が続いていました。しながわさんは、ここでいったん思想から離れ、西田の人生に話を戻すと切り出します。
かなり自覚から来て、場所に行って、絶対無と、相当難しい話が続いたので。この躍進の最後、また西田の人生に戻って、人生シリーズの話をしたいと思います。
扱う範囲は、京都大学を退官する頃までです。ようやく書斎を手に入れたという前回までの流れを受けて、ここから西田の後半生に何が起きたかをたどっていきます。
次女、母、妻、長男。西田を襲い続けた家族の死
この時期の西田の人生には、悲しいことがたくさん起きます。しながわさんは、西田が家族の死をきちんと悲しむ人だったことも、その人柄を表していると話します。
時代をさかのぼると、『善の研究』が出る少し前の1907年、次女が4歳で亡くなります。同じ年に生まれた双子のうち、5女の愛子さんも翌月に亡くなり、この年に2人の子どもを失いました。
京都大学に赴任してしばらく経った頃には、母のとささんが亡くなります。母は一時期一緒に暮らし、西田にとって理解者でもありました。
西田は母の死を短歌に詠んでいます。「昌く途角でお送りし我が母の老いたる姿今に忘れず」。「昌く」は無事にといった意味で、元気だった母が老いていた姿を思い出す、という歌だと説明されます。
1919年には、妻の琴美さんが脳溢血 ── 脳の血管が破れて出血する病気。当時は死や重い後遺症に直結することが多く、突然倒れる形で発症しますで倒れます。30年連れ添った妻は、5年間の病床を経て1925年に亡くなりました。
30年間人生を共にした彼女は、小さい壺の中の白骨となって帰ってきた、と日記に書いてるので。
長女の上田やよいさんは、母について「子供を育て、家を守るということ以外、脇目も振れなかった女だ」「父の研究に妨げにならないよう、何もかも家に関したことは背負っていく女だ」と書き残しています。夫の研究を支え続けた人だったことがうかがえます。
西田も妻の死を深く悲しみました。亡くなって2年後、友人に宛てた手紙にはその喪失感がはっきり書かれています。
自己の過去というものを構成していた重要な要素が一時に亡くなるとともに、自分の未来というものもなくなったように思われた。
喜ぶべきものがあっても、共に喜ぶものもない。悲しむべきものがあっても、共に悲しむものもない。
さらに、妻が倒れた翌年には、高等学校に在籍していた長男が腹膜炎 ── 腹部の内側を覆う膜に起きる炎症。放置すると重症化しやすく、当時は治療が難しく命に関わることがありましたをこじらせ、23歳で急死します。
葬儀でもらった香典で、西田はカント全集やフィヒテ全集を長男の学校に寄贈しました。その全集の表紙裏には「健やかに二十三まで過ごしきて夢のごとくに消え失せし彼」という歌が書かれていたと伝えられます。
長男が着ていた破れたコートを、西田は形見として着ていました。破れている理由を尋ねられて形見だと答え、涙を耐えられなかったというエピソードも残っています。
タッシーさんは、この背景に時代の事情もあるのではと指摘します。富国強兵期の京都大学教授といっても家計は苦しく、当時の医療水準では病気が死に直結しやすかったのではないか、という見方です。
しながわさんも、西田は幼少期から青年期、そして子を持つ年齢になってもずっと家族の死とともにあった人生だと整理します。その上で、この悲しみが彼の哲学を作っていく側面もあると付け加えます。
京都学派とは「西田と愉快な仲間たち」だった
話題は京都学派に移ります。西田幾多郎と、その周囲に集まった研究者や弟子、同僚たちを指す言葉です。
ただし、京都学派には明確な思想的な区切りがあるわけではありません。哲学分野に限らない人たちも含まれ、西田に賛成する人もいれば、まったく違う考えを持つ人もいたと説明されます。
西田と、愉快な仲間たちというか、西田と一緒にいろんなことを考えた、この時代に集まった思想家たち、っていうイメージが、この京都学派だと思ってもらってもいい。
一番弟子とも思想的にぶつかり、周囲がヒヤヒヤするほど意見が衝突することもあったといいます。西田はそれを許し、むしろ楽しんでいた面もあると話されます。
