復習と、今日のキーワード「場所」
前回は、純粋経験だけでなく、それを反省する「自覚」という概念まで話が進みました。西田がずっと探し続けてきたのは、真正の自己、つまり本当の自分とは何かという問いです。
その探求の道筋を、しながわさんはこう振り返ります。
西田がこう求めてきたものは、真正の自己、本当の自己って何だろうって、これを探求し続けてきましたよという話を初めからしていて。
純粋経験から始まり、その後、統一的あるものとか、そういう言葉もあったりとか。前回、自覚とか、あと絶対自由意志みたいな、自覚の奥にあるこう創造力みたいなものを含めて、これが本当の自己っていうものの正体なんじゃないかっていうところまで来て。
そして今回のキーワードとして提示されたのが「場所」です。
今日のキーワードは場所です。
場所ね。なんか一般的な言葉すぎて。
日常でしょっちゅう使う言葉すぎて、聞くたびに西田を思い出すのは疲れる、とタッシーさんはツッコミます。それでもしながわさんは、この言葉こそ西田哲学の転換点だと強調します。
なぜ「場所」が西田哲学の転換点なのか
「場所」という概念は、京都大学在籍のかなり後半にようやく行き着いたものです。禅の研究を出してから20年近く経った、退官少し前のことでした。
西田哲学と呼ばれるようになったのも、この「場所」の論文あたりからだと、しながわさんは説明します。
西田哲学っていう風に呼ばれたのも、この場所の論文くらいからなんです。ある人がこれ西田哲学って呼び始めたんですね、この頃から。
西田自身も、禅の研究の版を新しくするときに、この論文へ至る道筋をこう記しています。純粋経験から自覚、絶対意志へと進み、ギリシャ哲学を返して「場所」に至った、と。
そこに私は私の考えを論理化する端緒を得たと思うというふうに言っていて。
つまり、「場所」によってやっと自分の考えを論理的に説明できるようになった、というのが西田本人の実感でした。ここから西田哲学は世界の哲学へとつながっていきます。
世界的にも結構知られてる哲学者ってことなんですか。
西田幾多郎は世界の哲学の思想史においても、リストに載る人って言っていいと思います。
自覚では、まだ何が足りなかったのか
「自己が自己を見る」という自覚の立場について、西田はまだ不十分だと感じていました。言いたいことを言い当てられていない感覚があったのです。
しながわさんは、不十分だった点を2つに整理します。
- 「自己が自己を見る」だと、まだ主観主義・心理主義の要素が残ってしまう
- 「自己が」と言うと、主観と客観が分かれている感じが残ってしまう
もともと西田が純粋経験で言いたかったのは、主客が分かれる前の状態でした。しかしそれだけでは哲学にならないため、反省を含めて「自覚」とした。すると今度は「自己が」という言い方に主客の分離がにじんでしまう。そのギリギリのラインを攻めていたわけです。
なんかフローと同じ感じで、もう主も客も分かれていない状態のことですもんね。
そう、を言いたい。
この行き詰まりを抜けるために西田がたどり着いたのが、「自己が自己において自己を見る」という表現でした。この「において」の部分こそが「場所」だと、しながわさんは言います。
「場所」とは何か。ドーム空間の視点転換
場所は、物理的・空間的な場所そのものを指すわけではありません。純粋経験や自覚といった作用が現れる「場」を指しています。
タッシーさんは、時間と空間という2つの軸から捉え直します。自覚は昨日の自分を思い出すといった時間的な感覚であり、それがどこで起きているのかを問うと空間的な「場所」が出てくる、という整理です。
私っていうのはこの心そのものでもないし、デカルトが言ったみたいに。この肉体、物体としての肉体でもないし。過去を反省するっていう、その作用だし、それがじゃあどこで行われているかっていうと、まさに場所っていう。
しながわさんが提示したのは、ドーム空間のイメージです。これまでは自分がカメラを持って、夕日を見て「綺麗だな」と感じる純粋経験を自己だと考えていた。しかしそうではなく、そのカメラを回している様子を上から見ているドーム空間自体が「場所」であり、それが私だ、というのです。
そういうことをやってるのを上から見てる。このドーム空間自体が場所って言われていて、それが私だよねっていう、なんかそんな感覚。
一人称の視点で見えるものを「私」と考えがちですが、西田はその視点をぐるっと反転させ、経験を時間的にも空間的にもまるっと包み込んでいるものを「場所」と呼んだのです。
自分がカメラを持ち、見えたもの(夕日を綺麗と感じる純粋経験など)を自己だと考える一人称の視点
そのカメラを回している様子を上から俯瞰し、経験を包み込むドーム空間そのものを自己だと考える視点