弟子の回想では、京都学派は「先生の人格を中心として結びついたもので、いわゆる学派というようなものとは違っていた」とされています。西田自身も学派を作ろうとは考えず、門弟が自分と違う考えを持っていても分け隔てをしなかったと語られます。
タッシーさんは、これが重要な点だと受けます。全員が崇拝者だったら思想は発展しなかったはずで、「それは違う」とぶつけられたからこそ発展できた、という見立てです。
西田の思想って結構、批判されたことによって、「あ、そっか」みたいな。純粋経験から自覚、自覚から場所、そして絶対無に行って、またこれからもそういう進化があるんですよ。
弟子の回想では「先生くらい門弟の個性を自由にも発展させた人も少ない」とも語られています。しながわさんは、西田自身が個性を爆発させたい人だったからこそ、結果的に西田哲学を前進させたのではと解釈します。
合言葉は、ドイツ語で「自分で考える」を意味する言葉だったといいます。主体的に考える姿勢が共有され、明確な学派というより、その時に集まった集団として京都学派があった、とまとめられます。
絶対無の思想は、なぜ戦争責任と結びつけられたのか
京都学派には、もう一つ避けて通れない文脈があります。戦後、太平洋戦争が終わった後の戦争責任です。しながわさんは、京都学派という言葉がこの責任、あるいは戦争への加担というイメージで語られることが多いと説明します。
具体例として、田辺元の「種の論理」が挙げられます。国家と個人が密接につながり、これからの東洋的な精神を体現するのは日本で、個人もその精神の一部だ、といった主張につながる意見があったとされます。
1940年代初めには、京都学派の人たちが参加する座談会が雑誌に取り上げられました。「世界史的立場と日本」「近代の超克」といった言葉は有名で、大東亜共栄圏の建設や、西洋近代の乗り越えといった話が語られたのは事実だとされます。
しながわさんは、これらが大東亜戦争や特攻の精神へとつながっていく文脈になりかねないと指摘します。前回まで話してきた絶対無の議論も、切り取り方次第でそこへ結びつきうると認めます。
切り取り方によって、日本国民と、日本という国家と、集合体みたいな。
しながわさんは、京都学派が戦争に対して一定の責任を負う、あるいは加担した面はおそらく事実だとしつつ、どこまで責任を言えるかは今も意見が固まっていないと補足します。
一方で、西田本人については、戦争に積極的ではなかった印象だと話します。加担したと言われかねない言葉も残っているが、京都学派全体と比べれば、戦争を憂う言葉を多く残していた、という見方です。
それでも西田は利用されてしまいます。当時は国のために話してほしいと求められる時代でもあり、嫌だと思いながら応じた面もあるため、責任はゼロではないだろうとしながわさんは述べます。
無口で恐ろしく、それでいて憎めない西田の人物像
続いて、西田の人物像が語られます。京大教授になってからは、ずっと黙っているかと思えば急に発言するなど、独特な雰囲気の人だったと振り返られます。
弟子たちからは、基本的に無口だが、たまにブチギレると「デーモンのように怒った」と恐れられていたといいます。ただそれは単なる怒りというより、思想への強い熱量の表れだったと説明されます。
授業では、西田はノートをあまり使わず、考えながら話しました。ある学生の証言では、熊のように教壇を行ったり来たりして講義していたといいます。
そして途中で話が止まり、しばらく考え込んだあと、思いがけない行動に出ます。
急に「分からん」と言って、講義をやめて、さっさと帰ってしまいがちなんです。
さらに驚くのは学生側の反応です。学生たちは「分からん」という言葉に感動して教室を出た、と証言に残っています。
いや、ちょっとよくわかんない。それが分からんわ、それが。
しながわさんは、これを教祖への崇拝ではなく、それほど真剣に考え抜いて講義していたことへの感動だろうと解釈します。手なりではなく本気で考えていたからこそ、学生も心を動かされたのではないか、という見立てです。