アリストテレスの「主語の論理」との対比
なぜ「場所」に至ったのか。その説明にはアリストテレスが重要人物として登場します。西田は自分の論理を「述語の論理」、アリストテレスの論理を「主語の論理」と呼びました。
「この鳥は鶏である」「この鳥は小さい」といった文で、「この鳥」にあたるのが個物であり基体です。基は基本の基だと補足されました。
西洋哲学において基体っていうのは、小さいとか人懐っこいというのは属性なんですよ。属性とか後から付与された性格みたいな感じ。
この鳥が大きくなっても、人懐っこくなくなっても、「この鳥」であること自体は変わりません。主語にずっと変わらないものを置き、そこに属性が付いてくると考えるのが、アリストテレス的な「主語の論理」です。
視点を反転させる「述語の論理」と場所のつながり
西田は、主語の論理だけでは世界の本当の姿を説明しきれないと考え、今度は述語のほうに着目します。
「この鳥は鶏である」という文を、この鳥が「鶏」に包まれている、と捉え直すのがポイントです。タッシーさんは、普段の感覚とは逆だと気づきます。
この鳥、わかるんです。この鳥の中の鶏。
普段逆なのはその西洋哲学的な、アリストテレス的な感覚を持ってるから。
この鳥は鶏に包まれ、鶏は動物に、動物は生物に包まれていく。特殊なものが常に一般的なものに包まれ、どんどん連続して発展していくという見方です。
この鳥
個物としての出発点
鶏
この鳥が包まれる場所
動物
鶏が包まれる場所
生物
動物が包まれる場所
これを「において」で言い換えると、この鳥は鶏という場所においてあり、鶏は動物という場所においてある、となります。「包まれている」を「場所においてある」と言い換えているわけです。
さらに、この花も、私も、男性も、たどっていけば全部「生物」という述語にすっぽり包まれる。まったく違う個物が、根っこでつながっていくのです。
この鳥とかこの花とか私とかって全然違う、なんかものだった個物が最後、全部生物っていう述語にすっぽり包まれてる。生物という場所において私たちがこう動いてるっていう感覚。
これを究極まで押し進めると、鶏も花も私もタッシーさんも森も山も、最後は1つの巨大な述語に包まれることになります。しながわさんは、それを元気玉の「元気」やスターウォーズの「フォース」のようなものだと例えます。
場所が開いた「他者や世界とのつながり」
究極までたどり着いた場所を、西田は「無の場所」「絶対無の場所」と呼びます。すべてがそこに包まれていると言えると同時に、視点をもう一度反転させると、あらゆる個物はその究極的な何かの現れである、とも言えます。
視点をまたぐるっと変えると、あらゆる個物はこのなんか究極的な何かの現れであるとも言えるわけですよ。
しながわさんは、場所を2つの段階で整理すると分かりやすいと言います。
この整理の意味は、本当の自分を探し続けた末に、やっと他者や世界とつながっていく論理が手に入ったという点にあります。純粋経験や自覚のままでは、それがうまくできなかったのです。
主客が分かれた西洋的な見方を反転させ、私を「場所」として捉える。そこから世界や歴史とつながる理論へと進む土台ができた、というのがこの回の核心です。
「場所」を日常でどう感じるか
最後に、タッシーさんは冒頭のツッコミに戻ります。飲み会の場所を聞くたびに、全員とつながっていると自覚すればいいのか、と。
しながわさんのおすすめは、もう少し手前の感覚です。「何々においてある」と思ってみることだと言います。
その飲み会が会社だったら、自分が会社においてある存在なんだなっていうふうに思えるし、地元の友達なんだったら、この地元においてある存在なんだな。
自分が置かれている基盤をイメージし、自分の根拠を感覚として感じられる。それが究極的には、世界や宇宙全体とつながっている感覚へと広がっていきます。次回は、その「絶対無の場所」をさらに深めていきます。
まとめ
西田は、主客が分かれた西洋的な物の見方を反転させ、私を「場所」として捉えることで、純粋経験や自覚では届かなかった他者や世界とのつながりを説明する論理を手に入れました。難しい概念ですが、ドーム空間や述語の論理の具体例を通して、その視点の反転が見えてきます。
- 西田は「自己が自己において自己を見る」とし、「において」にあたる場所を新たな鍵とした
- 場所は物理的な空間ではなく、経験を包み込む場であり、一人称の視点を俯瞰へと反転させる発想
- アリストテレスの「主語の論理」に対し、西田は特殊が一般に包まれていく「述語の論理」を立てた
- 述語をたどると、すべての個物は根っこでつながり、究極の「絶対無の場所」に至る
- 場所の概念によって、本当の自分の探求が他者や世界とのつながりへと開かれた