一方で、西田には人情味の深い、世話焼きな一面もありました。娘や家族だけでなく、同僚や弟子の成功を気にかけ、周囲に配慮を求める手紙が数多く残っているといいます。
西田が招聘した和辻哲郎は、ドイツ留学中にいち早く手紙をもらいました。その様子を、和辻は妻への手紙にこう書いています。
あのじいさん、何も知らんような顔をしながら、なかなか細かいことよく気がつく。
三女の志津子さんが京大の研究室で働くことになった際にも、西田は手紙を送りました。西田教授の娘としてちやほやされるであろうことを見越し、決して威張らず、謙虚に感謝して働くよう諭す内容でした。
さらに面白いのは、西田が友人には多くの手紙を書きながら、自分に来た手紙は全部捨てていたという逸話です。研究者として過去の哲学者の書簡の価値を知っているはずなのに、フッサールら著名な西洋の哲学者からの手紙も残っていないと語られます。
一見ね、不愛想でぶっきらぼうに見えて、やっぱ人のことよく観察してて。
京大退職と「哲学は人生の悲哀から始まる」という結論
1928年、西田は京都大学を退職します。本来60歳が定年でしたが、生年の事情により58歳から59歳で定年を迎えました。
西田は退職をほっとして受け止め、責任を終えて一人の思想家として思想を発展させられると語っています。実際、退職後は論文や書籍を精力的に発表していきました。
退職について、西田はこんな言葉を残しています。前半生と後半生を、黒板を挟んだ位置の変化にたとえたものです。
その前半は黒板を前にして座していた。この後半は黒板を後ろにして立っている。黒板に一体感を成した。
そして晩年の論文で、西田は哲学の出発点について有名な言葉を記します。ここに、この回でたどってきた人生と思想が一つに結びつきます。
しながわさんは、この言葉の意味を丁寧に説明します。古代ギリシャ以来、哲学は真理を発見する喜びや驚きから始まるとされてきました。デカルトの回で語ったように、そこには「真理はこうなっているんだ」という喜びがあったといいます。
西田はそれを否定し、哲学は人生の悲哀から始まると言い切りました。今回たどった家族の死の連続が、まさにこの思想につながっていると解釈されます。
しながわさんは、西田が求めていたのは世界観や「私とは何か」であり、その一番奥にあったのは「どう生きるか」だったと整理します。いかに生きるべきかという問いは悲哀から出てきており、その答えを探すなかで、これまで語ってきた世界観や人生観へ行き着いた、という見立てです。
次回からは、いよいよ第4部「濁流」に入ります。しながわさんは、一人の人生としての悲哀が、日本全体の悲哀や歴史への悲哀へと広がっていく時代に入ると予告します。
時代の濁流にどう巻き込まれていく。でもそれは濁流に巻き込まれるだけではなくて、そこからどういう哲学を発展させていくか、っていうところが第4部の次回から。
1920年代後半から1945年は時代が大きく動く時期であり、しながわさんは「ここからが本番」と位置づけて第3部を締めくくりました。
まとめ
第3部「躍進」の最終回は、絶対無をめぐる難解な思想からいったん離れ、京都大学退官までの西田幾多郎の人生をたどりました。家族の死を悲しみ続けた後半生と、そこから生まれた「悲哀の哲学」が、この回の核心です。
- 西田は子ども、母、妻、長男と、家族の死を繰り返し経験し、そのたびに深く悲しんで歌や手紙に残した
- 京都学派は明確な学派ではなく、西田の人格を中心に集まった多様な思想家の集団で、批判が西田哲学の発展を支えた
- 絶対無の思想は切り取り方次第で戦争責任と結びつけられ、京都学派の加担は事実とされるが、その範囲は今も議論が分かれる
- 西田は無口で恐ろしい一方、世話焼きで人情味が深く、弟子や家族への配慮の手紙を多く残した
- 晩年の西田は「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」と記し、自らの喪失の人生が思想の源泉になった




